軍事革命とは? わかりやすく解説

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【軍事革命】(ぐんじかくめい)

Revolution in Military Affairs (RMA)
技術革新による軍事劇的な変化のこと。
これまでの人類史上で7回あった、とされており、歴史の古い順にあげる以下の通りとなる。

1.青銅器登場
刀剣や盾など殺人のみを目的とした道具類と、それを扱う訓練体系成立
十分な訓練を受け、十分な装備与えられ軍隊は、そうでない兵士の何倍も戦う事ができた。
2.弓矢投石機登場
の手届かないアウトレンジからの一方的な虐殺可能になった。
これ以降軍隊は常に射撃警戒しながら行動する事を余儀なくされている。
3.騎兵戦術確立
全力疾走する人間の数倍の速さ継続して走れる)軍馬機動力による奇襲兵站輸送効率の向上、情報伝達加速もたらした
これによって撤退以前比べて格段に困難になり、追撃戦戦果劇的に拡大される
そして、歩兵だけが相手なら生き延びられたはずの敗残兵次々と蹂躙捕縛殺害されるようになった
4.火器実用化
黎明期の銃は長弓クロスボウより遙かに劣る殺人器具であったし、初期大砲は「投石機出来損ない」だった。
軍事革命をもたらしたのは火器優れた性能ではなく火薬による「馬鹿でかい騒音」である。
兵士武器爆音立てる事、また敵が爆音と共に襲ってくる事が士気与え影響絶大であった
威嚇恐怖衝撃畏怖作戦もたらす影響について理解され始めたのもこの頃からである。
5.国家総力戦概念
軍事学者士気概念浸透していくに伴い士気保ちやすい戦略模索され始めた
その要求対す軍制上の回答は、一定年齢達した成年男子国民強制的に軍隊送り込む徴兵制であった
兵士個人を元々のコミュニティ地縁血縁)から孤立させ、部隊のみに依存させる事で、指揮官による統率容易にしたのである
一方、この軍事革命によって兵士人権今までよりも遙かに強く蹂躙されるようにもなった。
この軍事革命は人権求め市民革命とほぼ同時に始まり、後に共産主義ファシズム生み出す発端となる。
6.装甲車両および航空機発達
内燃機関発達により、生物には再現不能な破壊力機動力戦場投入されるようになった
軍馬数十頭に匹敵する運動エネルギーが当然のように発揮され数十トン重量物が平然と荒野を走るようになった
航空機発達数千メートル上空虚空や、数百キロ後方基地さえ敵の警戒要する戦場変えた
これら破壊的な機械長距離無線通信越し統率され、世界中どこでも緻密な作戦展開した
そして、人間兵士だけはそのまま技術革新もたらした戦場地獄取り残されのである
7.核兵器による相互確証破壊
1945年広島長崎での惨劇経た後、軍事学者関心核兵器向けられるのは必然であった
一刻でも早く核兵器への対抗戦術を確立しなければ自国軍事的危機迎えるのは明白であったからだ。

しかし結論から言えば現在の軍事科学においてさえ、そのような対抗戦術は存在しない
もし、敵国が無数の核兵器携えて国家総力戦仕掛けて来た場合、その攻撃避けて生き残る術はない。
この恐るべき事実によって、皮肉にも列強間での国家総力戦起こりなくなった
これ以降軍事史は、いかに必要以上破壊力発揮せずに勝つかを試行錯誤する歴史となっていく。

第八の軍事革命

単に「軍事革命」と称する場合現在進行形発展しているといわれる第八の軍事革命を指す事が多い。

その発端冷戦終結による軍隊量的削減と、情報通信技術劇的向上によるもので、データリンク全地球測位装置精密誘導兵器、高い機動性を持つ部隊などの諸要素によって成される
その結果として起きるのは、警戒通信指揮攻撃が高度に統合され次世代の「電撃戦」であり、これらによって戦闘の様相以前と全く違うものになる

具体的に引き起こされる変化は以下のようなものになる

こうした概念1990年代以降湾岸戦争コソボ紛争イラク戦争において実証された。
アメリカ敵対した軍隊戦争初期段階指揮統制乱され大多数部隊無傷であったにも関わらず戦況把握できず立ち往生余儀なくされた。
その後抗戦強行した部隊との散発的な遭遇戦終始し軍隊撃滅することなく終戦迎えている。

