技術革新と質の向上とは? わかりやすく解説

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技術革新と質の向上

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 08:53 UTC 版)

日本の電車史」の記事における「技術革新と質の向上」の解説

大正・昭和期に入ると技術革新により、それまで工業技術水準低かったため外国製依存していた主要機器徐々に国産移行しようという動き見られるうになる大正初期までは電気機器輸入頼っていたが1914年第1次世界大戦影響入手困難になり、主電動機場合国鉄1916年大井工場で50PSの主電動機成功しその後国鉄指導国産化進められ大正末期には国産技術確立した。この過程では東洋電機製造イギリスイングリッシュ・エレクトリック社との提携によって京阪電気鉄道などの出資によって創設され日立を除く他の重電メーカー各社ゼネラル・エレクトリック東芝)、ウェスティングハウス三菱)、メトロポリタン・ビッカース(三菱)など、欧米電機メーカー各社との提携関係結んで当初はそれら提携先製品ライセンス生産あるいはスケッチ生産からはじめ、やがて独自設計製品生み出すようになっていった その一方で電車性能自体格段に向上していった。この頃アメリカインターアーバン衰退期差し掛かっていたが、技術的にはまだ日本よりはるかに優位にあったことから、各私鉄技術者などが訪米視察し日本においても見習って新技術取り入れようとしていた。 まず大正3年には、それまで低圧の600V直流電源用いていた(用いないといけなかった)電化方式に対して京浜線現在の京浜東北線)の電車運転開始際し輸送量増加に伴う電圧降下防止昇圧されることになり、当時技術などを考慮した結果1200V(ちょうど2倍の電圧なので電動機直列並列切り替えれば従来の600V区間との直通もできた)が使用されその後技術向上もあってさらに電圧あげられるようになり、1922年出され東海道本線全線1500V電化計画先立って試験行いその結果私鉄にも公開したところ、同年大阪鉄道私鉄初めて1500V直流電源採用河内長野-布忍間)し、東海道線電化以後開業私鉄基本的に1500Vを採用するようになり、国鉄京浜線中央線山手線1931年までに1500Vに昇圧した。 こうした電気を流す機構も、明治時代には地面逃がした電気水道管電食したり電信電話悪影響を及ぼすと1899年内務省より「市街地電気鉄道架空複線式」と命令出たような障害もあったが、その後技術進みそうした問題なくなったので大正期には構造が簡単で運転保安上も有利な架空単線式が主流になり、集電装置自体トロリーポールから高速転に適したパンタグラフ移行していき、国鉄では大正3年京浜線デハ6340形)、私鉄1924年南海鉄道パンタグラフ採用し始め広まった電気関係では他にも1924年東武鉄道デハ1形から「電動発電機」が採用され るようになり、1926年京成電気軌道100形は後の電車制御装置代名詞となる電動カム軸制御装置デッカー社の図面をもとに東洋電機制作)が採用されるうになるなど、技術の変化見られた。 また、連結器に関して電車は他の車両併結しないことが多く電車同士統一すればいいため、国鉄でも1925年自動連結器一斉交換先駆けて電車ねじ式連結器早いうちから交換始め大正11年(1922)には完了私鉄でも阪神急行電鉄同年神戸宝塚線連結運転を行うため自動連結器換装した。ただし、自動連結器してみると今度引かれて走る客車貨車異なり1つ列車中に複数動力車電動車)があるため、電動機特性多少相違車輪摩耗具合違いによって電動車同士進み方の速いものと遅いものが出ることや、頻繁にブレーキをかけるので連結器隙間があると衝撃発生させる不具合問題になったので、最終的にまた換装して密着連結器採用することになった密着連結器換装終了昭和13年度。)。同じ理由阪神急行電鉄以外の大手私鉄でも自動連結器採用されたが、ほとんどが小型密着自動連結器密着連結器移行している。(なお、私鉄密着連結器採用阪神電気鉄道でこれ以前1921年バンドン密着連結器採用例が最初。) 他に車両大型化高速化に伴い木製車体では負担大きく事故対す車体強度車両劣化早いという問題もあったため、私鉄では諸外国実用化されていた鋼製車体の製造はじまり、1923年川崎造船製造され神戸市電200形皮切りにセミスチール車(強度比較関係ない屋根内装木造)が広まり翌年には阪神急行阪神電気京浜電気などの路面電車ではない車両作られている。国鉄場合1923年関東大震災国鉄木製車多く類焼したが、台枠などの鋼製部品被害小さいことが確かめられそれまで木製車体の電車製造打ち切り鋼製車体に切り替えることとなり、国鉄車両設計陣(朝倉希一など)は複数メーカー技術開示による共同設計経て国鉄標準統一図面起こし1926年にその一陣であるモハ30形誕生し昭和2年度増備車からはドアエンジン取り付けられ今日では一般的な乗客乗り終わると運転士一斉にドア閉じれるようになったそれまで駅員乗降後扉を閉じていた)。 