その他の仏像
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木造阿弥陀如来立像 1体 一木造、彫眼。上品下生の来迎印を結ぶ。江戸時代の素人作か。
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その他の仏像
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閻魔大王像 - 木造 像高104cm 近くにあった閻魔堂が火災にあったため担ぎこまれたと伝えられている。 閻魔大王像 - 石造 安山岩(伊豆石) 像高24cm 安土桃山時代頃 木造の閻魔像の胎内仏 藤沢市指定文化財
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その他の仏像
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十一面観音立像 - 像高 115センチメートル、総高118センチメートル、一木造、彫眼、平安風。秘仏。
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その他の仏像
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※中金堂の再建を期に、一部の仏像の安置場所が変更されている。以下に示した安置場所は興福寺公式サイトによる(参照:国宝・重要文化財(興福寺サイト))。 木造千手観音立像(附 像内納入品)(国宝館所在・旧食堂本尊) (国宝) 鎌倉時代、寛喜元年(1229年)頃。像高520.5cm 旧食堂(じきどう)本尊で、像高5メートルを超える大作である。明治初期に食堂が取り壊されてからは、中金堂に仮安置されていた。1959年、食堂跡地に食堂の外観を模して国宝館が建てられると、本像はその中央に安置されるようになった。像はヒノキ材の寄木造で、玉眼を嵌入する。持物の大半と、台座の下框(したがまち)を後補とする。 『玉葉』によれば、治承の兵火の翌年の養和元年(1181年)、本像の再興担当の仏師に任命されたのは成朝であった。しかし、何らかの事情で造像は中断し、最終的に完成したのは半世紀近く後のことである。部材には、像内側から見ると、風雨による汚損が認められ、部材が雨ざらしになっていた時期のあったことがわかる。像内には後述のように、多数の納入品があったが、納入品の経巻の年記が、早いものは建保5年(1217年)、もっとも下るものは寛喜元年(1229年)にわたっており、長い年月をかけ、寛喜元年頃にようやく完成したとみられる。成朝の後を引き継いで像を完成した仏師が誰であるかは判然としない。像は通例の四十二臂の千手観音像で、両脚部に表された、断面の丸い、太目の衣文は奈良時代風である。 明治40年(1907年)の修理時、像内から多数の納入品が発見された。納入品の主なものは五輪塔形板、銅鏡、金銅仏、経巻、摺仏(しゅうぶつ)などである。頭部内面に打ち付けられた五輪塔は現在も像内にあるが、他の納入品は取り出されて別途保管されている。銅鏡は木製蓮台に立てた白銅秋草双鶴鏡で、鏡面に千手観音の小咒(しょうしゅ)と梵字を針書きする。金銅仏は3躯あり、全高27.5センチの聖観音立像と全高12.7センチおよび4.9センチの千手観音立像2躯である。聖観音は奈良時代、千手観音は大きい方が平安時代後期、小さい方が鎌倉時代の作品とみられる。納入経巻のうち、大般若経巻第五百七十八と千手千眼陀羅尼を書した1冊の奥書には安貞2年(1228年)権少僧都憲円の記があり、この憲円が勧進して千手観音像の完成に至ったことがわかる。 本像の正式の国宝指定名称は以下のとおり。木造千手観音立像(旧食堂安置)一躯 像内に睿湛大法師、尼定阿弥陀仏、僧定増法師、祇徳丸等の名がある 附 像内納入品木製五輪塔 1基 梵字千手観音小咒鏡 蓮台付(秋草双雀鏡)1基 銅造観音菩薩立像 1躯 銅造千手観音立像 1躯 銅造千手観音立像 1躯 紙本墨書大般若経 巻第五百七十八・千手千眼陀羅尼経 合1冊 各安貞二年孟夏憲円書写奥書 紙本墨書般若心経 3巻 建保五年より安貞二年まで堯春等毎月書写奥書 紙本千手観音摺仏 2,428枚 内4枚に安貞二年の記がある 着色毘沙門天像及び同印仏 1幅 貞応二年正月三日の記がある 紙本毘沙門天印仏 820枚 承久二年より安貞二年までの押印の記がある 版本千手千眼陀羅尼 46巻 内に寛喜元年四月弘真、道俊等の記がある 紙本墨書奉加結縁交名 1巻 板彫十二神将像(国宝館所在・旧東金堂)(国宝) 平安時代。