「JATEC」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 08:13 UTC 版)
「ベトナムに平和を!市民連合」の記事における「「JATEC」」の解説
小田ら運動の中核となった少数の幹部は、違法な手段を使いアメリカ軍の「良心的脱走兵」の逃走支援も行い、これらの活動はベ平連とは別に「JATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs―反戦脱走米兵援助日本技術委員会)」として運営された。 1967年に、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦「イントレピッド」からの4人の脱走兵を、横浜港でソ連極東部のウラジオストックへ向かうソ連の定期船に違法に乗船させ、モスクワ経由でスウェーデンに入国させたことから、「イントレピッド4人の会」が結成され、さらに脱走を援助する組織として「JATEC」が武藤一羊により命名された。栗原幸夫が指令役になり、吉岡忍、山口文憲、阿奈井文彦などの若手メンバーが実動役を請け負った。 だが、1968年にアメリカの情報機関の工作員であるラッシュ・ジョンソンが脱走兵のふりをして侵入したことにより(“ジョンソン”が本名だったのか、また所属機関は今も不明)、同行して釧路に飛んだ脱走兵のジェラルド・メイヤーズが、11月5日に日本の警察に逮捕され、アメリカ海軍に引き渡された。メイヤーズの乗ったレンタカーを運転していた山口文憲は、自宅で見せたモデルガンを本物の銃と誤認したメイヤーズの供述により、翌1969年2月15日、銃刀法違反容疑で逮捕された(当時はモデルガンの第一次規制前で、のち釈放)。また、メイヤーズが隠れていた高橋武智宅も家宅捜索をうけた。 JATECが正規の出国手続きを踏まない形での国外逃亡の幇助など、日米法体系上の盲点を脱法行為も伴う手段を用いて日本から脱走兵を秘密裏に出国させたものの、その数は数人に留まり、多くの脱走兵はアメリカ軍へ帰還した。1968年2月15日の「山口逮捕、高橋宅捜査」以降、JATECは方針を変更し、高橋武智をリーダーとして「脱走兵の国内潜行援助」、パンフレット『脱走兵通信』『ジャテック通信』による宣伝活動、そして在日アメリカ軍基地周辺での「反戦GI運動支援」活動を行った。
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