第三飛行師団
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1941年9月15日第3飛行集団長。12月に太平洋戦争が開戦したが、菅原は開戦と同時に開始されたマレー作戦における航空作戦を指揮し、菅原は今まで培ってきた航空の知識やノウハウを十二分に発揮し、豊かな発想で航空作戦を展開していった。第3飛行集団は、陸軍航空隊のエリートを集めた精鋭部隊であったので、もっとも重要な1941年12月8日開戦劈頭のコタバル海岸敵前上陸作戦の航空支援を担当した。しかし、仏印から出撃し日本軍の輸送船団を護衛する陸軍戦闘機の航続距離は短く、短時間の護衛で仏印の基地に帰還する必要があったので、菅原は「上陸部隊が飛行場を占領しだいそこに着陸せよ」という大胆な作戦を計画し、第12飛行団長青木武三大佐に実行を命じた。青木は自ら九七式戦闘機に乗り込んで船団護衛任務に就くと、地上部隊から「敵飛行占領す」との報告がなかったにも関わらず、自ら先頭に立って悲愴な覚悟でシンゴラ飛行場に強行着陸した。飛行場はすでに日本軍地上部隊が占領しており、味方の戦闘機が滑り込んできたのを見た日本軍将兵は歓声をあげ、作戦成功の知らせを受けた菅原も喜んでいる。 菅原は占領したての飛行場に九九式双発軽爆撃機を進出させて、コタバル飛行場のイギリス空軍航空部隊を攻撃させた。コタバルのイギリス軍機は日本軍が上陸した12月8日に、ハドソン爆撃機の合計3回述べ十数機が日本軍輸送船団を爆撃して高速輸送船淡路山丸を全損に追い込んでいたが、日本軍の爆撃により損害を被って12月13日にはコタバル飛行場から撤退している。第3飛行集団はイギリス空軍を圧倒しながらも、イギリス空軍はゲリラ的少数機で日本軍地上部隊に継続的に爆撃を加えていた。菅原はまず絶対的制空権の確保を優先しており、 効果的な地上攻撃をしてくるイギリス軍機に対して、第3航空集団は制空権確保に集中するあまりに地上支援が少ないと感じていた第25軍山下奉文陸軍中将は「まずは地上作戦協力の方が緊急」という不満を抱いていた。山下の不満を受けて南方軍参謀谷川一男大佐は、「遠藤三郎率いる第3飛行団を第3飛行集団から第25軍の指揮下に移してはどうか」とする案を菅原ら第3飛行集団に示したが、菅原らは谷川の提案を一蹴、遠藤が「まずは何より重要なことは全般の制空権を獲得し、その傘の下で作戦することである」との意見を谷川に返した。そのため、引き続き第3飛行団は第3飛行集団の指揮下で菅原の方針通り、制空権確保に全力を投入し、1941年12月21日、第3飛行団がイポーとクアラルンプールでバッファローを4機撃墜、翌22日には陸軍航空隊の最新鋭戦闘機一式戦闘機(隼)を配備した加藤建夫中佐率いる飛行第64戦隊の隼23機がクアラルンプール飛行場を攻撃、迎撃に現れたイギリス空軍第453飛行隊のバッファローと交戦して15機を撃墜するなど航空殲滅戦を展開し制空権を確保していき、菅原の作戦通り、全般の制空権を確保した第3飛行集団の地上協力によりイギリス軍地上部隊は各地で第25軍に撃破され、シンガポールに向けて退却していった。 第3飛行集団は、北マレーに配備されていたイギリス軍機100機のうち50機を撃墜破して撤退させ、北マレーの制空権を確保したため、菅原は司令部をカンボジアのプノンペンからマレー半島のスンゲイパタニに前進させた。しかし、菅原の進出直後にスンゲイパタニがブリストル ブレニム爆撃機に奇襲攻撃を受け、あわや全滅か、という窮地に陥ったこともあった。 シンガポールが近づいた1942年1月8日、菅原は第25軍のシンガポール攻略支援のために入念な航空殲滅作戦を命じた。菅原の命令に基づき、1月12日に72機もの大編隊がシンガポールを空襲、迎撃してきたバッファロー10機を撃墜し、重爆撃機は悠々とイギリス軍飛行場を爆撃した。この日はさらに第2撃も加えられ、イギリス空軍に多大な損害を与えた。翌13日には、菅原はより前線に近い場所で指揮を執るため、スンゲイパタニで敵機の爆撃によりあわやという経験をしたのにも関わらず、恐れることなくクアラルンプールまで司令部を前進させた。第3飛行集団は1月18日までシンガポールに激しい空爆を加えて、12日からの累計の戦果は敵機110機撃墜破にも上った。その後は、マレー西海岸をシンガポールに向けて猛進している近衛師団の航空支援を行ったが、イギリス軍機の活動はなおも活発であり、1月18日には菅原の司令部があるクアラルンプールも爆撃を受け、菅原は無事であったが、地上で数機の日本軍機が撃破され、死者3名を含む多数の死傷者が出た。 