評論活動および流刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 08:50 UTC 版)
「ニコライ・チェルヌイシェフスキー」の記事における「評論活動および流刑」の解説
1853年再びペテルブルクに上京し、評論・執筆活動に入る。1855年クリミア戦争の最中、皇帝ニコライ1世の死去を契機としてチェルヌイシェフスキーは翌1856年から雑誌『現代人』(同時代人とも)の編集と執筆者となり、アレクサンドル2世によって醸成されたクリミア戦争後の改革期にニコライ・ドブロリューボフとともに活躍した。農奴解放問題でチェルヌイシェフスキーは、農奴に無償で土地を付与して本当の意味での解放を目指すことと、未来の社会主義建設のために農村共同体(ミール)の維持を主張し、従来の地主や貴族の利害を保護し改革を不徹底な物に堕してしまったとして、ツァーリの政府、および政府と妥協した自由主義者を激しく攻撃した。1861年には、不徹底な農奴解放令に反対する立場から、学生運動に支援を与えたり、民衆蜂起をめざす全ロシア農民革命のための秘密結社組織をめざしたりしたが、このことが当局に忌避され、翌1862年6月に逮捕された。1864年懲役7年・シベリア終身流刑の判決を受ける。厳しい流刑生活により次第に健康が蝕まれたこともあり、流刑先ではかつての激しさをもった活動する思想家とは、別人のようであったと伝えられる。1889年に病気のため、帰郷を許される。同年10月29日脳溢血のため、死去。61歳。
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