じょしん〔ヂヨシン〕【女真】
女真
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女真(女眞、じょしん、満州語: ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満洲にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。
注釈
出典
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女真
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「大水滸シリーズの登場人物」の記事における「女真」の解説
麻哩招吉 (水滸伝)女真族の有力軍閥の長。容赦のない性格で捕虜を過酷に扱い、交渉のためにやって来た魯智深を投獄する。 阿骨打(アクダ) (水滸伝)女真族の若き長。女真族でも特に支配が厳しい生女真に属する。自分たちを抑圧する遼の打倒を考えており、武装蜂起のために力を蓄える。物語後半の蔡福・蔡慶らによる武器調達がきっかけで梁山泊と、そして終盤で楊令と係わりを持つことになる。梁山泊の支援を受けて遼に反旗を翻し、金を樹立した。武松たちと意気投合するほど快活で豪胆だが、ときには理不尽に耐える忍耐強さも併せ持つ。なお、史実より若く描かれており、また登場時の女真族での立場も史実より相当に低い。 (楊令伝)金の初代皇帝。幻王(楊令)の協力を得て遼を圧倒するが、遼に味方する熟女真との同族争いや部族内の権力抗争に苦慮し、夢半ばで病に倒れる。彼の早すぎる死は、梁山泊の対童貫戦における戦略と楊令の国家構想に大きな修正を余儀なくさせた。楊令とは兄弟分のような仲で最大の理解者でもあり、彼の葛藤や心境の変化にも気付いていた。楊令と共に南北に漢民族と女真族の国を作り、共存するという夢を抱いていた。 『岳飛伝』で兀朮が阿骨打ならば遼の名将だった蕭珪材を使いこなすことができたと回想し、蕭珪材を活用できなかった自分たちを恥じている。また父が志半ばで倒れたために楊令と交わしたであろう何らかの約束を守れなかったとも推測している。 完顔成 (水滸伝)阿骨打の副官。生女真の出身で遼の支配に耐え続けていたが、阿骨打の決起に従い共に転戦する。 (楊令伝)金の将軍。幻王楊令に従い転戦し、金建国後に元帥として軍を統括。楊令が梁山泊に帰還する際に、彼に縁のある女達の保護を頼まれたため、弟の胡刺児に託した。後に斡離不、撻懶と共に宋への侵攻軍を指揮する。根が実直ゆえ、阿骨打亡き後の朝廷や軍内部の不協和音に悩んでいる。その行動や地位は、史実での粘没喝に近い。斉建国に伴う平定戦で岳家軍に連敗、兀朮との交代という形で解任される。総司令官としての軍才は欠けていたが、民族や前歴に囚われずに金軍を編成した公平さを撻懶に評価された。その後、軍政面を統括する立場に就く。 (岳飛伝)粘罕の死と金の文官不足により宰相を務める。自らが宰相の器でないことを自覚しており、病に倒れたのを機に撻懶へ宰相職を譲る。その後は宮中の整備や儀仗兵の指揮といった名誉職に就く。 真婉 (水滸伝)女真族の女性で、蔡慶の妻。間に一児・蔡豹をもうけるが、遼の襲撃で夫を失う。 (楊令伝)蔡慶の死後、女真の風習により彼の兄・蔡福と再婚するが、後に首を吊って自殺した。死に至るまで長年にわたり蔡豹に蔡福への憎悪を語り続け、蔡豹の心に深い傷を残す。 蔡豹 (水滸伝)蔡慶と真婉の息子。物心つく前に、遼の襲撃で村が壊滅し父を失う。 (楊令伝)伯父の蔡福に育てられるが、やがて母と結婚した蔡福を恐れ嫌う。母の自害に衝撃を受け、その身を案じた武松に伴われて王進に預けられた。秦容が旅立った後は王進の唯一の弟子となる。梁山泊へ行く気はないが、自分の将来を決めかねている。成長してもなお、蔡福に対しての憎悪は消えずにいる。余談だが、連載時には王慶と偽名を名乗る場面があった(単行本ではカットされた)。 (岳飛伝)蔡福の死は知っているが憎しみは消えておらず、賊徒との争闘ではそれを剥き出しにしていた。母と慕っていた公淑が病に倒れ彼女を喪うことを恐れていたが、公淑の最期を看取った後は王清と共に埋葬した。王進の死後に子午山を降りて金貸しをしていたが、取り立てのため訪れた陳家村で燕青と再会。彼の命により村で商売を始めることになる。 以降は王清と同じく、梁山泊に連なる米商人として南宋に対する物流戦略の一端を担うようになる。やがて陳麗華と愛し合うようになり、それがきっかけで過去の憎悪を清算する。だが孟康の頼みを聞き入れて買い占めた米を売らなかったために存在を炙り出されてしまい、黄広配下の襲撃を受ける。陳麗華を守って奮戦するも二人とも殺害され、その亡骸は関係者をおびき出すための餌として晒し者にされるという無残な最期を遂げた。
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