現代の軍隊にとって最重要課題である事は間違いないが、現在の所この思想実現できたのはアメリカ軍のみ。
このため現在の情報軍技術各国常識となった後の戦争について十分な予測研究成されていない

関連:トランスフォーメーション 非対称戦争


軍事革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/03 09:28 UTC 版)

軍事革命(ぐんじかくめい、: Military Revolution)は、16世紀から17世紀にかけて起きた軍事戦略・戦術における一連の根本的な変化が、政府と社会に対して大きな永続的な変化をもたらしたという理論である。この理論は歴史家マイケル・ロバーツが1950年代に案出したものである。彼は、1560年から1660年のスウェーデンに注目し、携行可能な火器の導入によって引き起こされた、ヨーロッパの戦争方法の大きな変化を見出した。ロバーツは軍事技術の進歩を、より大きな歴史の流れと結びつけたのである。

ロバーツの軍事革命の命題には4つの鍵となる要素がある。戦術、戦略、軍の規模、そして社会・政治的な影響である。この流れは戦術の革新に始まる。1590年代にオランダのマウリッツが古代ローマの軍事戦術にヒントを得て、歩兵の横隊戦術、特に兵の一斉射撃を編み出した。その後、三十年戦争でスウェーデン王グスタフ・アドルフが歩兵の横隊と軽快な野砲と騎兵突撃の衝撃力を組み合わせた。これらの新戦術はそれまでよりも練度の高い軍隊を必要としたので、より多くの訓練とより多くの士官が必要で、恒久的な常備軍が必要となった。戦略的な転換は2つめの要素であり、戦争の各陣営がより大きな戦略目標の達成のために、複数の軍を動かすようになった。3つ目の要素は軍の規模の急速な拡大である。(中略)このような、大規模で恒久的でプロフェッショナルな軍隊を支えるため、行政能力と財政能力の両面で前例のない負担がヨーロッパの各政府にのしかかった。「軍事的な必要性に追い立てられて、君主達はその治下の臣民の生活に対して、強く干渉するようになった[1]」新たな行政機関が生まれ、軍を維持し管理するとともに兵站を支えた。近代化された戦争の負担にも耐えられるだけの資金を確保できる大規模な政府の下に暴力装置は集権化されていった。(中略)これらが、近代主権国家を創造したのである[2]

1990年代に、この概念はジェフリー・パーカーによって修正および拡張された。パーカーは、築城術と攻城戦技術の進展が革命を引き起こしたと主張した[3]

パーカーはまた、ヨーロッパの軍事革命こそがヨーロッパ諸国に大きな力を与え、比較的小規模だったはずのヨーロッパ勢力が、アメリカ大陸、さらにはアフリカとアジアの大部分をも征服することを可能にしたと主張した[3]。一方でパーカーの主張は、ケンブリッジ大学の政治学者ジェイソン・シャーマンによって批判されてきた[4] [注釈 1]

軍事革命の概念については、歴史家の間でもさまざまな意見が出つづけている。著名な軍事史家のマイケル・ダフィー英語版ジェレミー・ブラックはこの理論を強く批判し、誤解を招くもので、誇張され単純化され過ぎたものだとした[6] [7]

概念の由来

ロバーツが最初に1955年に軍事革命の概念を提案した。その年の1月21日にベルファストのクイーンズ大学で講演を行った。これは後に『The Military Revolution, 1560–1660』として出版され、50年にわたって歴史学会での議論を活性化させ、その概念は継続的に再定義され、挑戦されてきた。歴史家はしばしばロバーツの理論に異議を唱える。だが同時に、ヨーロッパでの戦争方法が近世もしくはその近い年代で大きく変化したという彼の基本的な提案には普通は同意している [8]

年代について

ロバーツは彼の軍事革命を1560年から1660年頃とし、ますます効果的になった火薬兵器を利用するための横隊戦術(戦列歩兵として完成する)が開発された期間と位置づけた[9]。しかし、その年代は多くの学者からの異議を呼んできた。

アイトンとプライスは、14世紀初頭に起こった「歩兵革命」(後述)の重要性を指摘している[10]。デビッド・エルティスは、火薬兵器におきた本当の変化とその変化に応じたドクトリンの精緻化はロバーツの言う16世紀後半でなく、16世紀前半に起きたとした[11]

