ぶんげいじだい【文芸時代】
文藝時代
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『文藝時代』(ぶんげいじだい)は、日本の文芸雑誌。1924年(大正13年)10月に金星堂から創刊された[1][2][3]。誌名は「宗教時代より文藝時代へ」という意図で、発起人の川端康成により名付けられた[4][3][5]。
注釈
- ^ 多くの人々が大量の死を目の当たりにし、死んだ肉親や恋人を追い求める悲しい心理から、それまでの合理主義に代るような、神秘主義的な心霊科学も世界的に大流行した[19]。
- ^ 平戸廉吉はパンフレットを撒布した翌年の1922年(大正11年)に29歳で亡くなった[33]。
- ^ アンリ・バルビュスらの『Clarté』(「光」の意)グループの影響下にあった小牧近江による『種蒔く人』は、日本で初めて第三インターナショナルを紹介した政治色の強い雑誌であった[22]。
- ^ 北村喜八は、その翌年1924年(大正13年)10月に新詩壇社から『表現主義の戯曲』という著書を出版した[17][7]。
- ^ 「岐阜一件」とは伊藤初代との婚約破談の一件のこと(詳細は伊藤初代を参照)。
- ^ 当時は社会運動の昂揚期であったが、隣国のロシア革命による悲惨な殺戮やロシア皇帝の惨殺などの過激な話も伝わり、次は日本の番かもしれないという革命法廷の恐怖心から、保身術や事前の免罪符として進歩的な言説やうわべでプロレタリア文学を書いているだけのインテリ知識人や似非左翼も中には多くいたとされる[41]。
- ^ これに関し後年菊池寛は、その後の日本が「思ひも依らぬ大反動時代」に入ってしまったことを、「だから、大正末期に於ける共産主義の勃興が、あれほど激しくなかつたならば、日本は徐々に、民主々義化社会主義化の道を辿つたのではないかと思ふ」として[49]、政府がその過激な共産主義を弾圧しなければならなかったとばっちりを喰らい、他のあらゆる「進歩的な、自由主義的なもの」や「社会主義的なもの」までもが巻き添え的に一緒くたに弾圧されてしまったのだと語っている[49][48]。
- ^ 『文藝春秋』創刊号の同人は、芥川龍之介と久米正雄のほか、小島政二郎、岡栄一郎、佐佐木茂索、山本有三がいた[44][7]。
- ^ 芥川龍之介も菊池寛同様に左翼作家からブルジョア作家として批判の的になっていた[57]。
- ^ 『文藝春秋』2号から加わった同人は、川端康成、横光利一のほか、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、今東光、児島健三、小山悦郎、小柳博、斎藤龍太郎、佐々木味津三、鈴木氏亨、船田享二、南幸夫がいた[59][44][20][7][56]。
- ^ 「不逞鮮人」が犯罪や暴動を企んでいるという流言から、多くの朝鮮人や、朝鮮人と誤認された人々が自警団に虐殺された悲惨な事件(関東大震災朝鮮人虐殺事件)や、無政府主義者の大杉栄や労働運動家の平沢計七が憲兵などに殺される事件もあった(甘粕事件、亀戸事件)[21][22]。
- ^ 例えば、谷崎潤一郎は震災を機に関東から逃れ関西地方に拠点を移し[76][21]、堀辰雄は、溺れた母を探し隅田川を数日間泳ぎ回って自身も死にかけ、その時の疲労による肋膜炎が元で宿痾の結核を発病することになる[77][78]。
- ^ この時に行方不明となった横光利一を探すため、『文藝春秋』同人を引き連れた菊池寛が、「横光利一、無事であるか、無事なら出て来い」と書いた幟旗を立てながら、目白台、雑司が谷、早稲田界隈の被災地を歩き回る姿が目撃されており、小島徳弥が「焦土だより」として生家の広島県に避難した井伏鱒二に手紙を送っている[81][51]。
- ^ プロレタリア系雑誌『種蒔く人』の廃刊は、政府による度重なる発禁処分の影響もあった[22]。
- ^ 復刊11月号は、室生犀星が住んでいた田端の家(室生が震災時に郷里の石川県金沢市に逃れて空き家になっていたので菊池が一時借りて住んでいた)を編集所として、この号から菊池の弟子の那珂孝平や、後輩の中河与一が新たに『文藝春秋』同人に加わった[41]。
- ^ 『文藝春秋』は復刊後も飛躍的に売上げを伸ばし、執筆者の確保のため、やがて総合雑誌へ方向転換することになる[44][45][58]。
- ^ 横光利一はその前段で、20歳から25歳までに書いた初期作品(「蠅」「笑はれた子」「御身」「赤い色」「落とされた恩人」「碑文」「芋と指輪」「日輪」)の時期には、「何よりも芸術の象徴性を重んじ、写実よりもむしろはるかに構図の象徴性に美があると信じてゐた。いはば文学を彫刻と等しい芸術と空想したロマンチシズムの開花期であった」としている[88]。
- ^ この時代は「太陽冷却説」「地球滅亡説」などが人々の間で真面目な話題になっていた時代で、片岡鉄兵は、「殺人的意志を表し始めた機械文明」「産児制限の理論的承認」「左傾右傾団体の暴力的表現」なども、人類滅亡を予感させる事象として挙げた[98][19]。
- ^ 「発想法」の意味については、頭の中のとりとめもない想念は本来「自由連想」的で、その主観的・直観的なものを他人に話したり、文章という没個性的・非主観的な媒体に書き現わしたりする時には通常、自分の心象を選択・整理して言葉や文字に移す作業が要るが、この選択・整理・秩序・順番などが「発想法」であると川端は前置きしている[12]。
