小泉家とは? わかりやすく解説

小泉家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 18:10 UTC 版)

稲垣巌」の記事における「小泉家」の解説

『列士録』によれば初代小泉弥右衛門は“本国近江(いまの滋賀県)、生国因幡(いまの鳥取県)”の侍だった。はじめ、讃岐丸亀藩四万五千石藩主である山崎治頼仕えて家老務めていた。しかし明暦3年1657年山崎治頼嗣子なくして没して除封となり、代わってかつての松江城の主京極忠高の甥にして養子の高和が入封するに及んで弥右衛門丸亀去って江戸(いまの東京)に出た翌年万治元年1658年)、弥右衛門は、江戸で出雲松平家の祖である松平直政召抱えられ、初め使番つかいばん)、後に二十名の徒(足軽)を統率する者頭ものがしら)を務めた

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小泉家

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小泉八雲」の記事における「小泉家」の解説

『列士録』によれば初代小泉弥右衛門は「本国近江現在の滋賀県)、生国因幡現在の鳥取県)」の侍だった。はじめ、讃岐丸亀藩四万五千石藩主である山崎治頼仕えて家老務めていた。しかし明暦3年1657年)、山崎治頼嗣子なくして没して除封となり、代わってかつての松江城の主・京極忠高の甥にして養子の高和が入封するに及んで弥右衛門丸亀去って江戸現在の東京)に出た翌年万治元年1658年)、弥右衛門は、江戸で出雲松平家の祖である松平直政召抱えられ、初め使番つかいばん)、後に二十名の徒(足軽)を統率する者頭ものがしら)を務めたその後、小泉家は二代目弥右衛門五十人の士分の侍を統率する番頭ばんがしら)を務めて以来代々セツの父・八代目弥右衛門に至るまで、一定期間者頭ないしそれに準じた役職務めた後、番頭ばんがしら)に進んでおり、また、嫡子には家督相続同時に組外(くみはずれ)という格式与えられている。この格式は、直接ほかの侍の采配下に入らないことを意味し、『藩職制』の編者が「一国中の貴族」と表現した上士限って与えられ待遇だった。ただし家禄は、一雄や田部隆次記した五百石誤り見做すべきで、『代々御給帳』・『列士録』・『旧藩事蹟』等古文書一致して300石だったことを示している。小泉八雲セツ夫妻の孫に小泉時(エッセイスト2009年7月8日死去)、小泉閏、稲垣明男種市八重子佐々木京子曾孫小泉凡学者島根県立島根女子短期大学准教授)がいる。

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小泉家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 10:05 UTC 版)

小泉由兵衛」の記事における「小泉家」の解説

神奈川県久良岐郡六浦荘村(現横浜市金沢区)、横須賀市) 妻・徳(神奈川県平民岡崎文五郎二女息子 又次郎神奈川県平民とび職人、小学校助教員、新聞記者政治家金三 岩吉神奈川県多額納税者土木建築請負業) - 小泉組を継いだ。兄・又次郎同様、背中みごとな入れ墨入れた岩吉は、又次郎度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず必要な金を必ず用立てたという。

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小泉家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:37 UTC 版)