逆に、軍事的変化はもっと後の年代に起きたとする立場を取る者もいた。ジェレミー・ブラックは重要なのは1660年から1710年の期間であると考えた。この期間に、ヨーロッパでは軍隊の規模が指数関数的に拡大している[12]。一方、クリフォード・ロジャース英語版は軍事革命は異なる期間に次々に起きたとした。最初は14世紀の「歩兵革命」、次に15世紀の「砲兵革命」、3番目に16世紀の「要塞革命」、4番目に1580年 - 1630年の「火器」革命、最後に5番目の革命である軍の規模拡大を置いた[13]。同様に、ジェフリー・パーカーは、軍事革命の期間を1450年~1800年に延長した。この期間は、ヨーロッパ人が世界の他の地域を征服していく期間でもあった[3]。これに対し、一部の学者は、4世紀もの長期にわたる進化を革命と呼んでいいのかという点に疑問を呈した[14] [15]。クリフォード・ロジャースは、軍事革命は「断続平衡説」(生物学に由来する理論)の概念と極めて似ていると示唆した。これは急速な軍事革新の短期の爆発的変化とそれに続く比較的停滞の期間を意味する [16]

戦術

火器と横隊戦術

16世紀オランダのマスケット銃兵

火器の導入によって、復活した古代のパイク兵の方陣にマスケット銃兵を組み合わせることになった。

野戦の様相は銃の普及によって革命的に変化した。個人の武勇は銃の威力で上書きされた[17]。15世紀と16世紀、パイク兵の方陣が戦場の騎兵の価値を大幅に引き下げた[17]。しかし、1512年のラヴェンナの戦いで示されたように、方陣は野砲の砲撃や小銃の射撃に対しては脆弱だった。そこで、銃兵がパイク兵の方陣に導入されたが、当初その割合は1:3だった[17]。その後、銃兵の割合は大いに増え続けて、1650年頃には4:1にまで達していた[17]

当時の銃の発射速度は非常に遅く、よく訓練された銃兵でも2分に1回の発砲が限度だった。これでは、騎兵の突撃を受けた場合、有効な一斉射撃は1回しか行えなかった。このため、パイク兵が銃兵を守る必要があった[17]。1590年から1600年の間に、ネーデルラント連邦共和国の軍隊は、古代ローマの歩兵戦術英語版の研究にヒントを得て、敵を食い止めるための連続的な火力発揮を可能にする戦術改革を行った。銃兵を薄い横隊に配置し、最初の横隊が発砲すると、次は2番目の横隊が発砲し、と、これを繰り返して、10番目の横隊が発砲すると、最初の横隊は再装填を終えて発砲準備ができていた[17]

こうして生み出された薄く広い歩兵隊列は、防御的な配置には理想的だが、攻撃的な機動には不向きだった。間口が広くなるほど、秩序と統制を維持したり、戦術機動、特に旋回を行うことが難しくなる。ティリーによって使用されたような突撃隊列が、実際には素早く柔軟なことをグスタフ・アドルフは熟知していた。このスウェーデン王は必要に応じて、アルテ・ヴェステの戦い(Battle of the Alte Veste)のようにそれを利用した(図3を参照)。

確かに軍隊はより薄い隊列を使い始めたが、それはゆっくりとした進化だったし、戦術的な必要性が優先された [注釈 2]。火器は未だ軍隊の隊列のすべてを決定するほど強力ではなかった [注釈 3]。他の要素、例えば部隊の経験 [注釈 4]であるとか、任務とか地形とか「戦力不足の部隊で必要な長さの戦線を埋めないといけない」なども重要だった。横隊か縦隊かの論争は、18世紀のナポレオン時代まで行われ、ナポレオン戦争後期の戦役では、縦列への一時的な逆転現象も起きた[20]

皮肉なことに、騎兵の縦深の削減は、グスタフ・アドルフによって導入されたより永続的な変化だった。ピストル射撃への依存度が低いことと関連して、ロバーツの主張する傾向とは逆に、火力よりも衝撃力(突撃)を優先するためのものだった。

