小泉家
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『列士録』によれば、初代の小泉弥右衛門は“本国近江(いまの滋賀県)、生国因幡(いまの鳥取県)”の侍だった。はじめ、讃岐丸亀藩四万五千石の藩主である山崎治頼に仕えて家老を務めていた。しかし明暦3年(1657年)山崎治頼が嗣子なくして没して除封となり、代わってかつての松江城の主京極忠高の甥にして養子の高和が入封するに及んで、弥右衛門は丸亀を去って江戸(いまの東京)に出た。翌年の万治元年(1658年)、弥右衛門は、江戸で出雲松平家の祖である松平直政に召抱えられ、初めは使番(つかいばん)、後に二十名の徒(足軽)を統率する者頭(ものがしら)を務めた。
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小泉家
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『列士録』によれば、初代の小泉弥右衛門は「本国近江(現在の滋賀県)、生国因幡(現在の鳥取県)」の侍だった。はじめ、讃岐丸亀藩四万五千石の藩主である山崎治頼に仕えて家老を務めていた。しかし明暦3年(1657年)、山崎治頼が嗣子なくして没して除封となり、代わってかつての松江城の主・京極忠高の甥にして養子の高和が入封するに及んで、弥右衛門は丸亀を去って江戸(現在の東京)に出た。翌年の万治元年(1658年)、弥右衛門は、江戸で出雲松平家の祖である松平直政に召抱えられ、初めは使番(つかいばん)、後に二十名の徒(足軽)を統率する者頭(ものがしら)を務めた。その後、小泉家は二代目弥右衛門が五十人の士分の侍を統率する番頭(ばんがしら)を務めて以来、代々セツの父・八代目弥右衛門に至るまで、一定期間者頭ないしそれに準じた役職を務めた後、番頭(ばんがしら)に進んでおり、また、嫡子には家督相続と同時に組外(くみはずれ)という格式が与えられている。この格式は、直接ほかの侍の采配下に入らないことを意味し、『雲藩職制』の編者が「一国中の貴族」と表現した上士に限って与えられた待遇だった。ただし家禄は、一雄や田部隆次が記した五百石は誤りと見做すべきで、『代々御給帳』・『列士録』・『旧藩事蹟』等古文書は一致して300石だったことを示している。小泉八雲・セツ夫妻の孫に小泉時(エッセイスト、2009年7月8日死去)、小泉閏、稲垣明男、種市八重子、佐々木京子、曾孫に小泉凡(学者、島根県立島根女子短期大学准教授)がいる。
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小泉家
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(神奈川県久良岐郡六浦荘村(現横浜市金沢区)、横須賀市) 妻・徳(神奈川県平民、岡崎文五郎二女) 息子 又次郎(神奈川県平民、とび職人、小学校助教員、新聞記者、政治家) 金三 岩吉(神奈川県多額納税者、土木建築請負業) - 小泉組を継いだ。兄・又次郎同様、背中にみごとな入れ墨を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な金を必ず用立てたという。
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小泉家
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(神奈川県久良岐郡六浦荘村(現横浜市金沢区)、横須賀市) 父・由兵衛(神奈川県平民、とび職人、請負師) 母・徳(神奈川県平民、岡崎文五郎二女) 弟・岩吉(神奈川県多額納税者、土木建築請負業) 1867年(慶応3年10月)に生まれた。1894年(明治27年)分家して一家を創立す。土木建築請負業を営み県下の多額納税者に列し直接国税二千七百十八圓を納む。小泉家の苦しい家計を支えたのは、又次郎が家業を譲った弟の岩吉だった。兄・又次郎同様、背中にみごとな入れ墨を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な金を必ず用立てたという。同養子・岩吉(春山知安二男、前名勇、神奈川県多額納税者、土木建築業) 1899年(明治32年)6月生 - 没 先代岩吉の養子となり1934年(昭和9年)家督を相続し前名勇を改め襲名す。土木建築業を営み神奈川県多額納税者にして直接国税千三百二十一圓を納む。 養子岩吉妻・たきゑ(神奈川県、斎藤由太郎四女) 弟・金三 1880年(明治13年)12月生 - 没同妻・しま(千葉県、庄司恒治姉) 妻・ナオ(神奈川県平民、綾部幸吉二女、元芸者) 1865年(慶応元年4月)生 - 没 妾・石川ハツ、寿々英(すずえ)など 正妻ナオとの間に子がなかったので、石川ハツが芳江(小泉純一郎元首相の母)を産んだ。