小泉又次郎」の記事における「小泉家」の解説

神奈川県久良岐郡六浦荘村(現横浜市金沢区)、横須賀市) 父・由兵衛神奈川県平民とび職人、請負師) 母・徳(神奈川県平民岡崎文五郎二女) 弟・岩吉神奈川県多額納税者土木建築請負業1867年慶応3年10月)に生まれた1894年明治27年分家して一家創立す。土木建築請負業営み県下多額納税者列し直接国税二千七百十八圓を納む。小泉家の苦し家計支えたのは、又次郎家業譲った弟の岩吉だった。兄・又次郎同様、背中みごとな入れ墨入れた岩吉は、又次郎度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず必要な金を必ず用立てたという。同養子岩吉春山知安二男、前名勇、神奈川県多額納税者土木建築業) 1899年明治32年6月生 - 没 先代岩吉養子となり1934年昭和9年家督相続し前名勇を改め襲名す。土木建築業を営み神奈川県多額納税者にして直接国税千三二十一圓納む養子岩吉妻・たきゑ(神奈川県斎藤太郎四女) 弟・金三 1880年明治13年12月生 - 没同妻・しま(千葉県庄司恒治姉) 妻・ナオ神奈川県平民綾部幸吉二女、元芸者1865年慶応元年4月生 - 没 妾・石川ハツ寿々英(すずえ)など 正妻ナオとの間に子がなかったので、石川ハツが芳江(小泉純一郎元首相の母)を産んだ石川ハツその後山口忠蔵という男と結婚し、3人の子産んだ千葉県市川市郊外介護つき有料老人ホームにいる石川ハツ末娘1920年大正9年))生まれ、芳江の異父妹)によると、「ハツ富山県滑川出身です。ハツの兄が家業造り酒屋を嫌い、横須賀出て仕出し屋開き又次郎さんのところに出入りするようになったのが、母が又次郎さんのところに奉公するきっかけでした。その伯父が、誰かいい小間使いはいないかね、と又次郎さんから尋ねられ紹介したんだそうです。 。 又次郎さんの背中入れ墨があったのは、母から聞いて知ってます。風呂背中を流すのは母だけの仕事だったそうです。母はよく、又次郎さんはとても恰幅いい人だったと言ってました。又次郎さんはとてもいい人だったというのも、母の口癖でした。若松町又次郎さんの家には、十七歳死んだ私の姉もよく行って、いつも又次郎さんに抱かれ帰ってきたそうです。父の背中にも入れ墨ありました。私は十歳まで父と一緒にお風呂入っていたのでよく憶えています。児雷也彫りものでした」という その後石川ハツ結婚した山口忠蔵おみこしなどを造る宮大工だった。山口忠蔵にも入れ墨があった。佐野眞一によると「山口忠蔵は、仕事性質入れ墨彫っていたことなどから考えて又次郎配下の者、もしくは弟分だったと思われる。だとすると、又次郎ハツ一人娘の芳江を産ませたのち、遠慮も何もいらない立場山口忠蔵ハツを“お下げ渡し”したのではないか又次郎山口はいわば“入れ墨兄弟”の関係ではなかったか?」という 養子コウ鈴木三郎四女) 、ちよ(鈴木亮一の姉)など 娘・芳江(生母石川ハツ1931年昭和6年)娘の芳江と純也駆け落ちしたとき、又次郎は『帰って来い』と、新聞尋ね人広告までだしている。純也と芳江の結婚について又次郎養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです又次郎さんはもっと立派なころから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている 婿・純也(芳江の夫) 孫・純一郎、正也など

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小泉家

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南部鉄器」の記事における「小泉家」の解説

藩主茶の湯好んだことから、1659年万治2年)に召し抱えられ茶釜製作する。祖は京都出身小泉五郎七清行といわれている。本業茶釜だったが、現在も残る1679年延宝7年)の時鐘始めとする多く製品名を残している。 また三代仁左衛門南部鉄瓶創始者伝えられ四代仁左衛門は、大砲鋳造技術江戸で学んだ

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小泉家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 06:19 UTC 版)

