平成の市町村合併とは? わかりやすく解説

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平成の市町村合併

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:18 UTC 版)

松野町」の記事における「平成の市町村合併」の解説

鬼北での合併検討2002年平成14年6月に、鬼北地域総称される北宇和郡広見町日吉村とで任意協議会「きほく合併協議会」を設立、2町1合併枠組み協議進めていた。 鬼北枠組みから離脱出直し選挙2003年平成15年11月将来新庁舎予定地をめぐる問題などから、協議がもつれ、合併協議から離脱2004年平成16年6月には議会宇和島市への合併申し入れ全会一致承認可決するなど、町と町議会宇和島市との合併方針転換した離脱が突然のことであり、また宇和島市との合併では事実上飛び地となることから町民反発2004年10月には、住民グループ松野の今を考える会」(代表: 岡武男)が住民投票条例制定求めて署名簿を町選挙管理委員会提出した。これを受けて2004年10月町議会自主解散柳野町長辞任した町長・議会とも、財政状況厳しさなどから、合併必要性そのもの否定しているわけではなく必要性認めている。しかしながら、その相手先として鬼北町推す派と、事実上飛び地になるが(山で接しているが、直接行き来できる一般道路はない)宇和島市推す派の二派が拮抗しており、町長選挙争点ともなった新町長後2004年11月町長選挙結果町長には、住民投票条例制定鬼北町との合併訴えた岡武男当選した一方議会は、宇和島市との合併主張する前職7人と新人6人、元職1人構成となった町長派と反町長派に真っ二つ割れ人数が全く同数であるため採決加われない議長を両派とも出したがらない状況で、空転続いた2005年平成17年2月には「今を考える会」が直接請求した合併相手先を決めるための住民投票条例案を賛成6、反対7で否決したこうした経緯から、当面単独で残ることとなった愛媛県内で単独の道を選ぶこととなったのは、松野町伊予郡松前町の2町のみである)。 愛媛県内の平成の合併では最後となる新・宇和島市合併成就2005年8月)した後にあっても、状況膠着し松野町はどこにも加われず、一人取り残された形になった愛媛県による合併構想作成愛媛県は、「県市町合併推進審議会」において、松野町自主的な合併意思有していることから、改正合併特例法合併新法)に基づく「市町村合併推進に関する構想」を作成することとした(2005年12月16日)。なお、愛媛県内で松野町とともに単独存続し伊予郡松前町や、合併後人口1万人に満たない越智郡上島町については、今後推移見守ることとし当面、「構想作成対象外とした。 加戸知事から「合併しないで残った松野町は、このままいけば破産状態になることは間違いない思います」とまで言われている。 町内でも、愛媛県との関係も考慮し早く正常化すべきという意見多く地元紙へのそうした趣旨投稿散見された。 町長リコール運動事態膠着し宇和島市鬼北町いずれに付くにしても進展見られず、暗礁に乗り上げたとなった2006年平成18年)度当初予算否決されるなど、町理事者と議会との溝が深まった2006年3月土居一誠助役が「合併展望見えない」と辞職4月には臨時議会招集したが、開会されなかった。2006年5月には町理事者側では再度臨時議会招集したが、開会しなかった。 こうした議会機能していないことを憂慮し団体役員経験者などを中心とした町民有志が「甦れ!松野住民の会」を結成2006年平成18年4月町長リコール運動開始した。同会では、町長指導力欠如がこの事態引き起こした批判している。これに対して町長とその支持者では、合併方向性決め住民投票条例提案しているものの、町議会がこれを決しないことに真の原因があるとの立場崩していない。リコール成立見込まれる状況であった2006年7月23日投開票町長リコール投票では、町長支持派巻き返して、リコール成立しなかった。 リコール不成立リコール不成立後、町長支持派反町長派との溝がかえって深まり議長町長派に交替したが、副議長固辞し決まらず、9月議会開けず空転続いたそうしたなか、町長議会板ばさみになって議会運営苦慮していた酒井正議長が2006年10月9日自殺する事態となった11月臨時町議会合併条例案が提案されるも、継続審議となる。これを受けて町民の間では、議会解散求め動き起きた議会解散後考える会」が議会リコールを本請求町議会町長不信任案2007年平成19年1月19日可決町民将来危惧する声が高まったこうした混乱の中、町議会1月22日解散し選挙戦入り2007年2月20日告示、同25日投開票町議会議員選挙では、定数14から10削減のうえ実施されたが、町長派が多数派となった出直し町議選挙では事態の推移見守っていた柳野前町長も出馬当選した住民投票議会新体制となったことから、合併交渉先を鬼北町とするか宇和島市とするかの方針決定する住民投票運びとなり、5月22日告示5月27日投票。82.54%の投票率鬼北町との合併が1,810票、宇和島市との合併が1,400票と結果が出、翌日鬼北町との合併申し入れたまた、町議会でも6月18日鬼北町への合併に関する決議」を賛成多数可決した反町長派は採決前に退席したため全会一致とならず)。 合併協議終了2006年度決算確定後の2008年平成20年3月議会両町において法定合併協議会設置議決なされた。なお、松野町議会においては賛成多数による可決であった4月1日協議会設置され正式に合併協議スタートした協議においては、「編入合併」によることが提案され、この点については松野町特段異議申し立てていない。このほか、上述経緯観光施設運営絡み松野町抱え複数訴訟合併協議ネックになるとの意見鬼北町委員から出ており、協議を不満として鬼北町委員退席もみられた。 2009年平成21年1月8日合併協議会合併目標期日2010年平成22年1月1日とすることを一旦決定していたが、鬼北町との間で同和行政あり方について合意得られず、7月14日合併協議会協議会休止決議そのまま再開される事なく2010年3月をもって合併協議会廃止された。