イタリア式築城

15世紀後半に起こったもう1つの変化は、古いスタイルの要塞を非常に弱体化させた攻城兵器の改良(大砲)だった。しかし、攻囲戦における攻城戦術の覇権は、それほど長くは続かなかった。フィリップ・コンタミーヌ英語版が指摘したように、すべての時代に見られる弁証法的プロセスによって、攻城戦術の進歩は築城術の進歩によって抑え込まれ、その逆も同様だった [21]。1494年のシャルル8世のイタリア侵攻は、攻城兵器の有効性を示した。しかし、16世紀初頭までにこの地域では、砲撃に対抗するために特別に設計された要塞が出現し始めていた。15世紀の「砲兵革命」の完全な影響はイタリア式築城術、つまり堡塁稜堡式城郭によってかなり急速に鈍化した。しかし、強力な攻城部隊を保有することによる軍事上の優位性は、15世紀後半にヨーロッパのいくつかの国家で見られた王権の強化に少なからず貢献した[22]

ロバーツの横隊戦術の概念は初期から若き歴史家ジェフリー・パーカーに批判された。パーカーは、ならばなぜ古いスペインのテルシオがスウェーデンの横隊相手に1634年のネルトリンゲンの戦いで勝てたのかと問うた[23]。パーカーはその代わりに、重要な発展は近世ヨーロッパにおけるイタリア式築城、つまり稜堡式城郭の出現であると示唆した。この見解では、そのような要塞を攻略することの困難さが、軍事戦略に大きな変化をもたらしたとする。「戦争が一連の長期にわたる攻城戦になった」とパーカーは指摘し、野戦軍同士の戦いは、イタリア式要塞が存在する地域では「無関係」になった。最終的に、パーカーは「軍事地理」、つまり特定の地域におけるイタリア式築城の存在または不在を重視し、それが近世初期の軍事戦略を形作り、新式の要塞を攻囲するために、そしてそれを守備するために、より大規模な軍隊の創設につながったとする。このようにして、パーカーは16世紀初頭に軍事革命を誕生させた。彼はまた、この軍事的変化が国家の拡大の要因だったにとどまらず(「海軍革命」とともに)ヨーロッパが他の文明を超える拡大は果たした主因だったともした[3]

このモデルは、いくつかの理由で批判されている。ジェレミー・ブラックは、軍隊の規模の拡大を可能にしたのは国家の発展であり、その逆ではなかったと指摘し、パーカーの主張を「技術的決定論」と断罪した[12]。また、軍隊の規模拡大を説明するためにパーカーによって提示された数字は、一貫性が欠如しているとしてデービッド・エルティスによって厳しく批判されており[11]、デービッド・パロットは、イタリア築城術の時代にフランス陸軍の規模は特に顕著な拡大を見せていないことを証明した[注釈 5]。さらに、三十年戦争の後期には軍内での騎兵の割合は増加しており[25]、これは攻囲戦の必要性によって騎兵の重要性が低下したとするパーカーの説とは対照をなす。

歩兵革命と騎兵の衰退

騎兵突撃に備える長槍兵の方陣
15世紀末のプレートアーマー。右胸にランスレストが設けられている

何人かの中世専門家は、14世紀の早い段階で起こった歩兵革命という概念について詳しく述べている。いくつかの関連する戦い、金拍車の戦い (1302年)、バノックバーンの戦い (1314年)またはハルミロスの戦い英語版 (1311年)などで、重騎兵は歩兵に敗れている[26] [27]。しかしながら、これらすべての戦闘は、騎兵が敗北した14世紀と15世紀の他の戦闘と同様に、騎兵には適さない荒れた地形において、歩兵が塹壕を張ったり配置されたりしたことが指摘できる。実際、それ以前でも同様の状況、たとえば1176年レニャーノの戦いでは歩兵が勝利を収めていた。しかし、たとえばパテーの戦い(1429年)やフォルミニーの戦い(1450年)で示されているように、開豁地は歩兵にとっては依然として最悪で、強力なイングランドの長弓兵すら簡単に騎兵に蹂躙された。しかし、金拍車やバノックバーンのような戦闘の経験は、無敵の騎士の神話が消えたことを意味し、それ自体が中世の戦争を変えるために重要だった。

キャリーが命名したように、より多くの実体が「重歩兵の復活」を支持する[28]。長槍兵は、他の歩兵とは異なり、重騎兵に平地で対抗することができた。訓練と規律を必要とするが、それでも訓練の必要度でいえば射手や騎士よりもはるかに低かった。重装甲の騎士から歩兵への切り替えにより、軍隊をより早く訓練できるようになり、より大量に雇えるようになったため、15世紀後半から軍の規模を拡大することが可能になった。しかし、その変化はゆっくりしたものだった。

