第三飛行師団とは? わかりやすく解説

第三飛行師団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:57 UTC 版)

菅原道大」の記事における「第三飛行師団」の解説

1941年9月15日第3飛行集団長。12月太平洋戦争開戦したが、菅原開戦同時に開始されマレー作戦における航空作戦指揮し菅原今まで培ってきた航空知識ノウハウ十二分に発揮し豊かな発想航空作戦展開していった。第3飛行集団は、陸軍航空隊エリート集めた精鋭部隊であったので、もっとも重要な1941年12月8日開戦劈頭コタバル海岸敵前上陸作戦航空支援担当した。しかし、仏印から出撃日本軍輸送船団護衛する陸軍戦闘機航続距離短く短時間護衛仏印基地帰還する必要があったので、菅原は「上陸部隊飛行場占領しだいそこに着陸せよ」という大胆な作戦計画し、第12飛行団青木武三大佐実行命じた青木は自ら九七式戦闘機乗り込んで船団護衛任務に就くと、地上部隊から「敵飛占領す」との報告がなかったに関わらず、自ら先頭立って悲愴覚悟シンゴラ飛行場強行着陸した。飛行場はすでに日本軍地上部隊占領しており、味方戦闘機滑り込んできたのを見た日本軍将兵歓声をあげ、作戦成功知らせ受けた菅原喜んでいる。 菅原占領したての飛行場九九式双発軽爆撃機進出させて、コタバル飛行場イギリス空軍航空部隊攻撃させた。コタバルイギリス軍機は日本軍上陸した12月8日に、ハドソン爆撃機合計3回述べ十数機が日本軍輸送船団爆撃して高速輸送船淡路山丸全損追い込んでいたが、日本軍の爆撃により損害被って12月13日にはコタバル飛行場から撤退している。第3飛行集団イギリス空軍圧倒しながらも、イギリス空軍ゲリラ的少数機で日本軍地上部隊継続的に爆撃加えていた。菅原はまず絶対的制空権確保優先しており、 効果的な地上攻撃をしてくるイギリス軍機に対して第3航空集団制空権確保集中するあまりに地上支援少ないと感じていた第25軍山下奉文陸軍中将は「まずは地上作戦協力の方が緊急」という不満を抱いていた。山下の不満を受けて南方軍参謀谷川一男大佐は、「遠藤三郎率い第3飛行団第3飛行集団から第25軍指揮下に移してはどうか」とする案を菅原第3飛行集団示したが、菅原らは谷川提案一蹴遠藤が「まずは何より重要なことは全般制空権獲得し、その傘の下作戦することである」との意見谷川返した。そのため、引き続き第3飛行団第3飛行集団指揮下で菅原方針通り制空権確保全力投入し1941年12月21日第3飛行団イポークアラルンプールバッファローを4機撃墜、翌22日には陸軍航空隊最新鋭戦闘機一式戦闘機(隼)を配備した加藤建夫中佐率い飛行第64戦隊の隼23機がクアラルンプール飛行場攻撃迎撃現れイギリス空軍453飛行隊バッファロー交戦して15機を撃墜するなど航空殲滅戦展開し制空権確保していき、菅原作戦通り全般制空権確保した第3飛行集団地上協力によりイギリス軍地上部隊各地第25軍撃破され、シンガポール向けて退却していった。 第3飛行集団は、北マレー配備されていたイギリス軍100機のうち50機を撃墜破して撤退させ、北マレー制空権確保したため、菅原司令部カンボジアプノンペンからマレー半島のスンゲイパタニに前進させた。しかし、菅原進出直後にスンゲイパタニがブリストル ブレニム爆撃機奇襲攻撃を受け、あわや全滅か、という窮地陥ったこともあった。 シンガポールが近づいた1942年1月8日菅原第25軍シンガポール攻略支援のために入念な航空殲滅作戦命じた菅原命令に基づき1月12日72機もの大編隊がシンガポール空襲迎撃してきたバッファロー10機を撃墜し重爆撃機悠々とイギリス軍飛行場爆撃した。この日はさらに第2撃も加えられイギリス空軍多大な損害与えた。翌13日には、菅原はより前線に近い場所で指揮執るため、スンゲイパタニで敵機爆撃によりあわやという経験をしたのにも関わらず恐れことなくクアラルンプールまで司令部前進させた。