石川ハツはその後、山口忠蔵という男と結婚し、3人の子を産んだ。千葉県市川市郊外の介護つき有料老人ホームにいる石川ハツの末娘(1920年(大正9年))生まれ、芳江の異父妹)によると、「ハツは富山県の滑川出身です。ハツの兄が家業の造り酒屋を嫌い、横須賀に出て仕出し屋を開き、鳶の又次郎さんのところに出入りするようになったのが、母が又次郎さんのところに奉公するきっかけでした。その伯父が、誰かいい小間使いはいないかね、と又次郎さんから尋ねられて紹介したんだそうです。 。 又次郎さんの背中に入れ墨があったのは、母から聞いて知っています。風呂で背中を流すのは母だけの仕事だったそうです。母はよく、又次郎さんはとても恰幅のいい人だったと言ってました。又次郎さんはとてもいい人だったというのも、母の口癖でした。若松町の又次郎さんの家には、十七歳で死んだ私の姉もよく行って、いつも又次郎さんに抱かれて帰ってきたそうです。父の背中にも入れ墨がありました。私は十歳まで父と一緒にお風呂に入っていたのでよく憶えています。児雷也の彫りものでした」という その後、石川ハツが結婚した山口忠蔵はおみこしなどを造る宮大工だった。山口忠蔵にも入れ墨があった。佐野眞一によると「山口忠蔵は、仕事の性質や入れ墨を彫っていたことなどから考えて又次郎の配下の者、もしくは弟分だったと思われる。だとすると、又次郎はハツに一人娘の芳江を産ませたのち、遠慮も何もいらない立場の山口忠蔵にハツを“お下げ渡し”したのではないか。又次郎と山口はいわば“入れ墨兄弟”の関係ではなかったか?」という 養子・コウ(鈴木徳三郎の四女) 、ちよ(鈴木亮一の姉)など 娘・芳江(生母は石川ハツ) 1931年(昭和6年)娘の芳江と純也が駆け落ちしたとき、又次郎は『帰って来い』と、新聞の尋ね人欄に広告までだしている。純也と芳江の結婚について、又次郎の養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている 婿・純也(芳江の夫) 孫・純一郎、正也など
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小泉家
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藩主が茶の湯を好んだことから、1659年(万治2年)に召し抱えられ、茶釜を製作する。祖は京都出身の小泉五郎七清行といわれている。本業は茶釜だったが、現在も残る1679年(延宝7年)の時鐘を始めとする多くの製品に名を残している。 また三代仁左衛門は南部鉄瓶の創始者と伝えられ、四代仁左衛門は、大砲鋳造の技術を江戸で学んだ。
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小泉家
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(神奈川県横浜市金沢区大道、横須賀市) 祖父小泉又次郎は慶応元年(1865年)、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人、由兵衛の二男として生まれた。又次郎が生まれた当時、鎌倉街道に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな村であった。父、小泉由兵衛は村の代々の鳶職だったが、のちに軍港横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師になった。 当時の横須賀では沖仲仕の手配師として目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、博徒たちの賑やかな出入りが繰り返されていたという。 1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争から日露戦争にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザの1つに他ならない。 又次郎は若い頃、軍人になることを諦め、鳶職人になることを決意した証に、全身に入れ墨を彫っていた。明治41年(1908年)衆議院議員に当選、浜口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で逓信大臣を務めた。 曾祖父・由兵衛(とび職人、請負師) 曾祖母・徳(岡崎文五郎二女) 祖父・又次郎(とび職人、請負師、小学校代用教員、新聞記者、政治家) 1865年(慶応元年)5月生 - 1951年(昭和26年)9月没 父はとび職人・請負師の小泉由兵衛。