15世紀に人と馬の両方にプレートアーマーが完成され、より重い槍(ランス)を固定できる装具(ランスレスト英語版が導入されたことで、重騎兵は恐るべき戦力であり続けた。騎兵なしでは、15世紀の軍隊が戦場で決定的な勝利を収める見込みはなかった。戦闘の勝敗は弓兵あるいは槍兵によって決まるかもしれないが、(決定的な成果が得られるはずの)退却後の追撃戦は、(退却側の騎兵によって)効果的に遮断されるか、追撃側の騎兵によって実施されるかだった[29]。16世紀には、より軽量で安価なプロの騎兵が登場し[注釈 6]、陸軍の騎兵の割合は実際には増加し続けた。その結果、30年戦争の最後の戦いでは、封建時代の比率と比較すると、歩兵でなく騎兵が増えていた[30]

軍隊の規模

軍隊の規模の拡大と近代国家の発展への影響は、軍事革命理論の重要なポイントである。異なる時期の軍隊の規模を調査するためのいくつかの情報源がある。

管理文献

欧州の軍の規模 1630年 - 1710年
人口 - 1650年(単位:百万人) 軍の規模(単位:千名)
国名 人口 - 1630 - 1650 - 1710
デンマーク=ノルウェー 1.3[31] 30 - 40[32] 35[33] 53[32]
スウェーデン=フィンランド 1.1[31] 45[34] 70[34] 100[34]
ブランデンブルク=プロイセン 0.5[35] 12[36] 8[37] 40[38]
ポーランド・リトアニア共和国 11[39] 17[40] 53[41] 50[41]
100 *[41]
ロシア・ツァーリ国 15[42] 45[34] 92[36] 170[34]
イングランド王国 4.7[43] . . 70[34] 87[34]
オランダ共和国 1.5[44] 70[45] 30[45] 120[45]
フランス王国 18[46] 200[45] 100[45] 340 - 380[45]
ハプスブルク帝国 8[47] 100[48] 20 - 24[47] 110 - 130[47]
カスティーリャの王冠
アラゴン連合王国
7[46] 300[34] 100[34] 50[34]
オスマン帝国 18[49] 40 **[50] 50 **[50] 50 **[50]
* 大北方戦争の両陣営に分裂したポーランド軍全部の合計。
**イェニチェリのみ。

その性質上、利用可能な中では客観的な情報源である。ナポレオン戦争以来、ヨーロッパの司令官は自分の部隊の定期的な兵力の報告を得ていた。これらの兵力報告書は、19世紀と20世紀で行われた戦争研究の主な情報源だったが、問題がないわけではなく、軍によって効果的な戦力はさまざまな方法でカウントされ、場合によっては、上司に迎合するために指揮官によって報告書の数字が水増しされていた。

もうひとつの情報源は、召集要請、つまり兵役準備の整った人員の非定期的な人数報告である。召集要請は19世紀以前の軍の兵力の主要な史料だが、その性質上、継続性に欠け、長期間の分析には適していない。しかし、それらはその期間の最も信頼できる情報源であり、軍の兵力とその変動の全般状況を提供する[注釈 7]

第3に、給与は別の情報セットをもたらす。これは軍のコストを研究するのに特に役立つが、支払いを示しているだけで、本当に勤務している兵士数を示すわけではないので、召集要請と比べると信頼度では劣る。19世紀以前、歩合を稼ぐために士官によって「幽霊兵士」が登録されるのは、非常に一般的な出来事だった。

最後に、戦力を記載しない部隊の一覧である戦闘序列Orders of Battleは、16、17、18世紀では非常に重要である。かつて、軍は永続的に部隊を配備する組織を欠いていたので、通常の戦闘序列とは、部隊を持つ指揮官の列挙で構成されていた。古代の例外は、初期からかなりの軍事組織を発展させたローマ軍である。ただし、部隊というのは戦闘中だけでなく平時でさえ、完全に充足された戦力であることがほとんどないので、戦闘序列は兵数の信頼できる情報源ではない。

