評論・評価とは? わかりやすく解説

評論・評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 06:26 UTC 版)

花束みたいな恋をした」の記事における「評論・評価」の解説

Filmarksによる2021年1月第5週公開映画初日満足度ランキングにおいて1位を記録した中国最大レビューサイト「Douban」における2021年映画ランキングにおいて日本映画部門で第1位、外国映画部門第2位ランクインし、最終的に中国国内での公開規模32行政区にまで広がり上映館3700館、1万スクリーン以上と近年邦画において異例スケール展開された。また、2022年4月中旬には新型コロナウイルス影響下で中国国内における映画館営業率が50%を切る中、興収9000元(レート換算18億円)を超え6月いっぱいまでのロングラン上映決定されている。 映画評論家ラジオDJ宇多丸今作を『ブルーバレンタイン』、『(500)日のサマー』、『いつも2人でのような恋愛成就ゴールになっていない話、「恋愛映画」というより、「恋愛について映画」という傑作群の系譜上にありながら恋愛というものを見つめる、考察する目線純度の高さ、混じりっけのなさにおいて今作突出しており、いわば「純愛映画ではなくて純・恋映画」と評したまた、今作特徴として「ドラマ起こすための外部要因と言われる第3キャラクター交えた三角関係病気事故事件など要素一切置かず主人公2人関係性だけに焦点を絞り、あえて言えばもうひとつ「時間」がもう1人主役であり、時間が過ぎることによって社会直面せざるを得なくなることから「絹と、麦と、時間」がこの映画3人の主人公であるのでは無いかと考察した加えて、「“自分似姿としての理想パートナー」という「美しくも儚い幻想」がこの映画キモであり、劇中大量に登場する2015年から2020年にかけての彼らの興味趣味反映したカルチャー要素製作者側のインタビュー等を読む限り具体的な個人」に対すリサーチに基づくもので、必然的に実在感がある並びになっており、そうした個々カルチャー要素のある固有名詞に対してやいのやいの言って楽しむこともできるが、一番肝心なのは、そうしたカルチャーへの傾倒というのは、絹、あるいは麦、両者にとって、それ以外世界他者たちと自分隔てる、自分を守る、自分というものの固有性構成する言ってしまえばアイデンティティ一部でもあるのではないか分析した。そして、有村架純菅田将暉演技力によって「周りの人に埋もれている人」に見えだからこそ序盤、彼らが互いに共通するもの一個一個によって距離を縮め自分似姿をついに見つけたソウルメイトについに出会った!という喜び生まれ、それを自分にとって大切な何かと置き換えつつ観客の我々は見ることができ、あの溢れかえる固有名詞たちはむしろ分からない方が「この2人には分かっている」という暗号としてその2人の固有性感じることができると分析しまた、そのカップル2人の関係に、先程の「時間経過」という第3ファクターが関わってくることで、その似姿というのものの幻想が、取り巻く環境変化によってみるみる朽ちて他者性がむしろ浮き上がり、対社会現実の中で生きていくということ理想対しどう折り合いをつけるということ社会問題浮かび上がってくる、と考察している。加えて、この種の作品系譜としては、異例なほど爽やかで、特に、エンディング切れ味は見事そのものであり、近年日本映画でこんな見事に終わる映画、ちょっとないんじゃないかな?というくらい最高の終わり方である、と絶賛したフリーアナウンサー宇垣美里宇多丸による大学時代から社会人にかけて麦(菅田将暉)のしゃべり方速度が変わるという指摘関連して、絹(有村架純)の「前髪返還」に着目し大学時代くせっ毛ぽくなっており、ブローされていない事で「なんでもない人」をビジュアルとして上手く演出しているが、社会人として生活する上で前髪ブローするようになることで綺麗な前髪になり「大人になること」によるディテール変化指摘した加えて宇垣題名にある「花束」というのは根を張ることのなかった恋を表現しているのではないか指摘したリアルサウンド映画部寄稿され映画評論家である小野寺系の記事によると本作主人公である麦と絹は日本人大多数から見ればマニアック趣味持っているようにあえて描かれているが、一方で意図的に互い鏡像として描かれたその主人公2人によるポップカルチャー表層をなぞるだけのような自意識考え方姿勢表面化してくるのが2人による同棲始まった後の展開であり、本作は“自分のこと特別だ思っていた人間が、じつは凡庸な存在だった”という事実に、少しずつ気づいていくという積み重ね物語というような側面持っている小野寺評している。