第3飛行集団1月18日までシンガポール激し空爆加えて12日からの累計戦果敵機110機撃墜破にも上ったその後は、マレー西海岸シンガポール向けて猛進している近衛師団航空支援行ったが、イギリス軍機の活動はなおも活発であり、1月18日には菅原司令部があるクアラルンプール爆撃を受け、菅原は無事であったが、地上で数機の日本軍機が撃破され、死者3名を含む多数死傷者出たシンガポールイギリス空軍には、1942年1月はじめに中東から新型戦闘機ホーカー ハリケーン2個中隊約50機が補充されており第3飛行集団脅威となっていたが、1942年1月20日に、新鋭戦闘機ハリケーン加藤率いる第64戦隊初め交戦。この空戦で隼は1機を失いつつも敵指揮官機を含むハリケーン3機を撃墜し完勝し、隼の優位性実証している。その後ハリケーン日本軍の空襲迎撃出撃するが、そのたび損失が膨んで、イギリス軍ハリケーンへの期待裏切られ格好となった第25軍順調に進撃していたが、その後航空作戦のために、航空燃料爆弾前線エンドウへの輸送が必要であったことから、シンゴラから輸送船2隻がエンドウへ向かうこととなった輸送船団発見したイギリス空軍は、残存戦力総力結集してこの船団攻撃することとした。まずは、イギリス軍オーストラリア軍戦爆連合編隊34機が来襲したが、上空援護していた第11戦隊と援軍として到着した第1戦隊迎撃して17機を撃墜し撃退したその後第2波の約20機が来襲したが、弾薬撃ち尽くして帰還した第11戦隊に代わり飛行47戦隊二式単座戦闘機鍾馗)2機が迎撃して15機を撃墜してこれを撃退した輸送船団軽微な損害被ったが、揚陸支障なく続けられた。この大損害によりシンガポールイギリス空軍壊滅状態に陥り、こののちイギリス空軍機は殆ど姿を見せなくなってしまった。シンガポール制空権確保した1942年2月には、第3飛行集団爆撃機によりシンガポールイギリス連日攻撃したまらずマレー方面イギリス空軍司令官ホッバム空軍大将ガルフォード空軍少将シンガポール逃げだし、日本軍から撃墜撃破逃れた残存機ジャワスマトラ島待避してしまった。制空権を完全に失ったイギリス軍シンガポールの戦い経て1942年2月15日日本軍降伏した次いで第3飛行集団蘭印作戦転戦したが、重爆撃機部隊同時に進行していたビルマの戦い投入されることとなったので、蘭印作戦には戦闘機部隊軽爆撃機部隊だけが、東南アジア各地日本軍航空部隊敗北して撤退してきた連合軍航空混成部隊と戦うこととなった蘭印作戦でもっとも華々しかった航空作戦パレンバン空挺作戦であり、菅原配下空挺部隊は、加藤らの強力な航空支援の下でスマトラ島パレンバン空挺作戦敢行し、ロイヤル・ダッチ・シェル操業する製油所などを殆ど無傷占領した加藤隼戦闘隊蘭印でも活躍して航空殲滅作戦ホーカーハリケーンなど30機以上を撃墜し制空権確保した制空権奪取した日本軍地上部隊順調に進軍しバンドン要塞首都バタビア現在のジャカルタ)に迫り1942年3月1日にはオランダ軍最大飛行場カリヂャチィ飛行場占領した蘭印オランダ軍司令官ハイン・テル・ポールテン中将は、カリヂャチィ飛行場失陥報告を受けるや、その重要性鑑みて奪還すべく多数軽戦車装甲車伴った歩兵1個連隊差し向けた。カリヂャチィ飛行場防衛している日本軍部隊はわずかしかいなかったので、日本軍はたちまち包囲されたが、菅原日本軍苦戦の報を聞くや、遠藤率い第3飛行団をカリヂャチィ飛行場支援派遣遠藤は自ら隼に搭乗すると、数機の隼と九九式双発軽爆撃機オランダ軍攻撃しては、カリヂャチィ飛行場着陸弾薬燃料補給後に再出撃してオランダ軍攻撃するといったことを繰り返しオランダ軍100両以上の軽戦車装甲車トラックなどの車両残骸残して撤退し飛行場防衛成功している。 連合軍最後望みオーストラリアから水上機母艦ラングレー輸送艦搭載され蘭印向かっていたカーチス P-4059であったが、ラングレー日本海軍陸上攻撃機爆撃撃沈され、P-4039機が海没し連合軍望み絶たれてしまった。 菅原指揮され第3飛行集団は、南方作戦のマレー・シンガポール・パレンバン・ジャワ で活躍し赫赫たる大戦果を挙げて日本軍初期快進撃大い貢献したアメリカ軍戦後日本軍のこの時期航空作戦について、「日本陸軍航空隊活躍海軍ほどめざましいものではなかったが、東南アジア制空権確保重要な役割をはたし、フィリピンでは海軍補助した」。「マレー沖海戦に次ぐ(南方作戦における)華麗な日本軍航空作戦は、1942年2月14日おこなわれたパレンバン対す陸軍空挺部隊による空挺作戦であった」と評価している。