1967年のル・マン24時間レース
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1967年のル・マン24時間レース | |||
前年: | 1966 | 翌年: | 1968 |
1967年のル・マン24時間レース(24 Heures du Mans 1967 )は、35回目[1]のル・マン24時間レースであり、1967年6月10日から6月11日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。
概要
イギリスからの参加は非常に低調で、ロータス・ヨーロッパタイプ47の44号車と、オースチン・ヒーレー・スプライトの2台のみであった[3]。
このレースではアメリカ車にアメリカ人ドライバーの初の優勝だった。ダン・ガーニー/A.J.フォイト組[3][2][1]のフォード・GT マークIV[1]が前年を大幅に上回る5,232.900km[3][2][1][注釈 1]を平均速度218.038km/h[3][1]で走り優勝、前年に続いての連勝となった。
優勝者のダン・ガーニーは表彰台で優勝に興奮し渡されたシャンパンボトルを観客に振りまいたが、これが後に「シャンパン・ファイト」としてレース優勝者の間に広まった。(Chassy Mediaのドキュメンタリー映画「The 24 Hour War」より)。なおスクーデリア・フェラーリはこの年をもってル・マン24時間レースを撤退した。
注釈
- ^ 総合優勝車の走行距離が5,000kmを超えたのは初めて。
出典
参考文献
- 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』グランプリ出版 ISBN 4-87687-161-2
- ドミニク・パスカル著、日沖宗弘訳『ル・マンの英国車』ネコ・パブリッシング ISBN 4-87366-068-8
- 黒井尚志『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』集英社 ISBN 4-08-780158-6
- A.J.ベイル『フォードvsフェラーリ 伝説のル・マン』
1967年のル・マン24時間レース
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「フォード・GT マークIV」の記事における「1967年のル・マン24時間レース」の解説
67年のル・マン24時間レースには、シェルビー・アメリカンから2台のマークIVと1台のマークIIB、ホルマン・ムーディからも2台のマークIVと1台のマークIIB、フォード・フランスからマークIIBが1台の合計7台がエントリーした。対するライバルのフェラーリは330P4が4台、412Pが3台エントリーし、準備不足で3台しか揃わなかった前年とは比べ物にならない体制で挑んできた。 予選前の練習走行中、マークIVのフロントウインドにクラックが入るトラブルが続出、ガラス自体の強度不良が判明したためすぐさまアメリカから対策部品が輸送され、事なきを得た。予選では"J-6"に乗るブルース・マクラーレンとシャパラルのフィル・ヒルがポールポジション争いを繰り広げ、マクラーレンがポールポジションを獲得した。2位のシャパラルを除いて3~6位をフォード勢が占め、1位のマークIVはフェラーリ勢よりラップタイムで4秒ほど上回っていた。 フォード勢のエントリー ゼッケン1:マークIV(ダン・ガーニー/A・J・フォイト)"J-5" ゼッケン2:マークIV(ブルース・マクラーレン/マーク・ダナヒュー)"J-6" ゼッケン57:マークIIB(ロジャー・バックナム/ポール・ホーキンス)"1031" 以上シェルビー・アメリカンからのエントリー ゼッケン3:マークIV(マリオ・アンドレッティ/ルシアン・ビアンキ)"J-7" ゼッケン4:マークIV(ロイド・ルビー/デニス・ハルム)"J-8" ゼッケン5:マークIIB(フランク・ガードナー/ロジャー・マクラスキー)"1047" 以上ホルマン・ムーディ ゼッケン6:マークIIB(ギ・リジェ/ジョー・シュレッサー)"1015" 以上フォード・フランス 本戦では“ラビット”と命じられていたマークIIBの"1031"が午後4時のスタートから約1時間ほどハイペースで周回を重ねたが、その後トラブルで後退、以後"J-5"が首位をキープし周回を重ねた。 日付が変わり午前3時過ぎ、アンドレッティの"J-7"がマシントラブルでコースアウト(リアのブレーキパッドを直前に交換しており、組み付け不良が原因とされている)後に土手で跳ね返りコースを塞いだ。この事故を避けようとしたマークII"1047"もコースアウトしクラッシュ、さらにコースを塞いだ2台を避けようとしたマークII"1015"が避けきれずクラッシュし、一度に3台のフォード勢が消えるアクシデントとなった。午前10時過ぎ、マークII"1031"がエンジントラブルのためリタイア、さらにその直後、マークIV"J-6"が走行中にリアカウルが吹き飛んでしまうトラブルが発生、こちらは次の周回にドライバーがカウルを回収し、ピットで修理の上で4位のままレースに復帰した。 終盤に入り、じりじりと順位を上げてきたフェラーリ勢だったが、首位のマークIV"J-5"は大きなトラブルもなく終始安定した走りで、1位のまま24時間を走り切り優勝を飾った。2位のフェラーリ・330P4とは5周差をつけての圧倒的な勝利であった。またル・マン史上初の5000kmを超える距離を24時間で走行、さらに低燃費を競う熱効率指数部門でも1位を獲得するなど、大排気量にものを言わせた大出力エンジンによる勝利ではないことを示した。また、ユノディエールのストレートで記録した340.05km/hという最高速度は、フェラーリよりも空力性能が優れていることをアピールした。 マークIVはル・マン以後のチャンピオンシップに参戦することなくシーズンを終えたため、67年のチャンピオンシップはフェラーリとポルシェの間で争われ、最終戦のBOAC500マイルレースで2位に入賞したフェラーリチームが制した。 翌68年以降、チャンピオンシップは生産義務のないプロトタイプカーは3リッターまで、生産義務のあるグループ4(スポーツカー)は5リッターまでとレギュレーションを変更したため、マークIVはマークII、フェラーリ・330P4などと共に活躍の場を失い、ヨーロッパのサーキットから姿を消した。 一方、GTの量産型であるGT40は生産義務をクリアし、68年から69年にかけてグループ4のチャンピオンシップで活躍、特にGT40"1075"は68年と69年のル・マン24時間を2年連続で制覇した“栄光のGT40”として世に知られている。
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