評論・評価
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「花束みたいな恋をした」の記事における「評論・評価」の解説
Filmarksによる2021年1月期第5週公開映画の初日満足度ランキングにおいて1位を記録した。 中国最大のレビューサイト「Douban」における2021年映画ランキングにおいて日本映画部門で第1位、外国映画部門で第2位にランクインし、最終的に中国国内での公開規模が32の行政区にまで広がり、上映館3700館、1万スクリーン以上と近年の邦画において異例のスケールで展開された。また、2022年4月中旬には新型コロナウイルスの影響下で中国国内における映画館の営業率が50%を切る中、興収が9000万元(レート換算で18億円)を超え、6月いっぱいまでのロングラン上映が決定されている。 映画評論家、ラジオDJの宇多丸は今作を『ブルーバレンタイン』、『(500)日のサマー』、『いつも2人で』のような恋愛の成就がゴールになっていない話、「恋愛映画」というより、「恋愛についての映画」という傑作群の系譜上にありながら、恋愛というものを見つめる、考察する目線の純度の高さ、混じりっけのなさにおいて今作は突出しており、いわば「純愛映画」ではなくて「純・恋愛映画」と評した。また、今作の特徴として「ドラマを起こすための外部要因」と言われる第3のキャラクターを交えた三角関係、病気、事故、事件などの要素を一切置かず、主人公2人の関係性だけに焦点を絞り、あえて言えば、もうひとつ「時間」がもう1人の主役であり、時間が過ぎることによって社会と直面せざるを得なくなることから「絹と、麦と、時間」がこの映画の3人の主人公であるのでは無いかと考察した。加えて、「“自分の似姿”としての理想のパートナー」という「美しくも儚い幻想」がこの映画のキモであり、劇中大量に登場する、2015年から2020年にかけての彼らの興味、趣味を反映したカルチャー要素は製作者側のインタビュー等を読む限り「具体的な個人」に対するリサーチに基づくもので、必然的に実在感がある並びになっており、そうした個々のカルチャー要素のある固有名詞に対して、やいのやいの言って楽しむこともできるが、一番肝心なのは、そうしたカルチャーへの傾倒というのは、絹、あるいは麦、両者にとって、それ以外の世界、他者たちと自分を隔てる、自分を守る、自分というものの固有性を構成する、言ってしまえばアイデンティティの一部でもあるのではないかと分析した。そして、有村架純と菅田将暉の演技力によって「周りの人に埋もれている人」に見え、だからこそ、序盤、彼らが互いに共通するもの一個一個によって距離を縮め、自分の似姿をついに見つけた、ソウルメイトについに出会った!という喜びが生まれ、それを自分にとって大切な何かと置き換えつつ観客の我々は見ることができ、あの溢れかえる固有名詞たちはむしろ分からない方が「この2人には分かっている」という暗号としてその2人の固有性を感じることができると分析し、また、そのカップル2人の関係に、先程の「時間経過」という第3のファクターが関わってくることで、その似姿というのものの幻想が、取り巻く環境の変化によってみるみる朽ちて、他者性がむしろ浮き上がり、対社会、現実の中で生きていくということと理想に対しどう折り合いをつけるかということの社会の問題が浮かび上がってくる、と考察している。加えて、この種の作品の系譜としては、異例なほど爽やかで、特に、エンディングの切れ味は見事そのものであり、近年の日本映画でこんな見事に終わる映画、ちょっとないんじゃないかな?というくらい最高の終わり方である、と絶賛した。 フリーアナウンサーの宇垣美里は宇多丸による大学時代から社会人にかけて麦(菅田将暉)のしゃべり方の速度が変わるという指摘に関連して、絹(有村架純)の「前髪の返還」に着目し、大学時代はくせっ毛ぽくなっており、ブローされていない事で「なんでもない人」をビジュアルとして上手く演出しているが、社会人として生活する上で前髪をブローするようになることで綺麗な前髪になり「大人になること」によるディテールの変化を指摘した。加えて、宇垣は題名にある「花束」というのは根を張ることのなかった恋を表現しているのではないかと指摘した。 リアルサウンド映画部に寄稿された映画評論家である小野寺系の記事によると本作の主人公である麦と絹は日本人の大多数から見れば、マニアックな趣味を持っているようにあえて描かれているが、一方で、意図的に互いの鏡像として描かれたその主人公2人によるポップカルチャーの表層をなぞるだけのような自意識、考え方、姿勢が表面化してくるのが2人による同棲が始まった後の展開であり、本作は“自分のことを特別だと思っていた人間が、じつは凡庸な存在だった”という事実に、少しずつ気づいていくという積み重ねの物語というような側面も持っていると小野寺は評している。