1967年のル・マン24時間レースとは? わかりやすく解説

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1967年のル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/26 23:58 UTC 版)

1967年のル・マン24時間レース
前年: 1966 翌年: 1968
1967年のコース

1967年のル・マン24時間レース24 Heures du Mans 1967 )は、35回目[1]ル・マン24時間レースであり、1967年6月10日から6月11日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。

概要

出走したのは54台[2][1]。完走は16台[2][1]

イギリスからの参加は非常に低調で、ロータス・ヨーロッパタイプ47の44号車と、オースチン・ヒーレー・スプライトの2台のみであった[3]

このレースではアメリカ車にアメリカ人ドライバーの初の優勝だった。ダン・ガーニー/A.J.フォイト[3][2][1]フォード・GT マークIV[1]が前年を大幅に上回る5,232.900km[3][2][1][注釈 1]を平均速度218.038km/h[3][1]で走り優勝、前年に続いての連勝となった。

優勝者のダン・ガーニーは表彰台で優勝に興奮し渡されたシャンパンボトルを観客に振りまいたが、これが後に「シャンパン・ファイト」としてレース優勝者の間に広まった。(Chassy Mediaのドキュメンタリー映画「The 24 Hour War」より)。なおスクーデリア・フェラーリはこの年をもってル・マン24時間レースを撤退した。

注釈

  1. ^ 総合優勝車の走行距離が5,000kmを超えたのは初めて。

出典

  1. ^ a b c d e f g 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.223「資料1」。
  2. ^ a b c d 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.298-303。
  3. ^ a b c d 『ル・マンの英国車』p.128「1967」。

参考文献


1967年のル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 14:32 UTC 版)

フォード・GT マークIV」の記事における「1967年のル・マン24時間レース」の解説

67年ル・マン24時間レースには、シェルビー・アメリカンから2台のマークIVと1台のマークIIB、ホルマン・ムーディからも2台のマークIVと1台のマークIIB、フォード・フランスからマークIIBが1台の合計7台がエントリーした対すライバルフェラーリは330P4が4台、412Pが3台エントリーし準備不足で3台しか揃わなかった前年とは比べ物にならない体制挑んできた。 予選前の練習走行中、マークIVのフロントウインドにクラックが入るトラブル続出ガラス自体強度不良判明したためすぐさまアメリカから対策部品輸送され事なきを得た予選では"J-6"に乗るブルース・マクラーレンシャパラルフィル・ヒルポールポジション争い繰り広げマクラーレンポールポジション獲得した2位シャパラル除いて3~6位をフォード勢が占め、1位のマークIVフェラーリ勢よりラップタイムで4秒ほど上回っていた。 フォード勢のエントリー ゼッケン1:マークIVダン・ガーニーA・J・フォイト)"J-5" ゼッケン2:マークIVブルース・マクラーレンマーク・ダナヒュー)"J-6" ゼッケン57マークIIB(ロジャー・バックナム/ポール・ホーキンス)"1031" 以上シェルビー・アメリカンからのエントリー ゼッケン3:マークIVマリオ・アンドレッティルシアン・ビアンキ)"J-7" ゼッケン4:マークIV(ロイド・ルビー/デニス・ハルム)"J-8" ゼッケン5:マークIIB(フランク・ガードナー/ロジャー・マクラスキー)"1047" 以上ホルマン・ムーディ ゼッケン6:マークIIB(ギ・リジェジョー・シュレッサー)"1015" 以上フォード・フランス 本戦では“ラビット”と命じられていたマークIIBの"1031"が午後4時スタートから約1時間ほどハイペース周回重ねたが、その後トラブル後退以後"J-5"が首位キープし周回重ねた日付変わり午前3時過ぎ、アンドレッティの"J-7"がマシントラブルでコースアウトリアブレーキパッド直前交換しており、組み付け不良原因とされている)後に土手跳ね返りコース塞いだ。この事故避けようとしたマークII"1047"もコースアウトクラッシュ、さらにコース塞いだ2台を避けようとしたマークII"1015"が避けきれずクラッシュし、一度に3台のフォード勢が消えアクシデントとなった午前10時過ぎ、マークII"1031"がエンジントラブルのためリタイア、さらにその直後マークIV"J-6"が走行中にリアカウル吹き飛んでしまうトラブル発生、こちらは次の周回ドライバーカウル回収しピット修理の上で4位のままレース復帰した終盤入りじりじり順位上げてきたフェラーリ勢だったが、首位マークIV"J-5"は大きなトラブルもなく終始安定した走りで、1位のまま24時間走り切り優勝飾った2位フェラーリ・330P4とは5周差をつけての圧倒的な勝利であった。またル・マン史上初の5000kmを超える距離を24時間走行、さらに低燃費競う熱効率指数部門でも1位を獲得するなど、大排気量にものを言わせ大出エンジンによる勝利ではないことを示したまた、ユノディエールのストレート記録した340.05km/hという最高速度は、フェラーリよりも空力性能優れていることをアピールしたマークIVル・マン以後チャンピオンシップ参戦することなくシーズン終えたため、67年チャンピオンシップフェラーリポルシェの間で争われ最終戦のBOAC500マイルレースで2位入賞したフェラーリチームが制した。 翌68年以降チャンピオンシップ生産義務のないプロトタイプカーは3リッターまで、生産義務のあるグループ4スポーツカー)は5リッターまでとレギュレーション変更したため、マークIVマークIIフェラーリ・330P4などと共に活躍の場失いヨーロッパサーキットから姿を消した一方GT量産型であるGT40生産義務クリアし、68年から69年にかけてグループ4チャンピオンシップ活躍、特にGT40"1075"は68年69年ル・マン24時間2年連続制覇した栄光GT40”として世に知られている。

※この「1967年のル・マン24時間レース」の解説は、「フォード・GT マークIV」の解説の一部です。
「1967年のル・マン24時間レース」を含む「フォード・GT マークIV」の記事については、「フォード・GT マークIV」の概要を参照ください。

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