1941年 - 1942年
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「響 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1941年 - 1942年」の解説
1941年11月29日に第6駆逐隊第1小隊(暁、響)は柱島泊地を出撃し、馬公、三亜を経て12月11日にカムラン湾に入港(第6駆逐隊第2小隊《雷、電》とは別行動)。この間、開戦前日の12月7日夕方に乗員が中国人で占められたイギリス船を拿捕し、カムラン湾に後送した。カムラン湾方面哨戒および、フィリピン攻略作戦のリンガエン湾上陸作戦支援に従事。1942年1月12日にパラオに入港後は2月2日までダバオ、マナド、ケンダリ方面を行動する。2月5日にダバオを発って9日にカムラン湾に到着後は蘭印作戦に備えて18日まで待機。18日にカムラン湾出撃後、2月中はジャワ作戦船団護衛とバタビヤ沖海戦、3月はフィリピン方面の哨戒任務に参加する。3月19日にスービック湾内オロンガポ(英語版)を出発して志布志湾経由、4月3日に横須賀に帰投した。横須賀に帰投後は4月6日から11日まで浦賀船渠に入渠整備を行い、出渠後は横須賀で修理が続行された。修理後は4月19日に「雷」、入れ替わる形で入渠整備を行った「暁」とともに横須賀を出港して瀬戸内海に向かい、5月20日付で北方部隊所属となる。同日、吹雪型2隻(暁、響)は大和型戦艦武蔵(2号艦)を護衛して長崎を出港、21日午後3時過ぎに呉へ到着して「武蔵」への護衛任務を終えた。 5月22日に徳山港を出港して第四航空戦隊(龍驤、隼鷹)を大湊まで直衛し、キスカ島攻略部隊に編入の上、5月28日に大湊を出撃。アリューシャン方面の戦いは順調のうちに進んでキスカ島も易々と攻略に成功したが、その直後の6月12日、「暁」とともにキスカ島近海を航行中に5機のB-24あるいはPBYカタリナ飛行艇の爆撃を受ける。投下された爆弾のうち1発が右舷艦首外板を貫通して喫水線付近の錨鎖庫で爆発し、ほかに3発が至近弾となった。爆撃による損傷により前部主砲周辺まで浸水し沈没の危険があったが、3時間あまりの応急修理の末に浸水をとめる事に成功。「暁」の艦尾からの曳航により5ノット後進でキスカを発つが、6月15日未明、損傷で「舌状に突き出ていた」艦首が波浪によりたたかれて90度に折れ曲がり、垂れ下がってしまった。垂下部をワイヤーで固縛後後退を再開し、6月27日に大湊に帰投。大湊ではポンポン船に似た仮艦首が取り付けられ、7月11日あるいは12日に大湊を出発して12日あるいは13日に横須賀に到着。この時点で艦首部は横須賀海軍工廠で建造されており、新艦首を取り付ける諸工事が7月18日から22日と9月18日から10月21日の二期間にわたって行われた。この間、第六駆逐隊の僚艦は8月28日付で第三艦隊(南雲忠一中将)配属となって南方へ回ることとなったが、長期修理中とあっては行動を共にすることはできずガダルカナル島の戦いに関わる海戦に参加することもかなわず、以降は護衛任務を主とすることとなる。
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1941年 - 1942年
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「フォート・ドラム (エル・フレイル島)」の記事における「1941年 - 1942年」の解説
詳細は「フィリピンの戦い (1941-1942年)」を参照 1941年12月末、日本陸軍のルソン島上陸が始まると、まもなくしてフォート・ドラムを始めとするマニラ湾の防衛施設はこれらの地上戦力を射程内に収めた。開戦時、フォート・ドラムには第59沿岸砲兵連隊(英語版)E中隊が配置され、トップデッキに設けられていた木造兵舎はウィルソン砲塔の射界を確保するため解体されていた。 当初、日本側の偵察機はフォート・ドラムについて「マニラ湾頭に敵の戦艦が進入した」と誤って報告したという。 1942年1月2日、日本軍による空襲を受けるが、フォート・ドラムはこれに耐えぬいた。1月12日、要塞の弱点と考えられていた「船尾」にM1903 3インチ砲(英語版)の砲台が新設され、ホイル(Hoyle)という名称が与えられた。翌日13日、ホイル砲台は「船尾」方向から接近してきた日本軍船舶(現地徴用の汽船)を攻撃し、撤退させた。