シンガポールのイギリス空軍には、1942年1月はじめに中東から新型戦闘機ホーカー ハリケーン2個中隊約50機が補充されており第3飛行集団の脅威となっていたが、1942年1月20日に、新鋭戦闘機ハリケーンと加藤率いる第64戦隊が初めて交戦。この空戦で隼は1機を失いつつも敵指揮官機を含むハリケーン3機を撃墜して完勝し、隼の優位性を実証している。その後もハリケーンは日本軍の空襲の迎撃に出撃するが、そのたびに損失が膨んで、イギリス軍のハリケーンへの期待は裏切られた格好となった。 第25軍は順調に進撃していたが、その後の航空作戦のために、航空燃料や爆弾を前線のエンドウへの輸送が必要であったことから、シンゴラから輸送船2隻がエンドウへ向かうこととなった。輸送船団を発見したイギリス空軍は、残存戦力の総力を結集してこの船団を攻撃することとした。まずは、イギリス軍とオーストラリア軍の戦爆連合の編隊34機が来襲したが、上空援護していた第11戦隊と援軍として到着した第1戦隊が迎撃して17機を撃墜して撃退した。その後に第2波の約20機が来襲したが、弾薬を撃ち尽くして帰還した第11戦隊に代わり、飛行第47戦隊の二式単座戦闘機(鍾馗)2機が迎撃して15機を撃墜してこれを撃退した。輸送船団は軽微な損害を被ったが、揚陸は支障なく続けられた。この大損害によりシンガポールのイギリス空軍は壊滅状態に陥り、こののちイギリス空軍機は殆ど姿を見せなくなってしまった。シンガポールの制空権を確保した1942年2月には、第3飛行集団は爆撃機によりシンガポールのイギリスを連日攻撃し、たまらずマレー方面のイギリス空軍司令官ホッバム空軍大将やガルフォード空軍少将はシンガポールを逃げだし、日本軍から撃墜撃破を逃れた残存機もジャワやスマトラ島に待避してしまった。制空権を完全に失ったイギリス軍はシンガポールの戦いを経て、1942年2月15日に日本軍に降伏した。 次いで、第3飛行集団は蘭印作戦に転戦したが、重爆撃機部隊は同時に進行していたビルマの戦いに投入されることとなったので、蘭印作戦には戦闘機部隊と軽爆撃機部隊だけが、東南アジア各地で日本軍航空部隊に敗北して撤退してきた連合軍航空混成部隊と戦うこととなった。蘭印作戦でもっとも華々しかった航空作戦はパレンバン空挺作戦であり、菅原配下の空挺部隊は、加藤らの強力な航空支援の下でスマトラ島のパレンバンに空挺作戦を敢行し、ロイヤル・ダッチ・シェルが操業する製油所などを殆ど無傷で占領した。加藤隼戦闘隊は蘭印でも活躍して航空殲滅作戦でホーカーハリケーンなど30機以上を撃墜して制空権を確保した。制空権を奪取した日本軍地上部隊は順調に進軍し、バンドン要塞と首都バタビア(現在のジャカルタ)に迫り、1942年3月1日にはオランダ軍最大の飛行場カリヂャチィ飛行場を占領した。蘭印のオランダ軍司令官ハイン・テル・ポールテン中将は、カリヂャチィ飛行場の失陥の報告を受けるや、その重要性を鑑みて奪還すべく多数の軽戦車、装甲車を伴った歩兵1個連隊を差し向けた。カリヂャチィ飛行場を防衛している日本軍部隊はわずかしかいなかったので、日本軍はたちまち包囲されたが、菅原は日本軍苦戦の報を聞くや、遠藤率いる第3飛行団をカリヂャチィ飛行場の支援に派遣、遠藤は自ら隼に搭乗すると、数機の隼と九九式双発軽爆撃機でオランダ軍を攻撃しては、カリヂャチィ飛行場に着陸、弾薬と燃料を補給後に再出撃してオランダ軍を攻撃するといったことを繰り返し、オランダ軍は100両以上の軽戦車、装甲車、トラックなどの車両の残骸を残して撤退し、飛行場の防衛に成功している。 連合軍の最後の望みはオーストラリアから水上機母艦ラングレーと輸送艦に搭載されて蘭印に向かっていたカーチス P-40の59機であったが、ラングレーが日本海軍の陸上攻撃機の爆撃で撃沈され、P-40の39機が海没し連合軍の望みも絶たれてしまった。 菅原に指揮された第3飛行集団は、南方作戦のマレー・シンガポール・パレンバン・ジャワ で活躍し、赫赫たる大戦果を挙げて日本軍初期の快進撃に大いに貢献した。アメリカ軍も戦後に日本軍のこの時期の航空作戦について、「日本陸軍航空隊の活躍は海軍ほどめざましいものではなかったが、東南アジアの制空権確保に重要な役割をはたし、フィリピンでは海軍を補助した」。「マレー沖海戦に次ぐ(南方作戦における)華麗な日本軍の航空作戦は、1942年2月14日におこなわれたパレンバンに対する陸軍空挺部隊による空挺作戦であった」と評価している。