技術革新と質の向上
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大正・昭和期に入ると技術革新により、それまで工業技術水準が低かったため外国製に依存していた主要機器を徐々に国産に移行しようという動きも見られるようになる。 大正初期までは電気機器を輸入に頼っていたが1914年の第1次世界大戦の影響で入手困難になり、主電動機の場合は国鉄は1916年に大井工場で50PSの主電動機に成功し、その後国鉄の指導で国産化が進められ、大正末期には国産技術が確立した。この過程では東洋電機製造がイギリスのイングリッシュ・エレクトリック社との提携によって京阪電気鉄道などの出資によって創設され、日立を除く他の重電メーカー各社もゼネラル・エレクトリック(東芝)、ウェスティングハウス(三菱)、メトロポリタン・ビッカース(三菱)など、欧米の電機メーカー各社との提携関係を結んで当初はそれら提携先の製品のライセンス生産あるいはスケッチ生産からはじめ、やがて独自設計の製品を生み出すようになっていった その一方で、電車の性能自体も格段に向上していった。この頃、アメリカのインターアーバンは衰退期に差し掛かっていたが、技術的にはまだ日本よりはるかに優位にあったことから、各私鉄の技術者などが訪米視察し、日本においても見習って新技術を取り入れようとしていた。 まず大正3年には、それまで低圧の600V直流電源を用いていた(用いないといけなかった)電化方式に対して、京浜線(現在の京浜東北線)の電車運転開始に際し輸送量増加に伴う電圧降下防止に昇圧されることになり、当時の技術などを考慮した結果1200V(ちょうど2倍の電圧なので電動機の直列並列を切り替えれば従来の600V区間との直通もできた)が使用され、その後技術向上もあってさらに電圧をあげられるようになり、1922年に出された東海道本線の全線1500V電化の計画に先立って試験を行い、その結果を私鉄にも公開したところ、同年の大阪鉄道が私鉄で初めて1500V直流電源を採用(河内長野-布忍間)し、東海道線電化以後開業の私鉄は基本的に1500Vを採用するようになり、国鉄も京浜線・中央線・山手線を1931年までに1500Vに昇圧した。 こうした電気を流す機構も、明治時代には地面に逃がした電気が水道管を電食したり電信電話に悪影響を及ぼすと1899年に内務省より「市街地の電気鉄道は架空複線式」と命令が出たような障害もあったが、その後技術が進みそうした問題がなくなったので大正期には構造が簡単で運転保安上も有利な架空単線式が主流になり、集電装置自体もトロリーポールから高速運転に適したパンタグラフへ移行していき、国鉄では大正3年(京浜線・デハ6340形)、私鉄も1924年に南海鉄道がパンタグラフを採用し始め広まった。電気関係では他にも1924年の東武鉄道デハ1形から「電動発電機」が採用され るようになり、1926年の京成電気軌道100形は後の電車用制御装置の代名詞となる電動カム軸式制御装置(デッカー社の図面をもとに東洋電機で制作)が採用されるようになるなど、技術の変化が見られた。 また、連結器に関しても電車は他の車両と併結しないことが多く電車同士で統一すればいいため、国鉄でも1925年の自動連結器一斉交換に先駆けて電車はねじ式連結器を早いうちから交換を始め大正11年(1922)には完了、私鉄でも阪神急行電鉄が同年に神戸・宝塚線で連結運転を行うため自動連結器に換装した。ただし、自動連結器にしてみると今度は引かれて走る客車や貨車と異なり1つの列車中に複数の動力車(電動車)があるため、電動機の特性の多少の相違と車輪の摩耗具合の違いによって電動車同士で進み方の速いものと遅いものが出ることや、頻繁にブレーキをかけるので連結器に隙間があると衝撃を発生させる不具合が問題になったので、最終的にまた換装して密着式連結器を採用することになった(密着連結器換装終了は昭和13年度。)。同じ理由で阪神急行電鉄以外の大手私鉄でも自動連結器は採用されたが、ほとんどが小型密着自動連結器や密着連結器に移行している。(なお、私鉄の密着連結器採用は阪神電気鉄道でこれ以前の1921年にバンドン形密着連結器採用例が最初。) 他に車両大型化・高速化に伴い木製車体では負担が大きく、事故に対する車体強度や車両の劣化が早いという問題もあったため、私鉄では諸外国で実用化されていた鋼製車体の製造がはじまり、1923年の川崎造船で製造された神戸市電200形を皮切りにセミスチール車(強度と比較的関係ない屋根や内装は木造)が広まり、翌年には阪神急行・阪神電気・京浜電気などの路面電車ではない車両も作られている。国鉄の場合は1923年の関東大震災で国鉄の木製車の多くが類焼したが、台枠などの鋼製部品の被害が小さいことが確かめられ、それまでの木製車体の電車の製造を打ち切り鋼製車体に切り替えることとなり、国鉄の車両設計陣(朝倉希一など)は複数メーカーの技術開示による共同設計を経て国鉄標準の統一図面を起こし、1926年にその一陣であるモハ30形が誕生し、昭和2年度の増備車からはドアエンジンも取り付けられ、今日では一般的な乗客が乗り終わると運転士が一斉にドアを閉じれるようになった(それまでは駅員が乗降後扉を閉じていた)。 