平成の市町村合併
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鬼北での合併を検討2002年(平成14年)6月に、鬼北地域と総称される北宇和郡広見町、日吉村とで任意協議会「きほく合併協議会」を設立、2町1村の合併の枠組みで協議を進めていた。 鬼北の枠組みから離脱、出直し選挙へ2003年(平成15年)11月、将来の新庁舎予定地をめぐる問題などから、協議がもつれ、合併協議から離脱。 2004年(平成16年)6月には議会が宇和島市への合併申し入れを全会一致で承認可決するなど、町と町議会は宇和島市との合併の方針に転換した。 離脱が突然のことであり、また宇和島市との合併では事実上の飛び地となることから町民が反発、2004年10月には、住民グループ「松野の今を考える会」(代表: 岡武男)が住民投票条例の制定を求めて、署名簿を町選挙管理委員会に提出した。これを受けて、2004年10月、町議会は自主解散、柳野町長は辞任した。 町長・議会とも、財政状況の厳しさなどから、合併の必要性そのものを否定しているわけではなく、必要性は認めている。しかしながら、その相手先として鬼北町を推す派と、事実上の飛び地になるが(山で接しているが、直接行き来できる一般道路はない)宇和島市を推す派の二派が拮抗しており、町長選挙の争点ともなった。 新町長後2004年11月に町長選挙の結果、町長には、住民投票条例制定と鬼北町との合併を訴えた岡武男が当選した。一方、議会は、宇和島市との合併を主張する前職7人と新人6人、元職1人の構成となった。町長派と反町長派に真っ二つに割れ、人数が全く同数であるため採決に加われない議長を両派とも出したがらない状況で、空転が続いた。 2005年(平成17年)2月には「今を考える会」が直接請求した合併の相手先を決めるための住民投票条例案を賛成6、反対7で否決した。 こうした経緯から、当面、単独で残ることとなった(愛媛県内で単独の道を選ぶこととなったのは、松野町と伊予郡松前町の2町のみである)。 愛媛県内の平成の合併では最後となる新・宇和島市の合併が成就(2005年8月)した後にあっても、状況は膠着し、松野町はどこにも加われず、一人取り残された形になった。 愛媛県による合併構想作成へ愛媛県は、「県市町合併推進審議会」において、松野町が自主的な合併意思は有していることから、改正合併特例法(合併新法)に基づく「市町村の合併推進に関する構想」を作成することとした(2005年12月16日)。なお、愛媛県内で松野町とともに単独存続した伊予郡松前町や、合併後も人口1万人に満たないの越智郡上島町については、今後の推移を見守ることとし、当面、「構想」作成対象外とした。 加戸知事から「合併しないで残った松野町は、このままいけば破産状態になることは間違いないと思います」とまで言われている。 町内でも、愛媛県との関係も考慮し、早く正常化すべきという意見が多く、地元紙へのそうした趣旨の投稿が散見された。 町長リコール運動へ事態が膠着し、宇和島市、鬼北町いずれに付くにしても進展が見られず、暗礁に乗り上げた形となった。2006年(平成18年)度当初予算も否決されるなど、町理事者と議会との溝が深まった。2006年3月、土居一誠助役が「合併の展望が見えない」と辞職。4月には臨時議会を招集したが、開会されなかった。2006年5月には町理事者側では再度臨時議会を招集したが、開会しなかった。 こうした議会が機能していないことを憂慮し、団体役員経験者などを中心とした町民有志が「甦れ!松野住民の会」を結成、2006年(平成18年)4月、町長のリコール運動を開始した。同会では、町長の指導力の欠如がこの事態を引き起こしたと批判している。これに対して、町長とその支持者では、合併の方向性を決める住民投票条例を提案しているものの、町議会がこれを決しないことに真の原因があるとの立場を崩していない。リコールは成立が見込まれる状況であった。 2006年7月23日投開票の町長のリコール投票では、町長支持派が巻き返して、リコールは成立しなかった。 リコール不成立後リコール不成立後、町長支持派と反町長派との溝がかえって深まり、議長は町長派に交替したが、副議長が固辞し決まらず、9月議会も開けず空転が続いた。