また、小野寺は本作で描かれている川の側で慎ましい日々を送る2010年代後半の東京の生活というのは、かつてヒットを記録し映画の題材ともなった南こうせつによるフォークソング「神田川」で歌われた世界の現代版とも受け止めることができると分析し、「神田川」で歌われるのは学生運動が広まった時代に当事者だった者たちの挫折と、その後の心情を言外に救いあげるような、日本のフォークソングブームの本質をついたものであり、学生運動に身を投じた若者たちの熱と、その後同棲する恋人の優しさにほだされて“普通の幸せ”に取り込まれることで、かつて批判していた社会構造に順応していってしまう自分への葛藤が凝縮されており、団塊の世代共通の感覚として支持された世界観であるが、その一方で、本作でも描かれている2010年代の学生の世代に広く共通している事象といえば、経済状況の悪化による貧困を経験している・する場合が多くなっているということであり、この世代が感じているのは、凋落していく日本社会のなかでどうサバイブしていくかという、かつての世代と比べてきわめて現実的な不安であり、殺伐とした社会に飲み込まれ生活費ばかりを追い求めるようになる自分たちへの憐憫や不安であるのではないかと小野寺は予想し、このように本作はいくつかの世代に共通する“普通”に対する漠然とした忌避や葛藤、難しさを、2010年代ポップカルチャーに耽溺する20代の見る世界として表現した、きわめて“普通”の物語として描かれていると理解することができるが、それを映画作品として、ここまで意識的、批評的に見せるというのはかなり珍しく、人それぞれに徹底して個人個人色々な感情を生じさせることでヒットした本作がかつてのフォークソング同様に、“鎮魂”という側面で心に響いた観客もまた多いのではないかと小野寺は評している。 現代ビジネスに寄稿されたライター・コメカの記事によると、本作がヒットした理由を考える上で、主人公の1人である絹が劇中で口にする「わたしはやりたくないことしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ」という台詞に着目し、「字面だけだと世間知らずの甘えた発言のように見える台詞だが、本作を観ると、この言葉がとても切実なものとして胸に響いてくる」とした上で、本作の主人公の特徴としてサブカルチャーを嗜好する人たちがやりがちな 「自分のほうがより文化に詳しい」「自分はこんな経験だってしている」といった「卓越化競争」を絹と麦はふたりの間においても、文化系の友人たちとの間においても、こういったコミュニケーションをほとんど行わず、好きなものを共有できる喜びを分かち合っている描写が特に目立つことから、「絹と麦にとってサブカルチャーは自分たちを護る繭のようなもの」であり、大好きなカルチャーで埋め尽くされた多摩川沿いの部屋は、社会から距離を置いたふたりの「籠(こも)り」の場所であるかのように映っていると分析した。そして、そういった描写から本作の脚本を担当した坂元裕二の社会的な主題を取り上げている過去作品に共通して描かれる「社会から疎外されるつらさのなかで生きながら、それでも思考停止せず、自分自身や他者に真摯に向き合おうとする人々」のように本作の主人公達は過酷な過去を背負っているわけではないが、社会の主流に上手く馴染めないながらも必死に生きているという点において、絹と麦は、『それでも、生きてゆく』、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』といった坂元の過去の作品の登場人物たちと同じ切実さを抱えているとし、少しでも「好き」を持ち寄ってなんとか楽しく生きていこうとする人々の切実な場所としてサブカルチャーが描かれるのは、坂元が持つ人間への視線の在り方に裏打ちされていると評した。また、作品中盤、麦がイラストレーター一本での自活を諦め、就職を決意するところから物語が転調し、麦が社会と向き合っていく中でマッチョイズムを少しずつ剥き出しにしていくことによりモラトリアムが崩壊していく過程において、麦と絹のカルチャーへの向き合い方や社会における生き方の本質的な違いが顕在化していき、お互いの人生に対するハードルをさげ「恋愛関係ではなく、結婚し、家族として共に生きていくのなら、それでもやっていけるのかもしれない」という妥協した末の結論ではなく、「かつての自分たちのような2人の会話」をきっかけとして最後の最後で思考停止的価値観に対し、ギリギリで抗ったのは、好きなカルチャーを持ち寄って、互いにそれを交換し、自分なりの感受性でそれを受け止めながら過ごしたふたりの道のりが無駄なものではなく、そこで育まれた「楽しく生きることへのこだわり」が精神的な成長期を迎えたふたりの「抵抗」を支えたのではないかと、考察した。そして、筆者は「どんな社会状況においても、どんな立場の人にとっても、『人はどのように生きていくべきなのか』という命題は常に普遍的なものとしてある。