叙述史料

現代の歴史家は、利用可能な大量の管理文献を史料として利用しているが、昔はそんな便利な物はなかった。近代以前の書き手は、参照した文献名を挙げずに執筆していることがきわめて多く、実際に管理文献を使用していることを確認できるケースはほとんどない。敵軍についての記述では、それは特にあてはまる。

前近代の歴史家に関しては、さらに多くの問題がある。敵の兵力を増やすことは、いつの時代も好まれる宣伝手法の1つだったので、当時の報告書には極端なバイアスが含まれている可能性がある。バランスの取れた説明を提示した場合でも、多くの歴史家は軍事経験がなかったため、情報源を適切に評価して批評する技術的判断が欠けていた。一方で、同時代の歴史家は貴重な当事者の談話を直接聞くことが出来たが、数値については極めて不正確だった。

歴史家は、叙述史料は数字の点で非常に信頼できないと考えている。したがって、管理文献を使える近代の数字と、それがない前近代の数字との比較は非常に困難である。

軍全体の規模

軍全体、つまり特定の国(政府)に属する軍のすべてと、特定の戦役で単一の部隊として移動できる戦術単位である野戦軍とは、別々に考える必要がある。

軍全体の規模の拡大は、軍事革命の重要な問題として、何人かの学者によって検討されてきた。2つの主要な論文があり、17世紀から18世紀の経済的および人口統計的成長の結果[52]か、同時期の政府の拡大と中央集権化のいずれかが主な原因と考えられてきた[53]

しかし、一般的な主張に反対する人もいる。たとえば、I.A.A. トンプソンは、16 - 17世紀のスペイン軍の規模拡大が、地域の反乱に対する中央政府の弱体化とスペイン経済の崩壊とにどう影響したかを指摘している[54]。一方、サイモン・アダムスは17世紀前半にそのような規模拡大があったかどうか疑問だとしている[55]

規模拡大がはっきりしているのは、17世紀後半、諸国が三十年戦争が終わるまで続いていた傭兵的な仕組みへの依存を離れ、政府が直接に軍隊を徴募して武装させるようになってからである。

この時期を通していくつかの国で組織化された地方的な、そして地域的な軍制は、国の軍隊の基盤となる人的資源の拡大に貢献した。にもかかわらず、依然として外国人傭兵もヨーロッパ諸国の軍隊においてかなりの割合を占めていた。

野戦軍の規模

これは歴史を通して、主に兵糧(食糧)の供給という兵站上の制約によるものである。17世紀半ばまでは、基本的に軍隊は土地に縛られていた。補給線というものはなかった。軍隊とは補給源に向かって移動し、その動きは多くの場合、補給事情によって決定された[56]。交通が良好な一部の地域では、長期間にわたって大規模な軍隊を支えることができたが、これらの十分な補給のある地域から移動すると、依然として食糧確保のために分散する必要があった。ほとんどの時代、野戦軍の最大規模は5万人未満である。この数字に関する兵力の報告は常に信頼できない叙述史料からのものであり、懐疑的に見なければならない。

17世紀の後半で事情は大きく変わった。陸軍は補給線で結ばれた補給拠点のネットワークを通じて補給され始め[注釈 8]、それにより野戦軍のサイズが大幅に増加した。18世紀から19世紀初頭にかけて、鉄道が登場する前に、陸軍の規模は10万人を超えていた。

結論

テクノロジーに基づいて軍事革命が起きたとする理論は、新しい理論モデル、組織や指揮統制や兵站やその他の非物質的要素はよりゆっくりと進化した(テクノロジーの果たした役割はそこまで過大ではない)とするモデルに道を譲った。これらの変化が持っていた革命的な性質は、長い進化の果てに、ヨーロッパが卓越した戦争能力を手にしたことで初めて目に見えるようになった。産業革命によってそれは確認された[58]

一部の歴史家は、近世初期の軍事革命の存在に異議を唱え始め、別の説明を提案している。理論の最も過激な修正主義者の見解は、それが近世の軍事開発と西側の覇権の台頭を説明できないと考えている。修正主義の歴史家の新しい波は、軍事革命の考えを完全に拒否し、中世後期から近世の時代にかけてのヨーロッパの戦争の戦術的、作戦的、技術的側面の漸進的かつ不均一な変化の綿密な分析に基づいている[注釈 9]。ヨーロッパのみならず、非西欧諸国、すなわち日本、韓国、ムガール帝国、およびオスマン帝国などでの軍事史の分析もこの考えに寄与している[注釈 10] [61]