小泉純一郎」の記事における「小泉家」の解説

神奈川県横浜市金沢区大道横須賀市祖父小泉又次郎慶応元年1865年)、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人、由兵衛二男として生まれた又次郎生まれた当時鎌倉街道面したこの地は、戸数わずか三十二戸小さなであった。父、小泉由兵衛代々鳶職だったが、のちに軍港横須賀進出して海軍労働者送り込む軍港随一請負師になった当時横須賀では沖仲仕の手配師として目兼の大親分小泉組が縄張り競い合い博徒たちの賑やかな出入り繰り返されていたという。 1884年明治17年)に海軍鎮守府置かれ横須賀は、日清戦争から日露戦争にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦砲弾燃料石炭食糧などを積み込む仲仕組織発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織生まれていった。当時横須賀でこの仲仕仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と小泉であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて新興小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた親方小泉由兵衛跡目を継がせた息子又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相小泉純一郎祖父であった。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザ1つ他ならない又次郎若い頃軍人になることを諦め鳶職人になることを決意した証に、全身入れ墨彫っていた。明治41年1908年衆議院議員に当選浜口雄幸内閣第2次若槻禮次郎内閣逓信大臣務めた曾祖父由兵衛とび職人、請負師曾祖母・徳(岡崎文五郎二女祖父又次郎とび職人、請負師小学校代用教員新聞記者政治家1865年慶応元年5月生 - 1951年昭和26年9月没 父はとび職人・請負師の小泉由兵衛。『小泉又次郎伝』によると、又次郎少年時代詳細な記録もなく不明な点も多いが、“気っ風(ぷ)と腕っ節根性ものをいう商売”、“意地我慢商売といわれる家業で、又次郎はその血を引きそのような家風育った普選運動闘士として庶民人気高かった純一郎が厚生大臣就任したとき、フォーカスインタビュー祖父のことをこう語っている。「いまじゃゴルフ場にも入れてくれないのにな。ところが祖父は、全身刺青大臣副議長までやった。首から背中、腕にかけて龍が彫ってあって、それや見事なのだったよ。」 「僕が9才のときになくなった。よく覚えていますよ。マージャン花札おいちょかぶ、みんな教えてもらったんだもの」 祖母石川ハツ又次郎の妾) 父・純也政治家1904年明治37年1月生 - 1969年昭和44年8月純也鹿児島県川辺郡加世田(のち加世田市、現南さつま市)の漁業鮫島家生まれた父親の彌三左衛門(やざえもん)は事業失敗し地元鰹節かつおぶし工場雇われていたが、純也11歳時に亡くなった母親三男六女を育てたが、家が貧(まず)しく純也きょうだいのうち3人が亡くなっている。生家鮫島家事業失敗したため上京し苦学しながら政治の道を志した。芳江と知り合った頃は、又次郎幹事長をつとめる立憲民政党事務職員だった。又次郎ところに出入するうち二人は恋におち、東京青山同潤会アパート同棲はじめた又次郎は「帰って来い」と、新聞尋ね人広告までだしている。純也と芳江の結婚について又次郎養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです又次郎さんはもっと立派なころから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている。 純也昭和12年1937年衆議院議員に当選第3次池田勇人内閣第1次佐藤榮作内閣防衛庁長官務めた在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導した。 母・芳江(父は小泉又次郎、母は石川ハツ1907年明治40年)生 - 2001年平成13年10月又次郎は、正妻ナオ(元芸者)との間に子がなかったので、石川ハツ富山県滑川出身が芳江(純一郎の母)を産んだ又次郎によると「誰の腹でもいいから自分の子供はもっておくものだね」という。石川ハツその後山口忠蔵という男と結婚し、3人の子産んだ石川ハツ結婚した山口忠蔵おみこしなどを造る宮大工だった。山口忠蔵にも入れ墨があった。佐野眞一によると「山口忠蔵は、仕事性質入れ墨彫っていたことなどから考えて又次郎配下の者、もしくは弟分だったと思われる。だとすると、又次郎ハツ一人娘の芳江を産ませたのち、遠慮も何もいらない立場山口忠蔵ハツを“お下げ渡し”したのではないか又次郎山口はいわば “入れ墨兄弟” の関係ではなかったか?」という。 姉・信子政策秘書)、ほかに2人 弟・正也(私設秘書) 妻は石原慎太郎の妻・典子従兄弟の娘 元妻佳代子(エスエス製薬会長泰道照山孫娘泰道三八の姪) 長男・孝太郎俳優タレント1978年昭和53年7月生 - 二男進次郎政治家環境大臣1981年昭和56年4月生 - 三男 母佳代子と同じ宮本姓を名乗っている。「妊娠ヶ月離婚され佳代子が一人三男を産むと、小泉側は親権主張し家裁での調停持ち込まれた。その結果ようやく佳代子が三男引き取ることができた。三男が「父親二人きり会いたい」と涙ながらに小泉事務所電話訴えてきたことがあったが、その話を秘書官飯島から伝え聞いた信子は「血はつながっているけど、親子関係はない」と冷たく言い放った」という。 中学卒業後にアメリカ・テネシー州の高校留学帰国後は京都私立大学通い中国語学んだ。しかし、この間も父や兄に会うことは一度もなかった。2010年末、東京赤坂にあるレストランカウンター席に父と3人の息子の4人が並んで食事楽しんでいた。2013年末には絶縁状態だった三男結婚式に父・純一郎とその息子たち出席した大叔父小泉岩吉土木建築請負業) 小泉家の苦し家計支えたのは、又次郎家業譲った弟の岩吉だった。兄・又次郎同様、背中みごとな入れ墨入れた岩吉は、又次郎度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず必要な金を必ず用立てたという。

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