また、小野寺本作描かれている川の側で慎ましい日々を送る2010年代後半東京の生活というのは、かつてヒット記録し映画の題材ともなった南こうせつによるフォークソング「神田川」歌われ世界現代版とも受け止めることができると分析し「神田川」歌われるのは学生運動広まった時代当事者だった者たちの挫折と、その後心情言外救いあげるような、日本フォークソングブーム本質をついたものであり、学生運動身を投じた若者たちの熱と、その後同棲する恋人優しさほだされて“普通の幸せ”に取り込まれることで、かつて批判していた社会構造順応していってしまう自分への葛藤凝縮されており、団塊の世代共通の感覚として支持され世界観であるが、その一方で本作でも描かれている2010年代学生世代広く共通している事象といえば経済状況悪化による貧困経験している・する場合多くなっているということであり、この世代が感じているのは、凋落していく日本社会のなかでどうサバイブしていくかという、かつての世代比べてきわめて現実的な不安であり、殺伐とした社会飲み込まれ生活費ばかりを追い求めるうになる自分たちへの憐憫や不安であるのではないか小野寺予想しこのように本作はいくつかの世代に共通する“普通”に対す漠然とした忌避葛藤難しさを、2010年代ポップカルチャー耽溺する20代の見る世界として表現したきわめて“普通”の物語として描かれていると理解することができるが、それを映画作品として、ここまで意識的批評的見せるというのはかなり珍しく、人それぞれに徹底して個人個人色々な感情生じさせることでヒットした本作がかつてのフォークソング同様に、“鎮魂”という側面で心に響いた観客もまた多いのではないか小野寺評している。 現代ビジネス寄稿されたライター・コメカの記事によると、本作ヒットした理由考え上で主人公1人である絹が劇中で口にする「わたしはやりたくないことしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ」という台詞着目し、「字面だけだと世間知らず甘えた発言のように見え台詞だが、本作観ると、この言葉がとても切実なものとして胸に響いてくる」とした上で本作主人公特徴としてサブカルチャー嗜好する人たちがやりがちな 「自分のほうがより文化に詳しい」「自分はこんな経験だってしている」といった「卓越競争」を絹と麦はふたりの間においても、文化系の友人たちとの間においても、こういったコミュニケーションをほとんど行わず好きなものを共有できる喜び分かち合っている描写が特に目立つことから、「絹と麦にとってサブカルチャー自分たちを護るのようなもの」であり、大好きなカルチャー埋め尽くされ多摩川沿いの部屋は、社会から距離を置いたふたりの「籠(こも)り」の場所であるかのように映っていると分析した。そして、そういった描写から本作脚本担当した坂元裕二社会的な主題取り上げている過去作品共通して描かれる社会から疎外されるつらさのなかで生きながら、それでも思考停止せず、自分自身他者真摯に向き合おうとする人々」のように本作主人公達過酷な過去背負っているわけではないが、社会主流上手く馴染めいながら必死に生きているという点において、絹と麦は、『それでも、生きてゆく』、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』といった坂元過去の作品登場人物たちと同じ切実さを抱えているとし、少しでも「好き」を持ち寄ってなんとか楽しく生きてこうとする人々切実な場所としてサブカルチャー描かれるのは、坂元が持つ人間への視線在り方裏打ちされていると評したまた、作品中盤、麦がイラストレーター一本での自活諦め就職決意するころから物語転調し、麦が社会向き合っていく中でマッチョイズム少しずつ剥き出しにしていくことによりモラトリアム崩壊していく過程において、麦と絹のカルチャーへの向き合い方や社会における生き方本質的な違い顕在化していき、お互い人生対すハードルをさげ「恋愛関係ではなく結婚し家族として共に生きていくのなら、それでもやっていけるのかもしれない」という妥協した末の結論ではなく、「かつての自分たちのような2人会話」をきっかけとして最後の最後思考停止価値観対しギリギリ抗ったのは、好きなカルチャー持ち寄って互いにそれを交換し自分なり感受性でそれを受け止めながら過ごしたふたりの道のり無駄なものではなく、そこで育まれた「楽しく生きることへのこだわり」が精神的な成長期を迎えたふたりの「抵抗」を支えたではないかと、考察した。そして、筆者は「どんな社会状況においても、どんな立場の人にとっても、『人はどのように生きていくべきなのか』という命題は常に普遍的なものとしてある。