そうしたなか、町長と議会の板ばさみになって、議会運営に苦慮していた酒井博正議長が2006年10月9日自殺する事態となった。 11月臨時町議会で合併条例案が提案されるも、継続審議となる。これを受けて町民の間では、議会解散を求める動きが起きた。 議会解散後「考える会」が議会のリコールを本請求、町議会は町長の不信任案を2007年(平成19年)1月19日可決、町民の将来を危惧する声が高まった。こうした混乱の中、町議会は1月22日に解散し、選挙戦に入り、2007年2月20日告示、同25日投開票の町議会議員選挙では、定数を14から10に削減のうえ実施されたが、町長派が多数派となった。出直しの町議選挙では事態の推移を見守っていた柳野前町長も出馬、当選した。 住民投票議会が新体制となったことから、合併の交渉先を鬼北町とするか宇和島市とするかの方針を決定する住民投票の運びとなり、5月22日告示、5月27日投票。82.54%の投票率で鬼北町との合併が1,810票、宇和島市との合併が1,400票と結果が出、翌日鬼北町との合併を申し入れた。また、町議会でも6月18日「鬼北町への合併に関する決議」を賛成多数で可決した(反町長派は採決の前に退席したため全会一致とならず)。 合併協議の終了2006年度決算確定後の2008年(平成20年)3月議会で両町において法定の合併協議会設置の議決がなされた。なお、松野町議会においては賛成多数による可決であった。4月1日協議会が設置され、正式に合併協議がスタートした。 協議においては、「編入合併」によることが提案され、この点については松野町も特段の異議を申し立てていない。このほか、上述の経緯や観光施設の運営に絡み松野町が抱える複数の訴訟が合併協議のネックになるとの意見も鬼北町側委員から出ており、協議を不満として鬼北町側委員の退席もみられた。 2009年(平成21年)1月8日の合併協議会で合併目標期日を2010年(平成22年)1月1日とすることを一旦決定していたが、鬼北町との間で同和行政のあり方について合意が得られず、7月14日の合併協議会で協議会の休止を決議、そのまま再開される事なく2010年3月末をもって合併協議会は廃止された。
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平成の市町村合併
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2005年(平成17年)8月1日、宇和島市、吉田町、津島町と対等合併、新しい宇和島市の一部となった。 経緯 歴史的には、先に記したとおり、鬼北地域の一員である。 しかしながら、地理的には宇和島市に近いので、宇和島市への通勤者や宇和島市からの転入者が多いなどの事情もあった。 このため、3つの道が考えられた。鬼北地域4か町村でまとまる。 宇和島市と合併する(鬼北地域と袂を分かつ) 鬼北地域4か町村全体が宇和島市と合併する(大宇和島市構想) 鬼北地域4か町村で行く道をともにする場合、人口が少ないため、将来的に自治体としての運営能力が培いにくい 新町の庁舎は鬼北地域の地理的な中央である広見町に決することが想定されるが、心理的に不便な感じがする。(松山自動車道のインターチェンジが三間町に予定されており、鬼北地域のこれからの交通の中心は本町であるとの自負はあるものの、本庁は譲らざるを得ないとのジレンマ) 平成の市町村合併の趣旨を考慮すると、より大きな自治体に付いたほうが得策。 などのことから、宇和島市との合併を推す声が行政関係者や町民には多かった。 鬼北地域の他の3か町村は鬼北地域の一員として留まるよう、特に広見町の関係者を中心に「鬼北は一つ」のスローガンのもと、働きかけも行った。ただし、庁舎位置や新町名称等で三間町に譲歩するといった戦術は取らなかった。 結局、三間町は宇和島市と合併(新設合併)することになった。
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平成の市町村合併
