ル・マン24時間レース
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日本のプライベートチームの参戦
- シグマオートモーティブ
- ル・マンに初めて日本のチームとマシンとドライバーが登場したのは1973年のシグマ・オートモーティブである。当初はトヨタ製エンジンを搭載する予定だったが、トヨタからエンジンの供給を受けられず、やむなくマツダ製の12Aロータリーエンジンを購入して搭載した。このため、ル・マンに出場したMC73はリアウイングに「TOYOTA」のスポンサーが描かれていながら、マツダのエンジンを搭載した異色のマシンであった。シグマMC73は元々富士グランチャンピオンレース用のマシンで耐久性に問題があり、クラッチトラブルにより79周目にリタイアした。
- 1974年はマツダオート東京と正式にジョイントし、24時間を走り切ったが、周回数不足で完走と認められなかった。マツダオート東京はエンジンのチューニングとメンテナンスを担当し、この時のル・マンへの思いがのちのマツダのル・マン挑戦のきっかけとなったと言われている。なおこのときのドライバーの一人が、長年参戦を続けたことから後に「ミスター・ル・マン」の異名を取ることになる寺田陽次郎である。
- 1975年はトヨタからのエンジン供給が実現し、2T-Gターボエンジンを搭載したシグマ・MC75でエントリーしたが、結果はエンジントラブルでリタイアとなった。
- これを最後にル・マン挑戦をやめたが、シグマ・オートモーティブを母体に設立されたサードがその後を引き継ぎ、1990年にトヨタのワークスチームとしてル・マン再出場を果たした。1994年には旧グループCカーを貸与され出場、エディ・アーバイン/マウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ組が2位表彰台を獲得している。1995年、1996年には独自開発のGTマシン・サード・MC8RとスープラLM-GTで参戦した。
- 童夢(1979 - 1986年)
- 1978年のジュネーブモーターショーで、スーパーカー「童夢-零」を発表し、その玩具ライセンス収入をきっかけに1979年のル・マン24時間レースに初挑戦した。零RLはF1用に販売されていたフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したが、1台がエンジントラブルで、もう1台もガス欠でリタイアした。
- 1980年、零RLをクローズドボディ化したRL80を1台エントリーし、最下位の25位で完走した。1981年は、前年と同じRL80で出場したが、エンジントラブルでリタイアした。
- 1982年、イギリスのマーチとジョイントして、フォード・コスワース・DFLエンジンを搭載した童夢RC82を製作したが、サスペンショントラブルでリタイアした。1983年、マーチとの提携は1年で解消され、前年のマシンを改良したRC82改で出場したが、マシントラブルでリタイアした。1984年、RC-83で出場するものの、予選でコースアウトしてマシンを大破し、決勝出場を辞退した。現地チームに貸与したRC82は予選を通過するも決勝はリタイヤ。
- 1985年、童夢・トヨタ・トムスによる提携が実現し、童夢製の車体に当時市販されていたグループB車両のトヨタ・セリカGT-TSの2,090ccエンジンをレース用に修正した4T-GT改を搭載する85C-Lで出場。決勝はトランスミッショントラブルでリタイアした。トムスがエントリーしたマシンはトムス・85C-Lと呼ばれるがほぼ同一のマシンである。1986年、前年と同様の体制で86C-Lで出場したが、冷却系統のトラブルでリタイアした。この年限りで童夢の第1期ル・マン参戦は終わった。
- 2001年にFIA スポーツカー選手権(FIA SCC)参戦用の車としてオープンプロトタイプカーのS101を開発すると、同車を購入したプライベーターによりル・マンに再び参戦するようになった。中でもヤン・ラマース率いるRacing for Hollandが2001年から2007年までル・マンに参戦し、2001年・2003年には予選4番手を獲得するなど、打倒アウディ・R8の有力候補として期待されていたが、決勝ではトラブルに悩まされることが多く、最高位は2003年・2004年の総合6位と、期待されたほどの成績は残せなかった。
- 2005年以降はル・マンのレギュレーション変更によりマシンをS101-Hb、S101.5とマイナーチェンジしてきたが、2008年には久々の新車としてクローズドプロトタイプのS102を開発しワークス参戦(総合33位)。2012年には改良型のS102.5でアンリ・ペスカロロと提携して4年ぶりに復帰した。
- 2015年にはLMP2クラスにS103を投入し、ストラッカ童夢の42号車としてルマンを出走したが、ミッショントラブルによりリタイアした。