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平成の市町村合併

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:10 UTC 版)

三間町」の記事における「平成の市町村合併」の解説

2005年平成17年8月1日宇和島市吉田町津島町対等合併新し宇和島市一部となった経緯 歴史的には、先に記したとおり、鬼北地域一員である。 しかしながら地理的に宇和島市に近いので、宇和島市への通勤者宇和島市からの転入者が多いなどの事情もあった。 このため3つの道が考えられた。鬼北地域4か町村でまとまる。 宇和島市合併する鬼北地域袂を分かつ鬼北地域4か町村全体宇和島市合併する大宇和島構想鬼北地域4か町村で行く道をともにする場合人口少ないため、将来的自治体として運営能力が培いにくい 新町庁舎鬼北地域地理的な中央である広見町決することが想定されるが、心理的に不便な感じがする。(松山自動車道インターチェンジ三間町予定されており、鬼北地域これから交通の中心本町であるとの自負はあるものの、本庁は譲らざるを得ないとのジレンマ) 平成の市町村合併の趣旨考慮すると、より大きな自治体付いたほうが得策。 などのことから、宇和島市との合併推すが行関係者町民には多かった鬼北地域の他の3か町村鬼北地域一員として留まるよう、特に広見町関係者中心に鬼北一つ」のスローガンのもと、働きかけ行った。ただし、庁舎位置新町名称等で三間町譲歩するといった戦術は取らなかった。 結局三間町宇和島市合併新設合併)することになった

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平成の市町村合併

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:21 UTC 版)

吉田町 (愛媛県)」の記事における「平成の市町村合併」の解説

吉田町は、町立病院抱え南予用水事業関係の負担大きく財政状況逼迫し市町村合併による効率化避けられない状況であったこのため宇和島市との合併は最も現実的な選択であった2005年平成17年8月1日宇和島市三間町津島町対等合併新たに宇和島市一部となった。なお、愛媛県内の平成期合併としては最後であった2010年8月現在)。

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平成の市町村合併

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:14 UTC 版)

津島町」の記事における「平成の市町村合併」の解説

2005年平成17年8月1日宇和島市吉田町[三間町合併新設合併)し、新たに宇和島市一部となった津島町はもともと市町村合併には積極的ではなかった。その理由以下のとおり津島町一町で、南宇和郡全体合併して愛南町一町となる)に匹敵するほど広大であった 中心となるべき宇和島市財政難うわさされた。 合併協議に際しては、行政機構組み換え水産課の新設)や町内漁業協同組合債務処理の問題等が表面化した結果的に平成の合併としては愛媛県内では最後市町村合併となった宇和島市からの疑念津島町合併前の行政運営対し宇和島市長である石橋寛久疑念示し合併協議会法定)からの離脱表明したとなるべき市の離脱に、吉田町三間町大い困惑し協議結果平成16年6月において、「宇和島市吉田町三間町津島町合併協議会」は「休止」状態になったそのとき宇和島市示した文書によると「明らかに違和感覚え合併対すパートナーとして相応しくない感じ」とある。具体的には、以下の事柄問題とされた。 財政調整基金の処理(16年当初予算案では年度末残高100万円になるまで使い切るかのように見えた建設事業平成14年度、15年度の建設事業宇和島市のそれをうわまわる状況であり、駆け込み事業ではないか組織改正財政課収納課、水産課の増設課長補佐ポスト増設愛媛県市町村職員退職手当組合問題 住民への合併問題情報開示不足 住民投票実施求め町民動きがあり、町議会継続審査中)

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平成の市町村合併

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 14:31 UTC 版)

美川村 (愛媛県)」の記事における「平成の市町村合併」の解説

美川村にとって、上浮穴郡町村合併でほとんど異存はなかった。むしろ、新町愛媛県内で最大面積有し、かつ山村ばかりであるため、集落間あるいは旧役場中心地間の距離が遠く合併後効率的な行政運営大きな課題となることが予想された。

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平成の市町村合併

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:25 UTC 版)