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「吉田町 (愛媛県)」の記事における「平成の市町村合併」の解説
吉田町は、町立病院を抱え、南予用水事業関係の負担が大きく、財政状況は逼迫し、市町村合併による効率化が避けられない状況であった。このため、宇和島市との合併は最も現実的な選択であった。 2005年(平成17年)8月1日、宇和島市、三間町、津島町と対等合併、新たに宇和島市の一部となった。なお、愛媛県内の平成期の合併としては最後であった(2010年8月現在)。
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2005年(平成17年)8月1日、宇和島市、吉田町[三間町と合併(新設合併)し、新たに宇和島市の一部となった。 津島町はもともと市町村合併には積極的ではなかった。その理由は以下のとおり。津島町一町で、南宇和郡全体(合併して愛南町一町となる)に匹敵するほど広大であった 中心となるべき宇和島市の財政難がうわさされた。 合併協議に際しては、行政機構の組み換え(水産課の新設)や町内の漁業協同組合の債務処理の問題等が表面化した。 結果的に、平成の合併としては愛媛県内では最後の市町村合併となった。 宇和島市からの疑念津島町の合併前の行政運営に対し、宇和島市長である石橋寛久は疑念を示し、合併協議会(法定)からの離脱を表明した。核となるべき市の離脱に、吉田町・三間町も大いに困惑し、協議の結果、平成16年6月において、「宇和島市・吉田町・三間町・津島町合併協議会」は「休止」状態になった。 そのときに宇和島市が示した文書によると「明らかに違和感を覚え、合併に対するパートナーとして相応しくないと感じ」とある。具体的には、以下の事柄が問題とされた。 財政調整基金の処理(16年度当初予算案では年度末残高が100万円になるまで使い切るかのように見えた) 建設事業(平成14年度、15年度の建設事業が宇和島市のそれをうわまわる状況であり、駆け込み事業ではないか) 組織改正(財政課、収納課、水産課の増設、課長補佐ポストの増設) 愛媛県市町村職員退職手当組合の問題 住民への合併問題の情報開示不足 住民投票(実施を求める町民の動きがあり、町議会で継続審査中)
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「美川村 (愛媛県)」の記事における「平成の市町村合併」の解説
美川村にとって、上浮穴郡の町村の合併でほとんど異存はなかった。むしろ、新町は愛媛県内で最大の面積を有し、かつ山村ばかりであるため、集落間あるいは旧役場・中心地間の距離が遠く、合併後の効率的な行政運営が大きな課題となることが予想された。
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平成の市町村合併
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伊予市・伊予郡全体での合併を旧・伊予市等は望んだが、幹線道路が砥部町・広田村は国道33号、国道379号、伊予市他は国道56号と異にしており、早い段階で伊予市・伊予郡全体での合併構想から離脱し、1町1村での合併の道を選んだ。 旧広田村は圧倒的に人口が少なく、国道でつながった旧・砥部町について行く以外にない立場であった。広田村から西隣の旧・中山町に行くには、車の離合もスムーズに出来かねる峠道を行く人があるなど、相互交流という面でも難がある状況であった。 当初、前町長が旧広田村との合併を提唱したのに対し、町民からは松山市との合併を望む声が高く、町民からのリコール、現町長との選挙により前町長は落選したが、その後の町民への合併希望では旧広田村との合併を望む声が一番高くなり、松山市との合併はならなかった。 合併の形式は新設合併ではあるが、実質的には旧・砥部町による旧・広田村の吸収合併であり、合併協議自体はスムーズに運んだ。 近隣の東温市(旧重信町・川内町)と同様に、旧砥部町は、隣市町から移り住んできた人と元々住んでいる人が半々であり、合併の議論のときにも、新住民は松山市、旧住民は旧広田村というように分かれ、町を二分した。