この時、新設されたばかりのホイル砲台のコンクリートは乾ききっておらず、照準調整などもまだ行われていなかった。この攻撃により、ホイル砲台は第二次世界大戦において初めて敵船舶を砲撃したアメリカ軍の沿岸砲となった。 2月初頭、フォート・ドラムはテルナーテ(英語版)に設置された日本軍の96式15cm榴弾砲陣地からの激しい砲撃にさらされた。3月中頃にはより強力な45式24cm榴弾砲が砲撃に加わり、3インチ高射砲陣地を破壊したほか、6インチ砲のうち1門を無力化した上、掩蔽壕の一部を損傷させた。激しい砲撃の中でコンクリートの大部分が剥ぎ取られたが、主砲塔はいずれも損傷を受けず、砲撃の最中でも任務を続行していた。フォート・ドラムの14インチ砲に加え、フォート・フランク(英語版)の12インチ沿岸迫撃砲(英語版)による反撃が行われたものの、効果はほとんどなかった。4月10日、バターンの防衛線が崩壊する(バターンの戦い(英語版))。しかし、フォート・ドラムを始めとする沿岸防衛施設は以後も抵抗を続けた。 これらの沿岸防衛施設の存在により、日本側はマニラ湾へ艦船を接近させることさえも困難となっていた。その為、コレヒドール攻撃に用いる上陸用舟艇は夜闇に紛れて湾内に進入するほかになく、各要塞に対する激しい砲爆撃には舟艇の移動から注意を逸らす目的もあったという。 5月5日夜、フォート・ドラムの14インチ砲は2度目のコレヒドール攻撃を試みる日本軍を攻撃し、複数の荷船を撃沈した。5月6日、コレヒドール要塞の陥落を受け、フォート・ドラムも降伏した。以後、1945年までフォート・ドラムは日本軍によって占領されることとなる。フォート・ドラムに勤務していた将兵に戦死者はなく、負傷者は5名のみだった。コレヒドール要塞が陥落する5分前まで砲撃を続けていた14インチ砲は、降伏した時点でもほとんど損傷を受けていなかったが、降伏に際してフォート・ドラムの武装は全て破壊された。マニラ湾の沿岸防衛施設の降伏を以って、フィリピンにおけるアメリカ軍の組織的抵抗は終結した。 マニラ湾の沿岸防衛施設に残されていた沿岸砲は、操砲に多くの兵員が必要であり、差し当たって利用の価値がないとされた為、将来的には防備に組み込むことを考慮しつつも放置されたり、廃砲として解体されるなどした。5月7日に日本軍が上陸した時点で、フォート・ドラムには14インチ砲弾200発、5インチ砲弾4,200発、3インチ砲弾400発が残されていた。砲は6インチ砲2門を除き、全て使用不可と判断された。14インチ砲も廃砲とされたが、偽砲台として以後も存置された。
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1941年 - 1942年(昭和16年 - 昭和17年)
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「雷 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1941年 - 1942年(昭和16年 - 昭和17年)」の解説
太平洋戦争開戦時においては、吹雪型4隻(暁、雷、電、響)で引き続き第6駆逐隊を編成し、第一水雷戦隊(大森仙太郎少将)に所属した。12月4日から第二遣支艦隊(新見政一中将)の指揮下に入って香港攻略戦に参加、艦隊旗艦の軽巡洋艦五十鈴、電などと共に海上からの香港包囲に加わり、イギリス軍哨戒艇を砲撃、撃沈した。 1942年(昭和17年)1月9日からは第二水雷戦隊(田中頼三少将)に加勢する形でメナド攻略戦に参加。2月17日夜、雷はマヌイ島北東海域で二度にわたり潜水艦から魚雷を2本ずつ発射されたが回避し、爆雷を8発投下。しばらくのちに浮上潜水艦を発見するもすぐに潜没したため、潜没位置に急行して爆雷を計14発投下し、重油が浮かび上がるのを確認した。この潜水艦は、同じ時期に消息不明となったアメリカ海軍のシャーク(USS Shark, SS-174) とする説がある。 3月1日、スラバヤ沖海戦で重巡洋艦足柄・妙高・那智・羽黒、駆逐艦山風・江風と共にイギリスの重巡洋艦エクセター、イギリスの駆逐艦エンカウンター、アメリカの駆逐艦ポープを撃沈した。明けて3月2日、艦長工藤俊作少佐の指示により、電と協力して沈没したエンカウンターとポープの生存者422名の救助を行う。雷の乗組員らは、救助した英兵の油で汚れた体をきれいにふき取り、食料と衣類を提供して丁重に処遇したという。