寺田寅彦 寺田寅彦の概要

寺田寅彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/01 13:18 UTC 版)

寺田 寅彦
生誕 1878年11月28日
日本東京市麹町区
高知県高知市育ち)
死没 (1935-12-31) 1935年12月31日(57歳没)
日本・東京市本郷区
墓地 王子谷墓地(高知市)
国籍 日本
研究分野 物理学
研究機関 東京帝国大学理科大学・理化学研究所東京帝国大学地震研究所
博士課程
指導教員
田中館愛橘長岡半太郎
主な指導学生 中谷宇吉郎坪井忠二
主な受賞歴 帝国学士院恩賜賞
プロジェクト:人物伝
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東大物理学科卒。熊本の五高時代、物理学者田丸卓郎と、夏目漱石と出会い、終生この2人を師と仰いだ。東大入学後、写生文など小品を発表。以後物理学の研究と並行して吉村冬彦の名で随筆を書いた。随筆集に『冬彦集』(1923年)など。

略歴

寺田寅彦

業績

研究上の業績としては、地球物理学関連のもの(潮汐の副振動の観測など)があるいっぽうで、1913年には「X線の結晶透過」(ラウエ斑点の実験)についての発表(結晶解析分野としては非常に初期の研究のひとつ、ヘンリー・ブラッグローレンス・ブラッグ親子とは独立にブラッグの条件を得ている)を行い、その業績により1917年に帝国学士院恩賜賞を受賞している。また寺田の示唆によって西川正治は先駆的なスピネル構造の研究をしたが、これはマックス・フォン・ラウエパウル・ペーター・エバルトらの歴史的な仕事からほんの1、2年の後のことであった[3]

また、“金平糖の角の研究”や“ひび割れの研究”など、統計力学的な「形の物理学」分野での先駆的な研究も行っていて、これら身辺の物理現象の研究は「寺田物理学」の名を得ている。

寅彦は自然科学者でありながら文学など自然科学以外の事柄にも造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残している。その中には大陸移動説を先取りするような作品もある。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉といわれ、発言録に残っている[4]

今日では、寅彦は自らの随筆を通じて学問領域の融合を試みているという観点からの再評価も高まっている。

漱石の元に集う弟子たちの中でも最古参に位置し、科学や西洋音楽など寅彦が得意とする分野では漱石が教えを請うこともあって、弟子ではなく対等の友人として扱われていたと思われるフシもあり、それは門弟との面会日だった木曜日以外にも夏目邸を訪問していたことなどから推察できる。そうしたこともあって、内田百閒らの随筆で敬意を持って扱われている。五高時代には、漱石を主宰に厨川千江、蒲生紫川らと俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)をおこした[5]

また『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれる。このことは漱石が寒月の扱いについて伺いをたてる手紙を書いていることや、帝大理学部の描写やそこで行われている実験が寅彦の案内で見学した体験に基づいていることからも裏付けられる。

関連人物

後に友人の大河内正敏に請われて入所した理化学研究所や他の研究所などでは、寅彦を慕って「門下生」となった人物が多く、その中には中谷宇吉郎(物理学者、随筆家)[6]坪井忠二(地球物理学者、随筆家)、平田森三(物理学者)などがいる。

なお作家・安岡章太郎は寅彦の長姉・駒の義弟の孫で[7][8]、劇作家・別役実は駒の曾孫にあたる[7][8]。また古代史研究者の伊野部重一郎は寅彦の次姉・幸の孫で[8]、評論家・青地晨は寅彦の娘婿にあたる[8]

父親である寺田利正は土佐の郷士宇賀喜久馬の実兄で[8]井口村刃傷事件で弟の切腹の際、介錯を務めたとされている[8]。 実の弟の首をわが手で刎ねたことがトラウマとなり、利正はしばらく精神を病み、土佐藩下士による討幕には参加せず、学問により社会を変えようと考えるようになり、そのことが寅彦が軍人より学者になることを選んだ伏線となっていると言われている。

家族

  • 五世祖:寺田左七
    • 高祖父:寺田常八(養子、実は寺田新右衛門倅)
    • 高祖母:寺田左七の娘
      • 曾祖父:寺田正重(喜内)
      • 曾祖母:竹内新右衛門の娘・逸
        • 大伯父:寺田源七郎(養子、実は植田万蔵の次男)
        • 大伯母:寺田源七郎妻(寺田正重長女)
        • 祖父:寺田正敬(養子、久右衛門)
        • 祖父の前妻:寺田正敬妻(寺田正重次女)
        • 祖母:寺田正敬後妻(近森氏・政子)
          • 父:寺田利正(養子、実は宇賀市郎平次男、宇賀喜久馬兄)
          • 母:寺田亀(寺田正敬の娘)
            • 長姉:駒
            • 次姉:幸
            • 本人:寺田寅彦
            • 一番目の妻:夏子(阪井重季(二川元助)男爵の長女) - 1901年に病気療養のため高知に帰り、翌年没[9]
            • 二番目の妻:寛子(浜口真澄(医師・漢詩人)の娘)
            • 三番目の妻:酒井しん子
              • 長女:貞子
              • 長男:東一(『父・寺田寅彦』を発表)
              • 次男:正二
              • 次女:弥生
              • 三女:雪子