- マツダオート東京(1979年、1981 - 1983年)
- 1974年にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、1979年に自らのチームで参戦を果たした。マシンはIMSA-GTO仕様のサバンナRX7・252iであった。しかしマツダ本社のサポートを得られず、マシンのテスト不足とチーム体制の不備により結果は予選落ちとなった。
- 翌1980年チーム体制構築のための参戦を見合せ、1981年に再挑戦をする。この際にトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)と提携した。また1979年に参戦した際、食事面の配慮を欠いたため食当たりでドライバーの体調不良を招いた反省から、フランスで修行中だった料理人の脇雅世をチームの料理長に迎えた。脇は1991年まで料理長を務めることとなった。この年はRX7・253を2台をエントリーし2台とも予選通過をしたものの決勝はリタイアとなった。1982年はRX7・254を2台エントリーし、1台はエンジントラブルでリタイア、もう一台の寺田陽次郎/従野孝司/アラン・モファット組はガス欠症状に悩まされながらも14位完走。
- 1983年、前年に創設されたグループCのジュニアクラスに参戦し、マツダ・717を2台製作した。2台が完走を果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラスの参戦が少なく評価はされていない。この年TWRの都合で提携を解消した。その後、マツダオート東京のモータースポーツ部門は独立してマツダ本社傘下のマツダスピードとなり、以後の活動はワークス・チームによるものとなった。
- トムス(1980年、1985 - 1986年)
- 1980年、トヨタ・セリカRA40系ベースのIMSA-GTXマシンで初参戦し予選落ち。
- 1982年、童夢と共同で日本で初めてグループCカーを開発しWEC-JAPANに参戦。1983年以降WEC-JAPANおよび全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)にフル参戦するようになった。
- 1985年、童夢とともにトヨタエンジンを搭載した85C-Lで5年ぶりにル・マンに参戦し12位完走。これが事実上トヨタのル・マン初参戦である。翌1986年、86C-Lで参戦するが完走できなかった。1987年以降はトヨタ・チーム・トムス(TTT)として、トヨタワークスとしての活動になった。
その他の日本のチーム、ドライバー

- 1986年から1990年まで高橋国光がドイツ・クレマーレーシングのポルシェ・962Cで参戦。最高位は1988年の9位。当時の日本人最高位記録。
- 1987年には岡田秀樹がザウバーから参戦。リタイア。岡田は88年から90年までクレマーレーシングのポルシェで参戦、最高位は高橋国光と組んだ88年で9位。
- 1988年、米山二郎と福山英朗がADAエンジニアリング(ADA・03)から参戦し、総合18位でC2クラス2位に入賞している。片山右京もクラージュ・コンペティション(クーガー・C22)で、初参戦リタイア。
- 1989年では、粕谷俊二がクラージュ・コンペティション(クーガー・C20B)から参戦し、総合14位でC2クラス優勝を果たしている。またFromAレーシングがブルンとジョイントで参戦。レギュラードライバーの中谷明彦が初出場。この他、池谷勝則がチーム・デイビーのポルシェで参戦、15位完走。米山二郎がクラージュのクーガーC22で参戦、リタイア。
- 1990年、東名スポーツがメンテナンスし、その後1992年に全日本F3選手権のチャンピオンとなるアンソニー・レイドらがドライブするジ・アルファレーシングのポルシェ・962Cが3位表彰台を獲得する。トラストもポルシェ・962Cで初参戦、粕谷俊二もドライブ。13位で完走する。池谷勝則もデイビーから参戦、19位完走。
- 1991年にはシフトがメンテナンスするチーム・FEDCOのスパイスSE90C/DFR(長坂尚樹/見崎清志/横島久組)が12位で完走し、カテゴリー1クラス優勝を遂げる。トラストも2年連続参戦するが、残り1時間でリタイアとなった。また、AOレーシングが吉川とみ子他女性3名(リン・セント・ジェームズ、デジレ・ウィルソンら)での出場を目指しスパイスSE90C/DFRでエントリーするが、現地で吉川にはライセンスが発給されず、吉川の参戦は断念。代役の女性ドライバーで参戦するが、47周でリタイヤに終わる。この他、池谷勝則がチーム・デイビーのポルシェで、粕谷俊二がクラシック/TFRのスパイスでエントリーしていたが、いずれも予選落ちに。