後にオランダの病院船オプテンノールに引き渡している。 海戦後はフィリピン方面に移り、3月17日にはルソン島南方のタヤバス湾(英語版)で暁および響とともにアメリカ潜水艦パーミットを発見して2日間にわたり攻撃した。 3月26日に呉に帰投したのち横須賀に回航され、4月4日から9日まで三菱横浜船渠で修理ののち、横須賀でも修理が行われた。修理後は4月19日に暁および響とともに横須賀を出港し、5月20日付で北方部隊所属となる。 「雷」は重巡洋艦「那智」、駆逐艦「電」とともに北方部隊の主隊としてAL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加した。主隊は5月29日に川内湾を出港し、6月2日に幌筵島に到着。翌日、同地を出撃した。同時期のミッドウェー海戦で日本軍は敗北したが、AL作戦ではアッツ島とキスカ島の占領が行われた。主隊はしばらくの間、空母などからなる第二空襲部隊等と共にアメリカ艦隊来襲に備えた。 7月13日、「雷」は片岡湾に入港。7月16日にキスカ島への輸送任務中の「球磨川丸」が温彌古丹海峡で座礁すると、「雷」は緊急性の高い天幕などを移載してキスカ島へ向かい、7月22日に到着した。キスカでは7月5日にアメリカ潜水艦の攻撃で駆逐艦「霰」が沈没し、「霞」と「不知火」が大破していた。曳航索を推進器に巻き込むという事故がありながらも「雷」は7月28日に「霞」を逆引きで曳航してキスカを出港し、8月3日に幌筵島片岡湾に到着。「電」に「霞」の曳航を引き継いで8月5日に片岡湾を出発し横須賀に向かったが、8月8日夜に見張り員の誤認が元で銚子近海で座礁事故を起こした。軽い浸水などがあったものの重量物の移動後に後進をかけて離礁に成功し、大事には至らなかった。 ガダルカナル島の戦いが緊迫化するに伴って第六駆逐隊は南方へ回ることとなり、8月28日に機動部隊に編入された。8月29日、第6駆逐隊(暁・雷・電)は大湊を出港して呉に向かい、9月18日に暁と行動をともに空母雲鷹および特設運送船(給油)旭東丸(飯野商事、10,051トン)を護衛して呉を出撃。9月29日、再び暁とともに沖輸送第三船団を護衛して佐伯を出撃し、トラックまで護衛した。
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1941年/1942年
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「朝顔 (駆逐艦)」の記事における「1941年/1942年」の解説
太平洋戦争開戦時、朝顔は鎮海警備府部隊第32駆逐隊に所属し、対馬海峡で哨戒を行っていた。 哨戒を終えた朝顔は舞鶴に入港し、1941年(昭和16年)の年末から1942年(昭和17年)初めごろまで改装を受ける。2番主砲が撤去され、2番砲跡に九六式25mm連装機銃1基を装備した。また、艦尾の掃海用設備を撤去し、跡に八一式爆雷投射器4基と爆雷投下軌条、爆雷36個を装備した。改装後、第32駆逐隊は舞鶴を出港し、門司港外の六連島泊地に移動した。 1942年1月21日1000、第32駆逐隊は軽巡洋艦大井と共に、輸送船19隻を護衛して六連島泊地から出港。26日に台湾の馬公に到着した後、大井と別れた船団はカムラン湾に移動した。カムラン湾で第32駆逐艦は別れ、馬公に戻った後、大井と共に2月1日に出港し、4日に六連島泊地に到着した。 17日0800、朝顔と芙蓉は敷設艇平島とともに輸送船6隻を護衛して六連島泊地を出港し、20日1100に馬公へ到着。翌21日1230に朝顔は馬公を出港し、南方で活動した後、釜山に入港して整備を受ける。 整備中の4月10日、第32駆逐隊は南西方面艦隊第一海上護衛隊の新編に伴い編入され、第一海上護衛隊第2護衛部隊配置となる。 18日0730、整備を終えた朝顔は釜山を出港し、同日1730に上海に到着。翌19日1830に出港し、20日0700に六連島泊地に到着した。21日1400、第32駆逐隊は水雷艇鷺と共に陸軍病院船ぶゑのすあいれす丸(大阪商船、9,625トン)等輸送船6隻で編成された第101船団を護衛して六連島泊地を出港。26日1400、船団は高雄に到着した。30日、朝顔は輸送船1隻で編成された第302船団を護衛して高雄を出港。5月5日2300、船団はサンジャックに到着した。8日1200、第401船団を護衛してサンジャックを出港。