顕彰

寺田の業績を記念し、高知県文教協会が「寺田寅彦記念賞」を設立している[10]。寺田に関する作品、および、自然科学を対象とした研究や随筆に対して授与されている[11]

著書

現在、作品は著作権が消滅し、パブリックドメインとなっている。

単著

  • 『海の物理学』日本のろーま字社〈理学 2之巻〉、1913年。 
  • 『地球物理学』文会堂書店、1915年。 
  • 吉村冬彦『冬彦集』岩波書店、1923年。 復刊1987年12月
  • 吉村冬彦『藪柑子集』岩波書店、1923年。 復刊1987年12月
  • 『萬華鏡』鉄塔書院、1929年。 
    • 『萬華鏡』岩波書店、1935年。 
  • 吉村冬彦『續 冬彦集』岩波書店、1932年。 復刊1987年12月
  • 『柿の種』小山書店、1933年。 
  • 『物質と言葉』鉄塔書院、1933年。 
    • 『物質と言葉』岩波書店、1935年。 
  • 吉村冬彦『蒸発皿』岩波書店、1933年。 復刊1987年12月
  • 吉村冬彦『触媒』岩波書店、1934年。 復刊1987年12月
  • 吉村冬彦『蛍光板』岩波書店、1935年。 復刊1987年12月
  • 『天災と国防』岩波新書 赤版、1938年。 度々復刊
  • 吉村冬彦『橡の実』小宮豊隆序、小山書店、1946年。 
  • 『物理学序説』岩波書店、1947年。 
  • 『科学と文学』角川書店、1948年。 
  • 寺田正二 編『とんびと油揚』村上正夫絵、中央公論社〈ともだち文庫 17〉、1949年。 
  • 『俳諧論』筑摩書房・旧筑摩選書、1949年。 
  • 『ピタゴラスと豆』角川書店、1949年。 
  • 『銀座アルプス』角川書店、1949年。 
  • 『読書と人生』角川書店、1949年。 
  • 『寺田寅彦科学随筆集』岩崎書店、1949年。 
  • 『科学歳時記』角川書店、1950年。 
  • 『風土と文学』角川書店・旧角川新書、1950年。 
  • 『寺田寅彦 私たちはどう生きるか 2』ポプラ社、1958年。 
  • 『寺田寅彦画集』中央公論美術出版、1977年。 

随筆集・新版

翻訳

選集・全集

  • Terada Torahiko「Scientific Papers」岩波書店、1985年、ISBN 4-00-200467-8。欧文科学論文集
  • 『寺田寅彦全集 文学篇』 全16巻、安倍能成ほか編、岩波書店、1938年。 
    • 『寺田寅彦全集 文学編』 全18巻、岩波書店、1950-1951年。 
  • 『寺田寅彦選集』 全4巻、世界評論社、1949-1950年。 
  • 『寺田寅彦集 科学編』藤原咲平編、蓼科書房〈ワールド文庫〉、1949年。 
  • 『寺田寅彦集 文学篇』藤原咲平編、蓼科書房〈ワールド文庫〉、1949年。 
  • 『寺田寅彦全集』 全17巻、岩波書店、1960-1962年。 再版1976-78年。全18巻・1987年
  • 『寺田寅彦全集 科学篇』 全6巻、岩波書店、1985年。 
  • 『寺田寅彦全集 文学篇』全18巻 岩波書店、1985-87年
  • 『寺田寅彦全随筆』全6巻、岩波書店、1991-92年
  • 新版『寺田寅彦全集』全30巻 岩波書店、1996-99年

脚注

注釈

出典

  1. ^ T. Terada (1913). “X-Rays and Crystals”. Nature 91 (2270): 213. doi:10.1038/091213b0. https://doi.org/10.1038/091213b0. 
  2. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)214頁
  3. ^ 久保亮五ある感想」(PDF)『廣報(広報)』第11巻6号(昭和55年3月号)、東京大学大学院理学系研究科・理学部、1980年3月、2-3頁、2023年3月3日閲覧 
  4. ^ 『天災と国防』(初出は1934年11月、『経済往来』)にあるのは、次の言葉である。
    文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。 — 寺田寅彦、『天災と国防』:新字新仮名 - 青空文庫 l. 15
    経緯は中谷宇吉郎の随筆「天災は忘れた頃来る」に詳しい。
  5. ^ 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、418頁
  6. ^ 新版で、中谷宇吉郎『寺田寅彦 わが師の追想』講談社学術文庫、2014年
  7. ^ a b 山田一郎『寺田寅彦覚書』岩波書店、33頁。
  8. ^ a b c d e f 『日本の有名一族』、108-112頁。
  9. ^ 俳句から小説へ――小説家漱石の弟子としての寅彦熊本県立大学図書館
  10. ^ 「寺田寅彦記念賞のあゆみ」『寺田寅彦記念賞 - 高知県文教協会』高知県文教協会。
  11. ^ 「寺田寅彦記念賞」『寺田寅彦記念賞 - 高知県文教協会』高知県文教協会。
  12. ^ 回想記に『漱石・寅彦・三重吉』岩波書店、初版1942年、復刊1983年
  13. ^ 評伝に、池内了『寺田寅彦と現代 等身大の科学をもとめて』みすず書房、2005年。
    責任編集『寺田寅彦 いまを照らす科学者のことば』河出書房新社「KAWADE道の手帖」、2011年

参考文献

関連項目

外部リンク




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