この頃からそれまで精々50km未満短距離区間でしか使用されていなかった電車は、次第に50-150km程度中距離輸送へも用いられるようになっていく事になっていき、元々60km近く運航していた南海鉄道では、1924年日本の電車としては初め食堂車厳密には「喫茶室」)を備え、かつ全編貫通構造とした電7系運行開始しており、これは他にも列車ではなく中間電動車が来る(中間電動車ではなく運転台はある)など電車列車概念先取りし設計になっていた。 他の私鉄でも1927年には小田原急行鉄道で82km、そして1929年1930年には関東東武鉄道関西参宮急行電鉄立て続けに、130kmを超す当時としては異例長距離電車運行され、さらに設備スピードの向上も推し進められ、1933年には直線主体良好な線形軌道に重軌条と重架線敷設し当時最大級の150kW級主電動機搭載する全鋼製車を揃えて開業した阪和電気鉄道で、表定速度81.6 km/h記録する超特急」および「黒潮号」(いずれも阪和天王寺-東和山間61.2kmを45分走破)の運行開始された。この記録太平洋戦争後に国鉄当時最新151電車使用する特急「こだま」で破るまで、実に26年間に渡って日本最高のタイトルホルダーであり続けた。 なお鉄道省線国鉄)では、東海道本線電化 については最初のうちは乗り気であり、試験機関車が来る前から丹那トンネル開通まで見越して実際開通1934年東京から国府津まで1500V直流電化し、これに有する電気機関車イングリッシュ・エレクトリック社に一括して注文し1922年からは小田原までの電車転に備えて2扉セミクロスシート二等車組込み便所付の43200系電車製造するなどしていたが、電車運転は関東大震災により中止となったその後東海道線電化動き低調になり、全線電化一時考えず大都市である大阪付近東京から甲府までの中央本線身延線私鉄時代電化済み)などや、長大トンネルがある上越線清水トンネル)・仙山線仙山トンネル)などの電化が行われ、丹那トンネル開通後東海道線電化進め始めたが、太平洋戦争開始により太平洋戦争後まで全線電化行われなかった。 こうした電化進展の遅れについて「陸軍などが変電所攻撃される運行不能になることを理由として、頑なに鉄道電化そのものに対して反対姿勢持っていた」という説もあるが、国鉄鉄道技術者である朝倉希一の「技術随筆 汽車今昔」によると「東海道線電化一部として東京-国府津の電化のため一括してイギリス注文した機関車品質悪く中略多く改造結果使用には耐えられるようにはなったが、電化論者主張は完全に裏切られ電化高価であるという事事実上示した。これが国鉄電化遅らせた大きな原因となった。」としている 他、別の回でも1次大戦以前日本限らず電化乗り気な国はほとんどなく「ベルリン駐在任され明治43年1910年)に各国に(蒸気機関車に使う)石炭輸入防止するため鉄道電化計画盛んなことを知った」が、各国とも数年ほどの調査結果鉄道電力荷重として好ましくない。」「電力代が安い特別な地域除いて電化して利益の出る路線はない。」という結論になり、欧州では電化進展は進まなかった とほぼどこも否定的な結論終わり電気機関車構造においても信頼置けない欧州電化進展しなかったという。 もっとも同じ電化に関して朝倉自身がこの次の記述で、電車電気機関車牽引客車列車比較として「客車電車では(注:乗り心地のため)下部軽くし、ばね下重量少なくすることが大切だから、急行列車では電車より電気機関車牽引客車の方が動揺少なく利益があると思っていた。ところが島秀雄氏が一時住友居られたとき、(中略イタリアで電車研究もかなり進み、相当高速度長距離運航していると聞かされ従来考え方一変した。」としているなど、この時期国鉄動力集中式に傾いていた。 しかしそれでも、東京・大阪の2大都市近郊区間における国電拡充が行われた。また、1930年には横須賀線クロスシート貫通幌採用(便所昭和10年より付随車設置)し、二等車組込んだ最大7両編成貴賓併結場合は9両編成)の中距離電車が、AE電磁自動空気ブレーキ装備した32系電車により運行開始し1937年には並行私鉄との競合さらされ関西地区京都駅-明石駅間の95kmのうち京都駅-神戸駅間で、高速運転を行う「急行電車」(急電)が走るようになったその後関東では東北線(大宮まで)、常磐線取手まで)、総武線千葉まで)、横浜線などが順次電車化されており、国鉄保有電車1929年には1000両を、1944年には2000両を超えている。

※この「技術革新と質の向上」の解説は、「日本の電車史」の解説の一部です。
「技術革新と質の向上」を含む「日本の電車史」の記事については、「日本の電車史」の概要を参照ください。

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