この頃からそれまで精々50km未満の短距離区間でしか使用されていなかった電車は、次第に50-150km程度の中距離輸送へも用いられるようになっていく事になっていき、元々60km近くを運航していた南海鉄道では、1924年に日本の電車としては初めて食堂車(厳密には「喫茶室」)を備え、かつ全編成貫通構造とした電7系の運行を開始しており、これは他にも列車端ではなく中間に電動車が来る(中間電動車ではなく運転台はある)など電車列車の概念を先取りした設計になっていた。 他の私鉄でも1927年には小田原急行鉄道で82km、そして1929年・1930年には関東の東武鉄道と関西の参宮急行電鉄で立て続けに、130kmを超す当時としては異例の長距離電車が運行され、さらに設備やスピードの向上も推し進められ、1933年には直線主体の良好な線形の軌道に重軌条と重架線を敷設し、当時最大級の150kW級主電動機を搭載する全鋼製車を揃えて開業した阪和電気鉄道で、表定速度81.6 km/hを記録する「超特急」および「黒潮号」(いずれも阪和天王寺-東和歌山間61.2kmを45分で走破)の運行が開始された。この記録は太平洋戦争後に国鉄が当時最新の151系電車を使用する特急「こだま」で破るまで、実に26年間に渡って日本最高のタイトルホルダーであり続けた。 なお鉄道省線(国鉄)では、東海道本線の電化 については最初のうちは乗り気であり、試験機関車が来る前から丹那トンネルの開通まで見越して(実際の開通は1934年)東京から国府津まで1500V直流で電化し、これに有する電気機関車もイングリッシュ・エレクトリック社に一括して注文し、1922年からは小田原までの電車運転に備えて2扉セミクロスシート、二等車組込み、便所付の43200系電車を製造するなどしていたが、電車運転は関東大震災により中止となった。その後は東海道線電化の動きは低調になり、全線電化は一時考えずに大都市である大阪付近や東京から甲府までの中央本線(身延線は私鉄時代に電化済み)などや、長大なトンネルがある上越線(清水トンネル)・仙山線(仙山トンネル)などの電化が行われ、丹那トンネル開通後に東海道線の電化を進め始めたが、太平洋戦争開始により太平洋戦争後まで全線電化は行われなかった。 こうした電化の進展の遅れについて「陸軍などが変電所が攻撃されると運行不能になることを理由として、頑なに鉄道電化そのものに対して反対の姿勢を持っていた」という説もあるが、国鉄の鉄道技術者である朝倉希一の「技術随筆 汽車の今昔」によると「東海道線電化の一部として東京-国府津の電化のため一括してイギリスに注文した機関車の品質が悪く(中略)多くの改造の結果使用には耐えられるようにはなったが、電化論者の主張は完全に裏切られ、電化は高価であるという事を事実上に示した。これが国鉄の電化を遅らせた大きな原因となった。」としている 他、別の回でも1次大戦以前は日本に限らず電化に乗り気な国はほとんどなく「ベルリン駐在を任された明治43年(1910年)に各国に(蒸気機関車に使う)石炭輸入を防止するため鉄道電化の計画が盛んなことを知った」が、各国とも数年ほどの調査の結果「鉄道は電力荷重として好ましくない。」「電力代が安い特別な地域を除いて電化して利益の出る路線はない。」という結論になり、欧州では電化の進展は進まなかった とほぼどこも否定的な結論に終わり、電気機関車の構造においても信頼が置けないと欧州で電化は進展しなかったという。 もっとも同じ電化に関しても朝倉自身がこの次の記述で、電車と電気機関車牽引の客車列車の比較として「客車と電車では(注:乗り心地のため)下部を軽くし、ばね下重量を少なくすることが大切だから、急行列車では電車より電気機関車牽引の客車の方が動揺が少なく利益があると思っていた。ところが島秀雄氏が一時住友に居られたとき、(中略)イタリアでは電車の研究もかなり進み、相当高速度の長距離運航していると聞かされ、従来の考え方が一変した。」としているなど、この時期の国鉄は動力集中式に傾いていた。 しかしそれでも、東京・大阪の2大都市近郊区間における国電は拡充が行われた。また、1930年には横須賀線でクロスシートや貫通幌を採用(便所も昭和10年より付随車に設置)し、二等車を組込んだ最大7両編成(貴賓車併結の場合は9両編成)の中距離電車が、AE電磁自動空気ブレーキを装備した32系電車により運行を開始し、1937年には並行私鉄との競合にさらされた関西地区の京都駅-明石駅間の95kmのうち京都駅-神戸駅間で、高速運転を行う「急行電車」(急電)が走るようになった。その後関東では東北線(大宮まで)、常磐線(取手まで)、総武線(千葉まで)、横浜線などが順次電車化されており、国鉄保有の電車は1929年には1000両を、1944年には2000両を超えている。
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