注釈

  1. ^ Yet, the factors that defined the military revolution in Europe were absent in European expeditions to Asia, Africa, and the Americas, and conventional accounts are often marred by Eurocentric biases.[5]
  2. ^ 歩兵は横隊をとることで、静止状態の火力が強まって防戦時の戦闘力は高まるが、隊列の縦深が浅くなって攻撃時の戦闘力は低下する。すると、騎兵が迂回機動を行って、側面や背面からの攻撃によって戦いが決する傾向がある[18]
  3. ^ この点で、連隊砲の導入は「進歩」ではなく「選択肢の追加」と見なされるべきである。なぜなら、火力の増加は他の要素によって相殺された。火力は歩兵の前進を減速させ、そして兵站上の大きな負担となった。多くの者が、負担に値する価値がないと考えた。たとえば、当時台頭していた大国であるフランスは、軍隊での短い運用の後にそれらを放棄した[要出典]
  4. ^ 経験を積んだ部隊ほど、より薄い陣形を使えた[19]
  5. ^ 「フランスの軍事組織全体の規模の変化と言う意味では、攻城戦の遂行は重要な要因ではなかった」[24]
  6. ^ それまでの騎士的な騎兵に比して、重い武器や鎧を持たないことで身軽かつ低コストだった。
  7. ^ For instance between the muster at Duben and the Muster at Breitenfeld the Swedish army lost more than 10% of its infantry in just two days,[51] this kind of conduct would be typical before a major battle was to be fought.
  8. ^ From the second half of the seventeenth through the late eighteenth centuries "umbilical cords" of supply bound armies.[57]
  9. ^ 「考えて欲しい。火器以外に、古代ローマの軍とルイ14世の軍との間に、兵站上・管理上の違いはあるだろうか? 何もない。どちらも集権化された国家の下に10万名を擁する軍があり、その大半が国境地帯に配備され、世界的な強国としての地位を獲得して維持するための力となっていた。どちらも巨大な軍隊であり、よく組織され、よく訓練され、標準化された装備と標準化された軍服があった」[59]
  10. ^ 「その結果、軍事技術の(進歩の)影響を受けた他の多くの国々と同様に、オスマン帝国も抜本的な改革に着手しました。17世紀とは、変化する状況に直面しても生き残るために、可能な限り最適な手段でその存在を維持するためにオスマン帝国の改革が行われた世紀と呼ぶことができます。戦争がもたらす壊滅的な影響への対応が、この改革の主たる動機でした」[60]

出典

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参考文献

The Military Revolution Debate:収録

  • Adams, Simon (1995), “Tactics or Politics? 'The Military Revolution' and the Habsburg Hegemony, 1525–1648”, in Rogers, Clifford J., The Military Revolution Debate: Readings on the Military Transformation of Early Modern Europe, Oxford, pp. 253-272 