- 1992年には、粕谷俊二、松田秀士がユーロレーシング(マシンはローラT92/10ジャッド)から参戦し、総合13位で完走。また、原田淳・吉川とみ子・嶋村健太らがチーム・ニッポン(登録名チェンバレン・エンジニアリング、マシンはスパイスSE90C/DFR)として参戦したが、こちらはチェッカーをうけたものの周回数不足(160Lap)で非完走(NC)となり結果表のリタイアしたチームの一番上に記載されている。
- 1993年には、コンラッドモータースポーツ(マシンはポルシェ911カレラ)から原田淳が、クラージュ・コンペティション(マシンはクラージュC30)から吉川とみ子が参戦したが、両方リタイアに終わっている。
- 1994年は、チーム・ニッポン(登録名ADAエンジニアリング、マシンはポルシェ962GTI)が原田淳・吉川とみ子・近藤真彦の3人で参戦したが、途中リタイア。
- 1995年には、1985年より参戦を続けてきた関谷正徳が、日本人ドライバーとして初の総合優勝 (マクラーレン F1 GTR /チーム・国際開発UK、ドライバーは関谷正徳、J.J.レート、ヤニック・ダルマス)を果たした。
- 1997年、チーム郷がマクラーレン F1 GTR LMで参戦。ドライバーは中谷明彦、土屋圭市、ゲイリー・アイルズ。決勝は88周リタイア。
- 1999年、チーム郷がBMW・V12 LMで参戦。ドライバーはヒロ松下、加藤寛規、中谷明彦。223周リタイア。
- 2000年にはテレビ朝日がチーム郷と共同で、"テレビ朝日・チーム龍(Dragon)"としてパノスLMP-1を2台エントリーさせている。当初はLM-GT2クラスにクライスラー・ヴァイパーを2台投入した"チーム虎(Tiger)"として、二つのクラスで出場を計画していたが、諸事情でLMP-1クラスのみのエントリーとなっている。予定していたドライバーには高橋国光、近藤真彦、関谷正徳らが予定され、ル・マン経験者を中心に布陣を固めた「ドリームチーム」として期待されていた。この時ドライバーとピットとの会話を中継するなど新しい試みが行われたが、レースに出場するエントラントでもあったため他チームのピットを取材しようとして拒否されるなどのトラブルもあった。またチームタイサンのポルシェ911GT3がLM-GTクラス優勝を達成している。
- 2001年、チーム郷がデンマークのデン・ブラ・エイビスとジョイントで参戦。マシンは童夢・S101。ドライバーはジョン・ニールセン、加藤寛規、キャスパー・エルガード。リタイア。
- 2002年から2004年にかけてKONDO Racingが横浜ゴムとジョイントし、童夢・S101でル・マンに参戦。近藤真彦や福田良・片山右京・加藤寛規らがステアリングを握ったが、2003年に総合13位に入ったのが唯一の完走。
- 2002年、チーム郷がアウディ・R8で参戦。ドライバーは加藤寛規、ヤニック・ダルマス、荒聖治。総合7位。
- 2003年、チーム郷がアウディ・R8で参戦。ドライバーは荒聖治、ヤン・マグヌッセン、マルコ・ヴェルナー。総合4位。
- 2004年にはチーム郷のアウディ・R8が日本のプライベーターとしては初めての総合優勝を果たした。同チームのドライバーの1人の荒聖治は、日本人として2人目の総合優勝。リナルド・カペッロ、トム・クリステンセンとドライブ。
- JLOC(日本ランボルギーニ・オーナーズ・クラブ)が、ランボルギーニワークスチームとして2006年のレースに、桧井保孝らのドライブで参戦したものの完走には至らなかった。2007年にも参戦したがフリー走行でクラッシュし、結局1周でレースを終えてしまっている。また2009年と2010年にも参戦したがリタイアに終わる。
- 2009年、チーム郷がポルシェ・RSスパイダーで参戦。ドライバーは荒聖治、国本京佑、サッシャ・マーセン。リタイア。
- その他に太田哲也が1993年~1996年まで、羽根幸浩が1995年に、鈴木隆司が1996年~1997年まで、それぞれプライベートチームからの出場を果たしている。
- 東海大学において林義正研究室(開発コース)でル・マン参戦のための車両が研究開発されていた。2002年頃からル・マン参戦車両開発に向けた先行実験車両が開発され、その動向が注目されていたが、2008年の大会に参戦する意向が正式に発表され、2月にエントリーが認められた。東海大学で設計し山形のYGKが製作した産学協同開発エンジンを、クラージュ・オレカ製シャシーを修正したものに搭載したマシンを使用したが、学生がメカニック作業に慣れていないなどの要因からトラブルが多発。メカニックについてR&D SPORTの支援を仰いだものの、結果は決勝185周リタイアに終わった。林が東海大を退官する関係から2012年に同プロジェクトは終了したが、林はYGKと共同で新たなル・マン参戦プロジェクトを立ち上げる方針である。
- 2016年にクリアウォーター・レーシングよりエントリー(フェラーリ・458GT2)した澤圭太が、LM-GTEアマクラスのポールポジションを獲得した。
- 2017年にMRレーシングよりエントリー(フェラーリ・488GTE)した石川資章が、2018年、2019年とLM-GTEアマクラスで参戦している。