なかでも加藤率い加藤隼戦闘隊活躍目覚ましく加藤らの国民的な人気名声高めと共に加藤らを指揮した菅原陸軍航空第一人者という地位揺るぎないものとした。 南方作戦一段落した1942年5月から6月にかけて各飛行集団飛行師団改組され、菅原第3飛行集団改組された第3飛行師団師団長そのまま留任1942年7月9日には新しく編成され第3航空軍司令官拝命第3航空軍は主にビルマ航空戦戦ったが、敵はイギリス空軍だけではなくフライング・タイガースやそれを承継したアメリカ陸軍航空隊オーストラリア空軍など連合軍航空部隊相手となり、第3航空軍400機に対して航空戦力はその倍以上と想定された。それでも菅原怖じけることなく積極的な航空作戦継続することとした。司令官となるや、ただちに隷下各部隊視察激励して回り8月末には全軍対し「わが航空軍増強されつつある四周の敵空軍対応する方途は、戦力集結し機先を制し意表衝く短切果敢な進攻作戦と、軽快機敏な奇襲反復とに寄り、敵の台頭粉砕し、また統合され空地戦力による邀撃によって来襲戦力撃砕することにある」「また執拗な消耗戦対策としては、防空戦闘力とくに対空射撃威力発揚と、徹底した分散遮蔽偽装及び適切な防護手段励行肝要である。」と攻撃面だけでなく、日本軍軽視しがちな防御面も重視せよという訓示行っている。 第3航空軍航空殲滅戦第15軍航空支援しながらインド中国連合軍基地から飛来するB-24などの重爆撃機迎撃行ったその頃太平洋正面戦線では、1942年10月ガダルカナル島の戦い10月攻勢頓挫しニューギニアの戦いでも東部への進撃連合軍反撃により押しとどめられた。大本営太平洋南東方面攻勢維持するため、第3航空軍から一部戦力を同方面転用することを決定し11月25日菅原伝えられたが、菅原は同方面戦局厳しくなるとの正確な判断をし、この戦力転用命令に対して南東方面緒戦好調に乗じ海軍占領地に引き摺られ、目下面子不利な戦闘交えあるが如く」「長期戦予期せるにおいては戦線緊縮不敗体勢立て直し必要なり」「一歩後退せるニューギニア西北部よりグアム島の戦を占拠主線とし、これを保持するためには奥行きある飛行基地設定を必要とするもおおむね適すべく、それへの転機一大決心要す」と、海軍張り合って無駄な進撃止めて戦線縮小すべきという考え日記書いているが、こののち菅原懸念通り日本軍ソロモンニューギニア膨大な戦力喪失して完全に戦争主導権を失うことになった第3航空軍からは約100機もの戦力転用されたが、菅原少なくなった戦力効果的に担当地域配分引き続きビルマでは積極的な航空作戦展開しインドビルマ国境の町アキャブ(現在のシットウェー)方面航空殲滅戦行いチッタゴンカルカッタにも猛攻続けた12月24日には菅原も自ら最前線のビルマトングーの飛行場まで行き直接第5飛行師団作戦指導行っている。12月25日には第4飛行団中西良介中将航空機にて移動中に敵機遭遇して空戦となり被弾墜落避けられたものの司令部があったメイミョウまでたどり着けず、代わりに牟田口廉也中将協議のためにメイミョウにいた菅原が、急遽中西に代わって部隊指揮を執ったということもあった。アキャブ方面での航空殲滅戦は年が明けてからも続けられ第3航空軍多大なる戦果挙げ第一次アキャブ作戦連合軍の攻撃迎え撃っている第15軍支援した時折アメリカ陸軍航空隊雲南にある飛行場にも攻撃加え1942年4月26日には戦爆連合65機を持って雲南駅南飛行場進撃、完全に奇襲となって日本軍による爆撃アメリカ軍20数機がたちまち炎上し飛行場施設破壊されて、飛行場にいたクレア・リー・シェンノート少将負傷させるといった大戦果を挙げている。4月30日ビルマ方面視察終えてシンガポール帰還した菅原は、5月1日陸軍航空士官学校長への転補内示があって、5月5日内地帰還した菅原第3航空軍司令官であった9ヶ月間の間ビルマ方面においては戦力整えつつあった連合軍航空部隊に対して日本軍戦力劣っていながら制空権を渡すことなく戦い抜いた陸軍航空士官学校校長となった菅原は、欧米航空事情学び合理的な作戦実績挙げてきた経験活かして日本陸軍伝統精神主義ではない、合理的な思考によって陸軍航空士官たちを教育した

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