『花束みたいな恋をした』のなかで描かれた、『ちゃんと楽しく生きたい』という願い。一見甘く見えるこの願いは、『それでも、生きてゆく』の終盤、双葉が極限の緊張感のなかで口にする『真面目に生きたいんです』という願いと、本質的には同じ切実さを持っているのではないだろうか。」と、坂元の過去の脚本との共通点を挙げ、「過酷になり続ける現代社会のなかで、思考停止せず自分なりにものを考え続け、他者を想いながら生きていくことへの強い気持ちが、他の坂元作品と同じように本作には溢れており、そのことがやはり、多くの人の心を強くとらえているのではないかと、私は思うのだ」と評した。 現代ビジネスに寄稿された高木敦史の記事において、時間がなく2人が見に行けなかった映画として作中に登場するエドワード・ヤン監督による1991年の台湾映画『牯嶺街少年殺人事件』と『花束みたいな恋をした』では、 小四と小明、麦と絹の関係性において似たすれ違いが存在していると指摘した上で、両作に共通する物語の側面として、「自分の夢はふたりの夢だと勘違いし、夢を追ううちに相手を偶像化してしまい、やがて実像とのズレに絶望する」という面があり、この点において『クーリンチェ』の小四と『花束』の麦は同じで、そんな相手を許容していたが次第に息苦しさを感じ始めるという点においても、『クーリンチェ』の小明と『花束』の絹は同じ問題を抱えており、要するに「自分の夢の中心に他人を据えること」と「他人の夢の中心に自分を据えること」によるすれ違いが両者の関係性において共通していると評した。加えて、『クーリンチェ』の場合は閉塞した社会での複雑な状況ゆえに、という側面があったが、より平和なはずの世界に住んでおり似たもの同士を自認するはずの『花束』の麦と絹がなぜそのズレに気づかなかったのかというと、そこにサブカルチャーが関連してくると筆者は指摘し、『花束』におけるサブカルは一見すると「趣味が合う」ことを示す記号に過ぎないが、『クーリンチェ』を経ることでふたりの趣味がサブカルであったことの必然性が明らかになると分析し、『花束』では、「何が嫌いか」について一度だけ話すシーンがあり、あまりにもたわいないものであったことから、同時に「何が嫌いか」についてさほど自覚的でなかったことの証左にも見え、加えてふたりが好きなものについて語るとき、相席した4人で押井守監督と居合わせる場面における様子から読み取れるように、その多くは「これの良さを理解しない者とは相容れない」というものであり、これらの点から察するに、よく似た嗜好のふたり、一見好きなものが同じ彼らは、実は「メジャーなものを好む人たちには理解されないマイナーなものが好き」同士なのではなく、「マイナーなものを理解せずメジャーなものを好む人たちが嫌い」であり、ふたりの共通点は「好きなもの」ではなく「嫌いなもの」だったのではないかと分析した。加えて「何が嫌いか」に無自覚なふたりが、嫌いなものから目を逸らして生きる中でサブカルに傾倒していき、その嫌いなものの正体をより突き詰めていけば、それは自分たちのようなマイナーな存在を理解しないメジャーな存在の総体——即ち社会なのではないかと考察した。つまり、ふたりは共に社会に対する「生きづらさ」を感じており、「普通とは」「責任とは」「人生とは」とあれこれ悩み考えるのは、全て社会に立ち向かうためで、そういった視点で見た場合『花束みたいな恋をした』は、麦と絹が「サブカル」という表層を通じて「生きづらさ」を分かち合い、対抗すべく手を取り合う姿を描いた映画であると読み取れることができ、だからこそ、この映画は多くの人の共感を得ながらも一方で見終わった後に語りたくなるのは画面に映る恋愛模様の奥に感じる(「社会」と名付けられている)何かの正体を見極めたいという欲求からくるものではないかと考察した。そして、『クーリンチェ』の小四と小明は、この世は退屈なことや嫌なことばかりだという点を分かち合っており、鬱屈とした世界に立ち向かうための手段があまりにも相容れないものだったため、最後は殺人という許されざる悲劇に向かい、『花束』の麦と絹もまた、社会の生きづらさを共有し、ふたりそれぞれ社会に対抗する手段を模索したものの、その手段は分かち合えないものだったが、『花束』が『クーリンチェ』と異なるのは、ふたりがお互いに相手を尊重し、同意の上で袂を分かち、それぞれの道を歩き出したことであり「すれ違い」が悲劇ではなく、成長の契機として描かれている部分にあるとした上で、筆者は「もちろんこの二作は時代も舞台も違いますから、単純な比較は無意味です。しかし『クーリンチェ』が当時の社会情勢を写実的に描いた台湾ニューシネマの中での名作として語られるのと同じように、『花束』は「普通」がわかりづらい現代日本における生きづらさと苦難を写実的に描きつつ、それでもなおポジティブな物語にまとめあげた名作として語られる映画だと感じます。」と評した。
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