関連書籍

  • Agoston G (2014) :Firearms and military adaptation: The Ottomans and the European military revolution, 1450–1800." Journal of World History 25#1: 85–124.
  • Andrade T. The Gunpowder Age: China, Military Innovation and the Rise of the West in World History (Princeton UP, 2016).
  • Black, Jeremy. "A Revolution in Military Cartography?: Europe 1650–1815." Journal of Military History. Volume 73, January 2009, Pages 49–68.
  • Black, Jeremy, A Military Revolution?: Military Change and European Society, 1550–1800 (London, 1991)
  • Black, Jeremy, "Military Organisations and Military Change in Historical Perspective", The Journal of Military History, 62#4 (1998), pp. 871–892.
  • Black, Jeremy, "War and the World, 1450–2000", The Journal of Military History, Vol. 63, No. 3 (1999), pp. 669–681.
  • Brzezinski, Richard, The Army of Gustavus Adolphus 2. Cavalry (Oxford 1993) ISBN 1-85532-350-8
  • Downing, Brian M., The Military Revolution and Political Change: Origins of Democracy and Autocracy in Early Modern Europe (1992)
  • Duffy, Christopher, Siege Warfare: The Fortress in the Early Modern World 1494–1660 (1979) (1996)
  • Hale, J. R., "The Military Reformation", in War and Society in Renaissance Europe (London,1985)
  • Hoffman, Philip. 2011. "Prices, the military revolution, and western Europe's comparative advantage in violence." The Economic History Review.
  • Hoffman, Philip. 2012. "Why Was It Europeans Who Conquered the World?" The Journal of Economic History.
  • Hoffman, Philip. 2015. Why Did Europe Conquer the World? Princeton University Press.
  • Howard, Michael, War in European History (1976), chs 1–4
  • Kennedy, Paul M., 大国の興亡: 1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争 (1988)
  • Kleinschmidt, Harald, "Using the Gun: Manual Drill and the Proliferation of Portable Firearms," The Journal of Military History, 63#3 (1999), pp. 601–629.
  • Knox, MacGregor and Murray, Williamson, The Dynamics of Military Revolution, 1300–2050 (Cambridge, 2001)
  • Kubik, Timothy R. W., "Is Machiavelli’s Canon Spiked? Practical Reading in Military History", Journal of Military History, Vol. 61, No. 1 (1997), pp. 7–30.
  • Lorge, Peter A. The Asian Military Revolution: From Gunpowder to the Bomb (2008)
  • McNeill, William H. The Pursuit of Power: Technology, Armed Force and Society since AD 1000 (Chicago, 1982)
  • Parker, Geoffrey. "Military Revolutions, Past and Present" in Recent Themes in Military History. Ed. Donald A Yerxa. (U of South Carolina Press, 2008)
  • Parrott, David A. "The Military revolution in Early Modern Europe", History Today, 42 (1992)
  • Paul, Michael C. "The Military Revolution in Russia, 1550–1682," Journal of Military History 2004 68(1): 9–45,
  • Raudzens, George. "War-Winning Weapons: The Measurement of Technological Determinism in Military History", The Journal of Military History, 54#4 (1990), pp. 403–434.
  • Rogers, Clifford J. “‘Military Revolutions’ and ‘Revolutions in Military Affairs’: A Historian’s Perspective”(PDF) in Thierry Gongora and Harald von Riekhoff (eds.), Toward a Revolution in Military Affairs? Defense and Security at the Dawn of the 21st Century. (Greenwood Press, 2000): 21–36.
  • Rothenberg, G. E. "Maurice of Nassau, Gustavus Adolphus, Raimondo Montecuccoli and the 'Military Revolution' of the 17th century" in P. Paret, G.A. Gordon and F. Gilbert (eds.), Makers of Modern Strategy (1986), pp. 32–63.

歴史学と教育


軍事革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 04:01 UTC 版)

マウリッツ (オラニエ公)」の記事における「軍事革命」の解説

マウリッツ従兄ナッサウジーゲンヨハン7世叔父ヨハン6世の子と共に行った一連の軍事訓練は、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。もちろん、従来軍隊にも軍事訓練はあったが、マウリッツはその訓練を非常に精緻なものとした。例えば、銃を扱う際にもその動作数十にまで細分化し、かけ声合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進規則定めることで、指令に従って軍団迅速に陣形変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中兵士士気維持させることにもなった。また訓練通じて元来傭兵寄せ集めでしかなかった軍隊中にある種連帯意識形成させることにも寄与した。 これらの訓練マニュアル秘密裏にされず、書物として刊行された(『武器操作火縄銃マスケット銃について、オラニエ公マウリッツ閣下命令によって著す』、日本語未訳)。そのため、諸外国マウリッツ基本教練参考にして、自国軍隊鍛え上げるようになった。 さらにマウリッツは、パイク兵の方陣テルシオ)による白兵戦主流であった当時ヨーロッパ陸戦刷新し歩兵騎兵砲兵加えた三兵戦術基盤築いたマウリッツ生きている間は、それでも名将スピノラ率いスペイン軍との戦闘五分五分といったところであったが、彼の死後オランダ当時ヨーロッパ最強軍事大国であったスペインとの八十年戦争乗り切って完全独立を果たすことができた。 マウリッツまた、将校育成するための士官学校創設した。この士官学校卒業者中には、後にバルト海一帯覇権を握るスウェーデン王グスタフ2世アドルフ仕える者もいた。スウェーデン軍強化は、この卒業生功績よるもの大きいと推測されている。このように軍事史におけるマウリッツ影響は、オランダ一国とどまらずヨーロッパ全体広まった加えてマウリッツは、軍隊シモン・ステヴィン、ジャック・アローム等の優れた数学者技師などを招き新兵器開発振興した

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