像高100.3〜 88.9cm 各像は厚さ3センチほどのヒノキの一枚板に浮彫されたもので、12面が完存する(因達羅像のみ2枚板)。各像は10世紀末の絵仏師玄朝(源朝)の図像に依拠していることが指摘されている。18世紀には東金堂にあったことがわかっているが、それ以前の伝来は明らかでない。各像は朱、緑青、群青などで彩色されていたが、一部に白土の下地を残すのみでほとんど剥落している。そのなかで、頞儞羅像の胸甲の籠目繋ぎ文は比較的よく残っている。当初の安置状況も不明だが、仁和寺北院の白檀造薬師如来坐像の例のように、箱型の台座の四面に3躯ずつ嵌められていたと推定される。『七大寺巡礼私記』の元興寺条には、元興寺の仏後厨子に三尺ばかりの「半出十二神将」があったことが記されており、元興寺が衰退した後にこの「半出十二神将」が興福寺に移されたとする見方もある。 木造阿弥陀如来坐像(菩提院大御堂安置)(重要文化財) 体部鎌倉時代、頭部室町時代。像高282.0cm 像内納入経の願文によれば、天文3年(1534年)の時点で菩提院大御堂に安置されていたことがわかる。体部は鎌倉時代、頭部は時代が下り、室町時代の作とされている。 木造阿弥陀如来坐像(仮講堂所在)(重要文化財) 鎌倉時代。像高225.7cm ヒノキ材、寄木造、漆箔の像。もとは観禅院大御堂に安置されていた。 木造釈迦如来坐像(国宝館所在)(重要文化財) 平安時代。像高227.0cm カツラ材(ヒノキ材とも)、寄木造、漆箔の像。平安時代末期の定朝様の阿弥陀如来像である。もと東金堂に安置されていたが、伝来は不明である。 木造薬師如来坐像・像内納入経(仮講堂所在)(重要文化財) 平安時代、長和2年(1013年)。像高107.2cm サクラ材の一木造で内刳りをほどこす。かつては釈迦如来像と呼ばれていたが、1931年の修理の際、像内から納入品の薬師経が発見され、その奥書から、本来は薬師如来像として造られたことと、造像の事情が判明した。像内に木製蓮台上に立てた経筒が納入されており、薬師経2巻(うち1巻は色紙経)が納められていた。経の奥書によると、本像は輔静が願主となり、長和2年(1013年)に造像されたものである。輔静は薬師寺と西大寺の別当を務めた僧である。造像年次の明らかな11世紀の基準作として貴重である。 像内納入経の明細は以下のとおり。 紙本墨書薬師経(色紙経) 1巻 長和二年八月十二日沙門輔静書写奥書、宝治元年五月四日修復奥書 紙本墨書薬師経 1巻 宝治元年七月廿五日奥書 附:竹製経筒(木製蓮台付)1口 木造梵天立像(仮講堂所在)(重要文化財) 鎌倉時代、建仁2年(1202年)、定慶作。重要文化財指定名称は「木造帝釈天立像」。像高181.3cm ヒノキ材の寄木造で玉眼を嵌入する。像表面は布貼り錆下地に彩色仕上げとする。像内の墨書により、建仁2年(1202年)大仏師定慶、少仏師盛賀、定賀らの作と判明する。衣文の扱いなどに装飾性の強い、鎌倉期に流行した「宋風」の像の一例である。本像ともと対をなしていた帝釈天像は根津美術館の所蔵となっている。帝釈天像の像内にも大仏師定慶等の墨書があるが、年紀は梵天像より1年早い建仁元年(1201年)となっている。この帝釈天像は補修が多く、頭部は後補である。この梵天・帝釈天の一対は西金堂旧安置とも伝えるが、西金堂では同じ建仁2年(1202年)に薬王・薬上菩薩像が造立されていること、東金堂の維摩居士像が本像と同じ定慶作であることなどから、この一対は東金堂にあったものと推定されている。 木造梵天・帝釈天立像(国宝館所在)(重要文化財) 像高 171.5cm 166.5cm 鎌倉時代の像だが、肉付けが平板で、慶派とは異なる仏師の作と思われる。東金堂旧安置と伝えるが、東金堂に安置されていたのは上述の定慶作の梵天・帝釈天像であった可能性が高く、本像の本来の安置堂宇は不明である。 木造地蔵菩薩立像(仮講堂所在)(重要文化財) 平安時代。像高139.7cm 一木造で内刳りをほどこし、台座蓮肉部も本体と共木とする。肉身部に金泥、衣には截金をほどこすが、これらは当初のものではない。平安時代、10世紀頃の作とみられる。なお、蓮華座は室町時代のもので、光背も後補である。 厨子入木造弥勒菩薩半跏像(国宝館所在)(重要文化財) 附 弥勒仏・弥勒菩薩・千仏摺仏190枚(像内納入品) 鎌倉時代。像高57.7cm、厨子高さ165.8cm 大乗院持仏堂に伝来した像。厨子を含めて重要文化財に指定されている。ヒノキ材の寄木造で、眼には玉眼を嵌入し、宝冠、胸飾などは金銅製とする。肉身部は漆箔、着衣は金泥塗に朱、群青、緑青などの彩色と截金で雷文、亀甲、七宝つなぎなどの文様を表す。