- 2021年には青木拓磨がフランスのSRT41チームより特別枠で出場(マシンはオレカ07・ギブソン、ドライバーは青木拓磨、スヌーシー・ベン・マッサ、ナイジェル・バリー)[15][16]。334周、総合32位で完走している。
- 2021年に星野敏率いるD’station racingがLMGTE Amクラスに藤井誠暢が操るアストンマーティン・ヴァンテージで参戦し、クラス6位・総合33位で完走する。[17][18]2022年のFIA世界耐久選手権にも参戦中。[19]
注釈
- ^ 「ル・マン24時間(24 Heures du Mans)」に改称されたのは1937年からである。
- ^ ピットのガレージを拡張したため、2016年より最大59台。
- ^ ラリーやヒルクライム競技等から徐々に緩和された。完全に解禁する法案が2007年6月に下院を通過したが、上院で否決され2009年に撤回された。
- ^ 2013年以降。J SPORTSが放送開始した2012年はゴールまでの4時間だったため合計12時間、また2015年は直前に野球中継「オリックス対阪神」戦が放送された関係でゴールは5時間だった。
- ^ 主にスタートを担当したアナウンサーは日曜午後の放送とゴールの放送を担当し、中断から朝4 - 5時までのパート2 - 3は別のアナウンサーが担当する傾向にあった。
出典
- ^ “両手両足を失って、彼は「ル・マン」に挑み、見事に完走した”. WIRED (2016年6月20日). 2017年4月17日閲覧。
- ^ 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.40、グランプリ出版。
- ^ 1952年のル・マン24時間(英語版)
- ^ 二玄社刊・世界の自動車「メルセデス・ベンツ」戦後編
- ^ 『死のレース 1955年 ルマン』p.214。
- ^ 『世界の自動車-11 シムカ マートラ アルピーヌ その他』p.42。
- ^ 『ワールドカーガイド8ロータス』p.131。
- ^ "フェラーリが2015年ル・マンへ? WECプロトタイプ参戦計画". Topnews.(2013年8月2日)2013年11月14日閲覧。
- ^ マツダ公式サイト内の、同年C2クラスで優勝したBFグッドリッチマツダローラT616
- ^ トヨタ、ル・マン24時間レース3位入賞も「結果は厳粛に受け止めなければ」
- ^ 【ル・マン24時間2014】中嶋一貴選手がル・マン初の日本人ポールポジションを獲得!
- ^ トヨタ初勝利の夢、残り3分で破れる。ル・マン24時間はポルシェ2号車が大逆転勝利
- ^ 当の5号車はのちにチェッカーを受け、周回数では2位ではあるが最終周回にかかった時間が規定(首位でチェッカーフラッグを受けた車両より6分以内にチェッカーフラッグを受けた車両を完走扱いとするルールが存在する)を超えたため完走扱いになってなく失格またはリタイア扱いとなる’この時はリタイアの届出を行わなかったため規定違反で失格となった。
- ^ [2019.6.17中日新聞朝刊]
- ^ 元WGPライダーの青木拓磨が2020年のWECル・マン24時間レースに出場,autosport web,2018年10月10日
- ^ 「障害あっても夢はかなう」 車いすレーサーの青木拓磨がルマン24時間に初参戦 青木3兄弟の次男,上毛新聞,2021年8月21日
- ^ “【決勝結果】2021年WEC第4戦・第89回ル・マン24時間レース/7号車トヨタが総合優勝 | ル・マン/WEC | autosport web” (日本語). AUTO SPORT web (2021年8月22日). 2022年5月22日閲覧。
- ^ “D’station Racing、ル・マン24時間は目標の完走果たしクラス6位「本当に素晴らしい結果」と藤井誠暢” (日本語). jp.motorsport.com. 2022年5月22日閲覧。
- ^ “D'station Racing、2022年のWEC/アジアン・ル・マン参戦体制を発表。初年度以上の結果目指す | ル・マン/WEC | autosport web” (日本語). AUTO SPORT web (2022年1月12日). 2022年5月22日閲覧。
- ^ “最後の最後まで何が起こるのか分からない…24時間筋書きのないドラマ「ル・マン24時間レース」J SPORTSで初の完全中継が決定!”. J SPORTS (2017年6月2日). 2017年6月13日閲覧。
- ^ 川喜田研 (2016年6月20日). “トヨタの悲願達成ならず。中嶋一貴が語ったル・マン24時間のラスト3分”. web Sportiva. 2017年4月15日閲覧。
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