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平成の市町村合併
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合併の意義 五十崎町と隣り合った内子町は、「内山」地域と総称され、藩政期から大洲藩の統制によりハゼノキ・ミツマタ・コウゾの集散地としてあるいは製蝋・和紙製造といった産業が興るなど、似通った道を歩んできた。このため、市町村合併を考える際に当然の如くパートナーとして考えられた。合併の枠組みが決まるまでは、下記の曲折があったが、人口や交通の便では五十崎町より勝る内子町が、ツーリズム展開である意味ブランド化している町名を存続させるかわりに、本庁舎を譲るなどの配慮をみせたこともあって、枠組みが決まってからは合併協議は比較的スムーズに進んだ。 なお、後から上浮穴郡小田町が小田川流域という共通項のもとに合流してきたため、結果的には3町の合併となった。 五十崎・内子の両町は昭和30年前後の全国的な大合併の際にも話があったものの、諸般の事情で成就しなかった経緯がある。 五十崎町をめぐる合併の歩み 愛媛県の示した合併パターンでは、大洲市・喜多郡が基本パターン、参考パターンとして小田川流域等が示される。 基本パターンを推進する派の論拠としては、より大きな合併による行財政の効率化、農業協同組合等も同範囲で広域合併していることを挙げる。 2002年(平成14年)1月26日 - 喜多郡町村会で6月までに合併エリア等の基本的な方向を出すことを確認。この場で、内子町長は「まず内子と五十崎が合併するのがいい」と発言。 2002年(平成14年)3月 - 大洲市は喜多郡との合併を働きかける方針を示す。 2002年(平成14年)3月 - 内子町のアンケート結果、「内子中心」が58%(実施は1月中旬〜2月上旬)。 2002年(平成14年)3月 - 八幡浜地方局の合併検討協議会の報告書まとまる。 2002年(平成14年)4月 - 大洲市、合併推進室設置。 2002年(平成14年)4月 - 五十崎のアンケート結果、「大洲・喜多」が42.5%。五十崎町と内子町とを基本とした回答も合わせると46.6%(後にこのことを根拠に、2町合併へと突き進む)(実施は3月上旬〜中旬)。 2002年(平成14年)5月 - 五十崎町長、2町合併の方針を明らかにする。 2002年(平成14年)6月4日 - 五十崎町の議員全員協議会で町長が2町合併方針を説明、紛糾。住民説明会(時期や回数は未定)を開催した後、議員協議会で合併の枠組みを決めることとした。 2002年(平成14年) - 6月をめどに枠組みを決めるとの町村会の申し合わせがあったが、五十崎町が割れているので、決まらず先送りの情勢が濃厚に。 2002年(平成14年)6月12日 - 喜多郡町村会で内子・五十崎両町長が2町合併の方針を表明。 2002年(平成14年)7月中旬 - 五十崎町が町内3地区で2町合併推進を前提に対住民説明会開催。この会合で、本庁舎は五十崎に、町名は内子とすることで、内子町・同議会と申し合わせ済みであることを説明。 2002年(平成14年)7月17日 - 五十崎町が2町合併を問うアンケート実施決める。住民投票に替わるものとして位置づけ。議会はこの段階ではまとまり切らず。五十崎町内の有志で「県の合併パターンで合併を推進する会」ができ、チラシを配布する等、町内を二分した論争に。 2002年(平成14年)7月26日 - 五十崎町のアンケート結果出る。2町支持60.4%。 2002年(平成14年)7月30日 - 五十崎町議会全員協議会で、2町合併の方針確認、法定協議会設置へ。 2002年(平成14年)8月29日 - 内子、五十崎両町議会、法定協議会設置を議決。 2002年(平成14年)9月1日 - 法定合併協議会発足。 2002年(平成14年)10月11日 - 大洲・喜多合併協議会(任意)発足。大洲市喜多郡では2つの枠組みに別れて合併を進めていくことになった。(この後に、上浮穴郡小田町が内子・五十崎町に加わり3町合併となった)
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