- ^ 板垣信や羽鳥徹哉は、川端の「そこから」の「そこ」を、「ダダイスムの芸術」と言い換えて説明し[2][19]、石川則夫は前述の「分らなさ」として説明している[115]。
- ^ この新感覚派時代の「外面」と、横光利一本来の自然感情的な「内面」の二つの姿勢が、最も融合した新感覚派の作品は、雑誌『女性』1926年(大正15年)8月号に発表された「春は馬車に乗つて」であると高評価されている[124][90]。
- ^ 今東光と菊池寛との関係については、川端康成が第6次『新思潮』の誌名継承の件で菊池寛を訪ねた際、友人の今東光も同人に入れたいと申し出ると、菊池は東光が「不良少年」で第一高等学校出身でも大学生でもないことから「あれ(東光)は止したまえ」と忠告し、川端が、東光を入れないなら自分も止めると抵抗したため、菊池が承認したという話を、その場にいた同人から東光は聞いて川端の友情に感激したという[137][44][2][138][139][140]。このエピソードには、微妙に異なる鈴木彦次郎の証言(菊池は東光の学歴を問題視したのではなく、『新思潮』が「東光に利用されるんじゃないか」と菊池が言っていたという回想[141])もあり、東光はすでに谷崎潤一郎(『中央公論』系)の弟子で才筆だったため、『新思潮』が東光一人を押し出す雑誌となって帝大組の川端らが霞んでしまうと菊池が心配したから反対したのではないか、という推察もある[141][37][138]。ただし『新思潮』発刊後は東光と菊池の関係は良好で、菊池は東光の才能を重んじて不良少年扱いしなくなったという[142][140]。
- ^ 今東光によると、東光が文藝春秋社の同人会で、雑誌『文藝春秋』を社から独立させ自分たち同人が編集当事者になることを提言したことがあったが、「菊池寛一個の了見」で実現されなかったため東光は不満を抱いていたという[145][95]。また『文藝時代』創刊に際し川端康成と横光利一から、菊池の諒解を得たと聞いていたが、東光が旅から帰ってくると、菊池が自分とは一切口をきかなくなっていたため、東光は菊池に対して含むところがあったのだという[145][95]。菊池はその理由を、東光が文藝春秋社の「文芸講座」計画に参与し、編集も担当すると引受けながらも、その仕事をほっぽらかしていた無責任に怒って口をきかなくなったと述べ、『文藝時代』の創刊とは何の関係もないことを東光が自分の不快に絡めていることに呆れていると反論した[146][95]。この「文芸講座」の件で菊池と揉めたことに関して、東光は、講師依頼の訪問で各人が留守だったり多忙で断られたりで、自身も病床の妻の看護があり講師訪問の仕事は一旦断っていたとし[147]、「文芸講座」では日頃菊地から日本文学に対する造詣を認めてもらっていたから、その一部を自分も執筆担当するだろうと思っていたら「君には肩書がない」と言われて自尊心を傷つけられたことがあったとしている[147]。弟の今日出海の話では、執筆者の名前記載の欄に東光の名前がなく、川端、石濱、鈴木たちの名前の上に肩書きとして学位の「文学士」が付されていたため、それを見た東光がかなりしょげたり、昂奮したりしていたのだという[140]。
- ^ この「文壇諸家価値調査表」では、『文藝時代』同人に限らず、南部修太郎や葛西善蔵なども〈学殖〉が低い点数で誹謗され[158][95]。田山花袋も〈好きな女〉が「弟子」、柳原白蓮は〈好きな女〉が「龍介」(駆け落ち相手の宮崎龍介のこと)と書かれ怒ったとされる[68]。
- ^ 横光利一が代りに読売新聞社に書いたものは、「食はされた生活――新劇協会上演の『食はされたもの』」で、1925年(大正14年)1月31日に掲載された[159][44]。
- ^ これに関して小谷野敦は、『新潮』に今東光が「文藝春秋の無礼」を投稿するのを知った川端康成が同月の『文藝時代』に自身の一文を発表していた点を重視し、東光に黙っていたらその内容は書けないだろうから、川端は実際東光を止めたが止まらなかった、というのが実情ではないかと推察している[68]。
- ^ 「不断の歯痛」という言葉は、片岡鉄兵が左傾化しそうになった頃の「新感覚派はかく主張す」(文藝時代 1925年7月号)の中で述べた言葉である[181][91][164]。
片岡は、社会に貧富の差があるということへの人道主義的な思いからマルキシズムに同感しつつも、それに意識的に抵抗する心境を「不断の歯痛」という言葉で表現したとのちに述懐した[91][15]。我らは靴の底に砂利を感ずる如く、不断の歯痛の如く、数学的の不合理を我らの世界に感覚するのに、その歯痛への治療を意企せずして何の新しき時代を期待したら好いのか。これこそ、現代の知識階級を前代未聞の不幸に陥れた世界苦でなくて何であらう。 — 片岡鉄兵「新感覚派はかく主張す」[181]これに対し川端はマルキシズムについて「余り健全な思想ではなかつたよ」と反論し、片岡も「非常に不健全で頽廃的だつたね」と応じた[91]。
出典
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- ^ 永丘智郎「川端康成の文体について 四」(作品研究 1969, pp. 435–438)
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