13日1200、船団は馬公に到着した。21日1200、輸送船3隻で編成された第703船団を護衛して馬公を出港。25日0800、船団はマニラに到着した。27日1200、輸送船6隻で編成された第803船団を護衛してマニラを出港。30日1200、船団は馬公に到着した。6月5日1200、輸送船2隻で編成された第311船団を護衛して馬公を出港。12日0800、船団はサンジャックに到着した。14日1200、輸送船7隻で編成された第412船団を護衛してサンジャックを出港。20日1200、船団は馬公に到着した。25日1900、陸軍輸送船ころんびあ丸(三菱商事、5,617トン)、陸軍輸送船玄海丸(嶋谷汽船、3,851トン)等輸送船5隻で編成された第316船団を護衛して馬公を出港。7月1日1200、船団はサンジャックに到着した。6日0800、陸軍輸送船金華山丸(三井船舶、4,950トン)等輸送船4隻で編成された第511船団を護衛してサンジャックを出港。9日1100、船団はシンガポールに到着した。13日1000、海軍徴用船第二小倉丸(日本石油、7,311トン)等輸送船5隻で編成された第616船団を護衛してシンガポールを出港。16日1200、船団はサンジャックに到着した。18日1500、第二小倉丸等輸送船8隻で編成された第421船団を護衛してサンジャックを出港。23日1500、船団は馬公に到着した。30日1200、輸送船4隻で編成された第324船団を護衛して馬公を出港。8月5日0600、船団はサンジャックに到着した。7日1400、海軍徴用船厳島丸(日本水産、10,006トン)等輸送船4隻で編成された第426船団を護衛してサンジャックを出港。10日1400、船団は馬公に到着し、朝顔は整備を受ける。 整備完了後の27日1400、朝顔は貨物船豊岡丸(鏑木汽船、7,097トン)、陸軍輸送船大井川丸(東洋海運、6,494トン)、陸軍輸送船第一吉田丸(山下汽船、5,425トン)等輸送船5隻で編成された第331船団を護衛して馬公を出港。9月2日、船団はサンジャックに到着した。7日1400、豊岡丸、陸軍輸送船ぶりすべん丸(大阪商船、5,425トン)で編成された第523船団を護衛してサンジャックを出港。10日1500、船団はシンガポールに到着した。13日1200、輸送船2隻で編成された第631船団を護衛してシンガポールを出港。16日0800、船団はサンジャックに到着した。20日0800、海軍徴用船昭洋丸(日東鉱業汽船、7,499トン)、貨物船羅津丸(大連汽船、5,462トン)等輸送船6隻で編成された第437船団を護衛してサンジャックを出港。26日1200、船団は馬公に到着した。30日、貨物船ぱしふぃっく丸(玉井商船、5,872トン)、陸軍輸送船三重丸(日本郵船、2,896トン)、陸軍輸送船多賀丸(日之出汽船、2,868トン)等輸送船8隻で編成された第269船団を護衛して馬公を出港。10月6日、船団は門司に到着。朝顔は舞鶴へ移動して整備を受ける。 整備完了後、朝顔は28日1000に舞鶴を出港し、29日1000に六連島泊地に到着した。30日1200、陸軍輸送船大図丸(大図汽船、2,726トン)、陸軍輸送船米山丸(板谷商船、5,274トン)等輸送船6隻で編成された第180船団を護衛して六連島泊地を出港。11月5日1200、船団は馬公に到着した。8日1400、輸送船8隻で編成された第288船団を護衛して馬公を出港。14日0930、船団は門司に到着した。17日1500、輸送船3隻で編成された第189船団を護衛して門司を出港。21日1100、船団は馬公に到着した。26日1500、輸送船9隻で編成された第297船団を護衛して馬公を出港。12月1日、第2護衛部隊は西護衛隊と改称される。 同日午後、船団は上海に寄港した後、2日0800に門司に到着した。7日1300、貨物船福山丸(会陽汽船、3,581トン)単独で編成された第198船団を護衛して門司を出港。10日、第32駆逐隊は解隊され、朝顔は第一海上護衛隊指揮下となる。 26日1200、第198船団は馬公に到着した。18日1400、朝顔は輸送船7隻で編成された第209船団を護衛して馬公を出港。24日1200、船団は門司に到着した。29日1500、輸送船4隻で編成された第109船団を護衛して六連島泊地を出港。
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