『花束みたいな恋をした』のなかで描かれた、『ちゃんと楽しく生きたい』という願い一見甘く見えるこの願いは、『それでも、生きてゆく』の終盤双葉極限緊張感のなかで口にする『真面目に生きたいんです』という願いと、本質的には同じ切実さを持っているのではないだろうか。」と、坂元過去脚本との共通点挙げ、「過酷になり続け現代社会のなかで、思考停止せず自分なりにものを考え続け他者想いながら生きていくことへの強い気持ちが、他の坂元作品同じよう本作には溢れており、そのことがやはり、多くの人の心を強くとらえているのではないかと、私は思うのだ」と評した現代ビジネス寄稿され高木敦史記事において、時間がなく2人が見に行けなかった映画として作中登場するエドワード・ヤン監督による1991年台湾映画牯嶺街少年殺人事件』と『花束みたいな恋をした』では、 小四と小明、麦と絹の関係性において似たすれ違い存在していると指摘した上で、両作に共通する物語側面として、「自分の夢はふたりの夢だと勘違いし、夢を追ううちに相手偶像化してしまい、やがて実像とのズレ絶望する」という面があり、この点において『クーリンチェ』の小四と『花束』の麦は同じで、そんな相手許容していたが次第息苦しさ感じ始めるという点においても、『クーリンチェ』の小明と『花束』の絹は同じ問題抱えており、要するに「自分夢の中心に他人据えること」と「他人の夢中心に自分据えること」によるすれ違い両者の関係性において共通していると評した加えて、『クーリンチェ』の場合閉塞した社会での複雑な状況ゆえに、という側面があったが、より平和なはずの世界住んでおり似たもの同士自認するはずの『花束』の麦と絹がなぜそのズレに気づかなかったのかというと、そこにサブカルチャー関連してくると筆者指摘し、『花束』におけるサブカル一見すると趣味が合う」ことを示す記号に過ぎないが、『クーリンチェ』を経ることでふたりの趣味サブカルであったことの必然性明らかになる分析し、『花束』では、「何が嫌いか」について一度だけ話すシーンがあり、あまりにもたわいないものであったことから、同時に何が嫌いか」についてさほど自覚的でなかったことの証左にも見え加えてふたりが好きなものについて語るとき、相席した4人で押井守監督居合わせる場面における様子から読み取れるように、その多くは「これの良さ理解しない者とは相容れない」というものであり、これらの点から察するに、よく似た嗜好のふたり、一見好きなものが同じ彼らは、実は「メジャーなものを好む人たちには理解されないマイナーなものが好き」同士なのではなく、「マイナーなもの理解せずメジャーなものを好む人たちが嫌い」であり、ふたりの共通点は「好きなもの」ではなく嫌いなもの」だったのではないか分析した加えて何が嫌いか」に無自覚なふたりが、嫌いなものから目を逸らして生きる中でサブカル傾倒していき、その嫌いなもの正体をより突き詰めていけば、それは自分たちのようなマイナーな存在理解しないメジャーな存在総体——即ち社会なのではないか考察した。つまり、ふたりは共に社会対する「生きづらさ」を感じており、「普通とは」「責任とは」「人生とは」とあれこれ悩み考えるのは、全て社会立ち向かうためで、そういった視点見た場合花束みたいな恋をした』は、麦と絹が「サブカル」という表層通じて生きづらさ」を分かち合い対抗すべく手を取り合う姿を描いた映画であると読み取れることができ、だからこそ、この映画多くの人の共感を得ながらも一方で終わった後に語りたくなるのは画面に映る恋愛模様の奥に感じる(「社会」と名付けられている)何かの正体見極めたいという欲求からくるものではないか考察した。そして、『クーリンチェ』の小四と小明は、この世は退屈なことや嫌なとばかりだという点を分かち合っており、鬱屈とした世界立ち向かうたの手段があまりにも相容れないのだったため、最後殺人という許されざる悲劇向かい、『花束』の麦と絹もまた、社会生きづらさを共有し、ふたりそれぞれ社会対抗する手段模索したものの、その手段は分かち合えないものだったが、『花束』が『クーリンチェ』と異なるのは、ふたりがお互いに相手尊重し同意の上で袂を分かちそれぞれの道を歩き出したことであり「すれ違い」が悲劇ではなく成長契機として描かれている部分にあるとした上で筆者は「もちろんこの二作は時代舞台違いますから、単純な比較無意味です。しかし『クーリンチェ』が当時の社会情勢写実的に描いた台湾ニューシネマの中での名作として語られるのと同じように、『花束』は「普通」がわかりづらい現代日本における生きづらさと苦難写実的に描きつつ、それでもなおポジティブ物語にまとめあげた名作として語られる映画だと感じます。」と評した

※この「評論・評価」の解説は、「花束みたいな恋をした」の解説の一部です。
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