砥部町」の記事における「平成の市町村合併」の解説

伊予市伊予郡全体での合併を旧・伊予市等は望んだが、幹線道路砥部町広田村国道33号国道379号伊予市他は国道56号異にしており、早い段階伊予市伊予郡全体での合併構想から離脱し、1町1での合併の道を選んだ旧広田圧倒的に人口少なく国道つながった旧・砥部町について行く以外にない立場であった広田村から西隣の旧・中山町に行くには、車の離合スムーズに出来かねる峠道行く人があるなど、相互交流という面でも難がある状況であった当初前町長が旧広田との合併提唱したのに対し町民からは松山市との合併を望む声が高く町民からのリコール、現町長との選挙により前町長は落選したが、その後町民への合併希望では旧広田との合併を望む声が一番高くなり、松山市との合併はならなかった。 合併形式新設合併ではあるが、実質的には旧・砥部町による旧・広田吸収合併であり、合併協議自体スムーズに運んだ近隣東温市(旧重信町川内町)と同様に、旧砥部町は、隣市町から移り住んできた人と元々住んでいる人が半々であり、合併議論のときにも、新住民松山市旧住民旧広田というように分かれ、町を二分した

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平成の市町村合併

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 10:02 UTC 版)

五十崎町」の記事における「平成の市町村合併」の解説

合併の意義 五十崎町隣り合った内子町は、「内山地域総称され藩政期から大洲藩統制によりハゼノキ・ミツマタ・コウゾの集散地としてあるいは製和紙製造といった産業興るなど、似通った道を歩んできた。このため市町村合併考える際に当然の如くパートナーとして考えられた。合併枠組みが決まるまでは、下記曲折があったが、人口交通の便では五十崎町より勝る内子町が、ツーリズム展開である意味ブランド化している町名存続させるかわりに本庁舎を譲るなどの配慮をみせたこともあって、枠組み決まってからは合併協議比較スムーズに進んだ。 なお、後から上浮穴郡小田町小田川流域という共通項のもとに合流してきたため、結果的には3町の合併となった五十崎内子両町昭和30年前後全国的な大合併の際にも話があったものの、諸般の事情成就しなかった経緯がある。 五十崎町をめぐる合併歩み 愛媛県示した合併パターンでは、大洲市喜多郡基本パターン参考パターンとして小田川流域等が示される基本パターン推進する派の論拠としては、より大きな合併による行財政の効率化農業協同組合等も同範囲広域合併していることを挙げる2002年平成14年1月26日 - 喜多郡町村会6月までに合併エリア等基本的な方向を出すことを確認。この場で、内子町長は「まず内子五十崎合併するのがいい」と発言2002年平成14年3月 - 大洲市喜多郡との合併働きかける方針を示す。 2002年平成14年3月 - 内子町アンケート結果、「内子中心」が58%(実施1月中旬2月上旬)。 2002年平成14年3月 - 八幡浜地方局合併検討協議会報告書まとまる。 2002年平成14年4月 - 大洲市合併推進設置2002年平成14年4月 - 五十崎アンケート結果、「大洲喜多」が42.5%。五十崎町内子町とを基本とした回答合わせると46.6%(後にこのことを根拠に、2町合併へと突き進む)(実施3月上旬中旬)。 2002年平成14年5月 - 五十崎町長、2町合併方針明らかにする2002年平成14年6月4日 - 五十崎町議員全員協議会町長が2町合併方針説明紛糾住民説明会時期回数未定)を開催した後、議員協議会合併枠組み決めこととした。 2002年平成14年) - 6月をめどに枠組み決めるとの町村会申し合わせがあったが、五十崎町割れているので、決まらず先送り情勢濃厚に2002年平成14年6月12日 - 喜多郡町村会内子五十崎両町長が2町合併方針表明2002年平成14年7月中旬 - 五十崎町が町内3地区で2町合併推進前提に対住民説明会開催。この会合で、本庁舎五十崎に、町名内子とすることで、内子町・同議会申し合わせ済みであることを説明2002年平成14年7月17日 - 五十崎町が2町合併を問うアンケート実施決める。住民投票替わるものとして位置づけ議会この段階ではまとまり切らず五十崎町内の有志で「県の合併パターン合併推進する会」ができ、チラシ配布する等、町内二分した論争に。 2002年平成14年7月26日 - 五十崎町アンケート結果出る。2町支持60.4%。 2002年平成14年7月30日 - 五十崎町議会全員協議会で、2町合併方針確認法定協議会設置へ。 2002年平成14年8月29日 - 内子五十崎両町議会法定協議会設置議決2002年平成14年9月1日 - 法定合併協議会発足2002年平成14年10月11日 - 大洲喜多合併協議会任意発足大洲市喜多郡では2つ枠組み別れて合併進めていくことになった。(この後に、上浮穴郡小田町内子五十崎町加わり3町合併となった

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