『小泉又次郎伝』によると、又次郎の少年時代は詳細な記録もなく不明な点も多いが、“気っ風(ぷ)と腕っ節、根性がものをいう商売”、“意地と我慢の商売”といわれる家業で、又次郎はその血を引き、そのような家風で育った。 普選運動の闘士として庶民人気が高かった。 純一郎が厚生大臣に就任したとき、フォーカスのインタビューで祖父のことをこう語っている。「いまじゃゴルフ場にも入れてくれないのにな。ところが祖父は、全身刺青で大臣や副議長までやった。首から背中、腕にかけて龍が彫ってあって、それや見事なものだったよ。」 「僕が9才のときになくなった。よく覚えていますよ。マージャン、花札、おいちょかぶ、みんな教えてもらったんだもの」 祖母・石川ハツ(又次郎の妾) 父・純也(政治家) 1904年(明治37年)1月生 - 1969年(昭和44年)8月没 純也は鹿児島県川辺郡東加世田村(のち加世田市、現南さつま市)の漁業鮫島家に生まれた。父親の彌三左衛門(やざえもん)は事業に失敗し、地元の鰹節(かつおぶし)工場に雇われていたが、純也が11歳の時に亡くなった。母親が三男六女を育てたが、家が貧(まず)しく純也のきょうだいのうち3人が亡くなっている。生家の鮫島家が事業に失敗したため上京し、苦学しながら政治の道を志した。芳江と知り合った頃は、又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった。又次郎のところに出入するうち二人は恋におち、東京・青山の同潤会アパートで同棲をはじめた。又次郎は「帰って来い」と、新聞の尋ね人欄に広告までだしている。純也と芳江の結婚について、又次郎の養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている。 純也は昭和12年(1937年)衆議院議員に当選、第3次池田勇人内閣、第1次佐藤榮作内閣で防衛庁長官を務めた。在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導した。 母・芳江(父は小泉又次郎、母は石川ハツ) 1907年(明治40年)生 - 2001年(平成13年)10月没 又次郎は、正妻ナオ(元芸者)との間に子がなかったので、石川ハツ(富山県の滑川出身が芳江(純一郎の母)を産んだ。又次郎によると「誰の腹でもいいから、自分の子供はもっておくものだね」という。石川ハツはその後、山口忠蔵という男と結婚し、3人の子を産んだ。石川ハツが結婚した山口忠蔵はおみこしなどを造る宮大工だった。山口忠蔵にも入れ墨があった。佐野眞一によると「山口忠蔵は、仕事の性質や入れ墨を彫っていたことなどから考えて又次郎の配下の者、もしくは弟分だったと思われる。だとすると、又次郎はハツに一人娘の芳江を産ませたのち、遠慮も何もいらない立場の山口忠蔵にハツを“お下げ渡し”したのではないか。又次郎と山口はいわば “入れ墨兄弟” の関係ではなかったか?」という。 姉・信子(政策秘書)、ほかに2人 弟・正也(私設秘書) 妻は石原慎太郎の妻・典子の従兄弟の娘 元妻・佳代子(エスエス製薬元会長泰道照山の孫娘、泰道三八の姪) 長男・孝太郎(俳優、タレント) 1978年(昭和53年)7月生 - 二男・進次郎 (政治家、環境大臣) 1981年(昭和56年)4月生 - 三男 母佳代子と同じ宮本姓を名乗っている。「妊娠六ヶ月で離婚された佳代子が一人で三男を産むと、小泉側は親権を主張し、家裁での調停に持ち込まれた。その結果ようやく佳代子が三男を引き取ることができた。三男が「父親と二人きりで会いたい」と涙ながらに小泉事務所に電話で訴えてきたことがあったが、その話を秘書官の飯島から伝え聞いた信子は「血はつながっているけど、親子関係はない」と冷たく言い放った」という。 中学卒業後にアメリカ・テネシー州の高校に留学。帰国後は京都の私立大学に通い、中国語を学んだ。しかし、この間も父や兄に会うことは一度もなかった。2010年末、東京・赤坂にあるレストランのカウンター席に父と3人の息子の4人が並んで食事を楽しんでいた。2013年末には絶縁状態だった三男の結婚式に父・純一郎とその息子たちも出席した。 大叔父・小泉岩吉(土木建築請負業) 小泉家の苦しい家計を支えたのは、又次郎が家業を譲った弟の岩吉だった。兄・又次郎同様、背中にみごとな入れ墨を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な金を必ず用立てたという。
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