なかでも加藤率いる加藤隼戦闘隊の活躍は目覚ましく、加藤らの国民的な人気や名声を高めると共に、加藤らを指揮した菅原の陸軍航空の第一人者という地位も揺るぎないものとした。 南方作戦が一段落した1942年5月から6月にかけて各飛行集団は飛行師団に改組され、菅原は第3飛行集団が改組された第3飛行師団の師団長にそのまま留任、1942年7月9日には新しく編成された第3航空軍司令官を拝命。第3航空軍は主にビルマ航空戦を戦ったが、敵はイギリス空軍だけではなく、フライング・タイガースやそれを承継したアメリカ陸軍航空隊やオーストラリア空軍など連合軍の航空部隊が相手となり、第3航空軍400機に対して敵航空戦力はその倍以上と想定された。それでも菅原は怖じけることなく積極的な航空作戦を継続することとした。司令官となるや、ただちに隷下各部隊を視察、激励して回り、8月末には全軍に対し「わが航空軍が増強されつつある四周の敵空軍に対応する方途は、戦力を集結し機先を制し意表を衝く短切果敢な進攻作戦と、軽快機敏な奇襲の反復とに寄り、敵の台頭を粉砕し、また統合された空地戦力による邀撃によって来襲敵戦力を撃砕することにある」「また執拗な消耗戦対策としては、防空戦闘力とくに対空射撃威力の発揚と、徹底した分散遮蔽偽装及び適切な防護手段の励行が肝要である。」と攻撃面だけでなく、日本軍が軽視しがちな防御面も重視せよという訓示を行っている。 第3航空軍は航空殲滅戦と第15軍の航空支援をしながら、インドや中国の連合軍基地から飛来するB-24などの重爆撃機の迎撃も行った。その頃、太平洋正面の戦線では、1942年10月にガダルカナル島の戦いの10月攻勢は頓挫し、ニューギニアの戦いでも東部への進撃が連合軍の反撃により押しとどめられた。大本営は太平洋南東方面で攻勢を維持するため、第3航空軍から一部戦力を同方面に転用することを決定し11月25日に菅原に伝えられたが、菅原は同方面の戦局は厳しくなるとの正確な判断をし、この戦力転用命令に対して「南東方面も緒戦の好調に乗じ、海軍の占領地に引き摺られ、目下は面子上不利なる戦闘を交えあるが如く」「長期戦を予期せるにおいては戦線の緊縮、不敗体勢の立て直し必要なり」「一歩後退せるニューギニア西北部よりグアム島の戦を占拠主線とし、これを保持するためには奥行きある飛行基地の設定を必要とするもおおむね適すべく、それへの転機に一大決心を要す」と、海軍に張り合っての無駄な進撃は止めて戦線を縮小すべきという考えを日記に書いているが、こののち菅原の懸念通り、日本軍はソロモンやニューギニアで膨大な戦力を喪失して完全に戦争の主導権を失うことになった。 第3航空軍からは約100機もの戦力が転用されたが、菅原は少なくなった戦力を効果的に各担当地域に配分、引き続きビルマでは積極的な航空作戦を展開し、インドとビルマの国境の町アキャブ(現在のシットウェー)方面で航空殲滅戦を行い、チッタゴンやカルカッタにも猛攻を続けた。12月24日には菅原も自ら最前線のビルマトングーの飛行場まで行き、直接第5飛行師団に作戦指導を行っている。12月25日には第4飛行団の中西良介中将が航空機にて移動中に敵機と遭遇して空戦となり被弾、墜落は避けられたものの司令部があったメイミョウまでたどり着けず、代わりに牟田口廉也中将と協議のためにメイミョウにいた菅原が、急遽中西に代わって部隊指揮を執ったということもあった。アキャブ方面での航空殲滅戦は年が明けてからも続けられ、第3航空軍は多大なる戦果を挙げ、第一次アキャブ作戦で連合軍の攻撃を迎え撃っている第15軍を支援した。時折、アメリカ陸軍航空隊の雲南にある飛行場にも攻撃を加え、1942年4月26日には戦爆連合65機を持って雲南駅南飛行場に進撃、完全に奇襲となって、日本軍による爆撃でアメリカ軍機20数機がたちまち炎上し、飛行場施設も破壊されて、飛行場にいたクレア・リー・シェンノート少将も負傷させるといった大戦果を挙げている。4月30日にビルマ方面の視察を終えてシンガポールに帰還した菅原は、5月1日に陸軍航空士官学校長への転補の内示があって、5月5日に内地に帰還した。菅原が第3航空軍司令官であった9ヶ月間の間ビルマ方面においては、戦力を整えつつあった連合軍航空部隊に対して、日本軍は戦力が劣っていながらも制空権を渡すことなく戦い抜いた。 陸軍航空士官学校校長となった菅原は、欧米の航空事情を学び、合理的な作戦で実績を挙げてきた経験を活かして、日本陸軍伝統の精神主義ではない、合理的な思考によって陸軍の航空士官たちを教育した。
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