獅子が支える蓮華座上に左脚を踏み下げて坐す。光背は後屏形の上に円光を乗せた独特の形式になる。像内には弥勒の摺仏(しゅうぶつ)90枚が納入されていた。なお、重要文化財指定名称は「半跏像」となっているが、右足を左腿に乗せていないため、厳密には半跏像ではなく踏み下げ坐像である。厨子は黒漆塗、方形で、天井には天蓋と飛天6躯を取り付ける(飛天は後補)。厨子の四面の扉(計8枚)には極彩色の絵画があり、文殊菩薩・維摩居士像、無著・世親像のほか、四天王、不動明王、大輪明王、祖師像などを描く。像は鎌倉時代前期、厨子は鎌倉時代後期の作とみられる。 厨子入木造吉祥天倚像(中金堂所在)(重要文化財) 南北朝時代、暦応3年(1340年)、寛慶作。像高64.3cm、厨子高さ102.0cm 厨子を含めて重要文化財に指定されている。本像は台座裏の墨書から造像の年代と経緯が明らかである。それによると、作者は木所大仏師寛慶と絵所大仏師法眼命尊であり、唐招提寺十代長老慶円を導師として、暦応3年(1340年)5月晦日に供養され、同年6月1日に唐招提寺から興福寺金堂へ移された。ヒノキの一木造で内刳りはない。彩色と截金で仕上げ、天冠、胸飾、腕釧(わんせん)は金銅造のものを取り付け、光背も金銅製である。像を納める春日厨子は像と同時期の作で、正面扉の左右に梵天・帝釈天像、奥壁に七宝山を描く。この厨子と像とは全体で吉祥天曼荼羅を形成している。 銀造仏手(国宝館所在)(重要文化財) 奈良時代。現存長42.2cm 1937年10月30日、銅造仏頭とともに、東金堂本尊台座内部から発見されたもので、銀造の仏像の右腕である。火災で像が焼け落ちた後に右腕のみが運び出されたものと思われ、肘上約20センチほどの部分から右手指の第一関節あたりまでが残存する。興福寺の記録に残る銀仏としては、『興福寺流記』「延暦記」にある東金堂の純銀弥勒仏像(のち西金堂へ移る)、『七大寺巡礼私記』に言及される西金堂の銀釈迦立像(高さ六尺三寸、旧海龍王寺像)がある。この仏手が以上の記録に残る像に属していた可能性もあるが、正確なことは不明である。古い時代の銀仏の現存するものは少なく、わずかに残る作品も東大寺法華堂不空羂索観音立像の頭上の化仏(けぶつ)などの小品であり、本作は右腕のみの残欠とはいえ、銀仏の実例として貴重である。 木造大黒天立像(中金堂所在)(重要文化財) 鎌倉時代、像高93.8cm ヒノキ材の一木造。像表面は荒彫り風の仕上げで、一部にノミ痕を残す。彩色は剥落している。後世の福神型の大黒天像とは異なり、本来の武神の面影を残す。 木造広目天立像(奈良国立博物館寄託)(重要文化財) 鎌倉時代。像高157.4cm 四天王像のうちの1躯。カツラ材の一木割矧造で、玉眼は使用しないが、瞳に黒色の珠を嵌入する。右手首から先を欠き、左手の持物も欠失している。本像と本来一具をなしていた四天王像の他の3躯は寺外に流出したが、いずれも現存し、重要文化財に指定されている。持国天像は、実業家で茶人・美術コレクターとしても知られる益田孝の所蔵となり、他の所蔵先を経て、滋賀・MIHO MUSEUM蔵となっている。増長天像と多聞天像は、別々の所蔵先を経て、奈良国立博物館蔵となっている。この一具の四天王像は、本来興福寺のどの堂に所属していたものか不明である。制作年代は鎌倉時代初期とみられるが、11世紀頃の定朝派の作とする研究者もいる。 木造聖観音立像(弥勒菩薩立像)(本坊持仏堂安置)(重要文化財) 鎌倉時代、快円作。像高87.0cm 寄木造で玉眼を嵌入する。肉身部は粉溜、衣は彩色の上に截金で蓮華唐草、七宝繋ぎ、卍字繋ぎ、雷文などのさまざまな模様を施す。体部と台座蓮弁の一枚一枚に瓔珞(ようらく)を飾り、両脚部を横切る2本の天衣が互いにからんでW字形をなすなど、全体的に装飾性の強い像である。本坊持仏堂に安置され、平素は公開されていない。聖観音像と呼ばれているが、本来は弥勒菩薩像として造立されたものである。 木造釈迦如来立像(重要文化財) 1929年盗難。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:50 UTC 版)
「大興善寺 (佐賀県基山町)」の記事における「その他の仏像」の解説
重要文化財木造広目天立像・多聞天立像 2躯 本堂内に、元太宰府天満宮の本地仏であった十一面観音座像、不動明王立像、毘沙門天立像が安置されている。これは明治初期の廃仏毀釈の際に大宰府から招来されたと伝えられている。
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