淩統
父淩操は孫策に従って破賊校尉となっていたが、建安八年(二〇三)、孫権の江夏征討に従軍して敵先鋒の軽舟を打ち破り、ただ一人で突き進んでいるうちに流れ矢に当たって戦死した。淩統は十五歳であったが、(孫権の)左右の者たちの多くが褒め称え、孫権もまた淩操が国事で死んだことを思い、淩統を別部司馬に任じ、行破賊都尉として父の軍勢を仕切らせた。 のちに山賊攻撃に従軍したが、孫権が保の屯所を打ち破って一足先に引き揚げたとき、麻の屯所には一万人が残っていた。淩統は督の張異らとともに攻囲に残り、日にちを定めて攻撃することにした。期日に先立ち、淩統は督の陳勤と酒を呑むことになった。陳勤は剛勇で気ままな性質であり、酒宴の主人役を務めたのだが、一座の面々を虚仮にしたばかりか、罰杯のやり方も道を外したものだった。淩統はその傲慢ぶりに嫌悪感を覚え、面と向かって批判し、言いなりにならなかった。陳勤は腹を立てて淩統や父淩操を罵倒し、淩統は涙を流しながら黙り込んだ。それを見て、人々は帰っていった。 陳勤は酔った勢いで凶悪になり、路上でも淩統を侮辱し続けた。淩統は堪忍袋の緒が切れて、刀を抜いて陳勤を切った。陳勤は(その傷のせいで)数日後に死んでしまった。 屯所を攻撃すべき日になると、淩統は「死ぬ以外に罪を償うすべはない」と言って、士卒を励まし、身をもって矢石に飛び込んだ。(淩統が)攻撃をかけた一角は即座に崩壊し、諸将は勝利に乗じて屯所を大破した。帰還したとき軍正に自首したが、孫権はその剛毅果断を壮快に思い、手柄を立てて罪を贖うことができるようにした。 のちに孫権が再び江夏を征討したとき、淩統は先鋒となり、可愛がっている勇者たち数十人とともに一艘の船に乗った。ずっと大軍から数十里も離れたまま航行し、右江に入ると、黄祖の将張碩を斬って水兵をことごとく川に落とした。(本隊に)戻って孫権に報告したあと、手勢を率いて全速で進航したので、(淩統と孫権の)水陸両軍が一斉に集結した。このとき呂蒙が敵水軍を打ち破り、さらに淩統が率先して敵城を叩いたので、大勝利を収めることができたのである。 孫権は淩統を承烈都尉に任じ、周瑜らとともに烏林で曹公(曹操)を迎えて打ち破らせ、そのまま曹仁を攻撃させて、校尉に昇進させた。(淩統は)軍中にあっても賢者や士人に親しく接し、財貨を軽んじて義理を重んじ、国士の風格を漂わせていた。 また皖城攻略に従軍して盪寇中郎将を拝命、沛国の相となった。呂蒙らとともに西進して(長沙・零陵・桂陽の)三郡を攻略し、益陽から引き揚げると(その足で)合肥に着陣、右部督となった。この戦いでは孫権軍が撤退することになり、先発隊が出たあと、魏将張遼らが渡し場の北岸へと急襲をかけてきた。孫権は先発隊を呼び戻そうとしたが、彼らはすでに遠くまで行っていて間に合いそうになかった。淩統は側近三百人を率いて包囲を突破、孫権を守護しつつ脱出した。 (しかし)橋はすでに敵兵によって破壊され、二枚の板で繋がっているだけだった。孫権は馬に鞭打って強行し、淩統はまた引き返して戦った。左右の者たちはみな死んで、彼自身も傷付いていた。数十人ばかり殺しつつ、孫権が落ち延びる頃合いを見計らって、ようやく引き返す。橋が崩壊して道がなかったので、淩統は具足を身に付けたまま(水中を)潜って行った。孫権は船の上から彼の姿を見付けて驚喜した。 淩統は側近たちが帰ってこないのを痛惜し、悲しみのあまり立つことさえできなかった。孫権は袖で(彼の涙を)拭いながら「公績よ、死者は帰ってこないよ。卿(あなた)さえ健在であれば、ここにおらぬ人を思うことはない」と慰めた。淩統の怪我は深く、孫権は淩統を船に置いて衣服をすっかり替えてやった。卓氏の良薬が怪我に効き、おかげで死なずにすんだのである。偏将軍に任じ、以前の二倍にあたる兵士を支給した。 ときに、同郡の盛暹という人を孫権に推薦する者がいて、大いなる節義を持った梗概の士であり、淩統以上の者であると主張した。孫権は「淩統と同等であれば充分だ」と言った。後日、盛暹がお召しを受けて夜中に到着したとき、淩統はもう横になっていたところだったが、報告を聞くと、着物を抱えて門まで出迎え、その手を引いて中へ通した。彼が善士を愛して悪意を持たなかった様子は、このようなものだった。 孫権の言葉には、淩統ほど傑出した人物はそうそういない、ましてやそれ以上の者などいるはずがない、という思いが込められている。 淩統は、山中には勇壮精悍な人々がまだ多く、威厳と恩恵によって誘い入れるべきだと言上した。孫権は東方を占拠して一応の攻撃を加えさせた上で、およそ淩統が要求するものがあれば、すべて先に供出して報告は後回しにせよ、と属城に命令を下した。 淩統は日ごろから士人を愛し、士人もまた彼を慕った。精鋭一万人余りを手に入れても(威勢を嵩にかけることなく)、本県を通行するときには(馬から下りて)徒歩で役所の門へ入り、長吏に拝謁するときも三枚の版(名刺)を携え、うやうやしく礼儀を尽くした。知人と旧交を温めるときも、恩情は以前にも増して手篤くなった。用事を済ませて出発しようとした矢先、突然病気にかかって卒去した。時に四十九歳。 『建康実録』に建安二十二年、偏将軍・都亭侯淩統が二十九歳で卒去したとあり、『三国志』本伝とは一致しない。陳景雲は言う。建安八年で十五歳だったのだから、淩統は中平六年(一八九)生まれである。淩統の死後、駱統がその軍勢を引き継いだのは夷陵戦役の以前なのだから、淩統は三十歳には達していなかっただろう。享年は二十九歳とするのが正しい《集解》。 孫権は報告を受けると牀に手をついて体を起こしたが、哀しみを抑えることができず、数日間は食膳を減らし、彼のことが話題になれば涙を流した。張承に命じて銘誄を作らせた。 【参照】黄祖 / 周瑜 / 盛暹 / 曹仁 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 卓氏 / 張異 / 張承 / 張碩 / 張遼 / 陳勤 / 呂蒙 / 淩操 / 右江 / 烏林 / 益陽県 / 合肥県 / 晥県(皖県) / 魏 / 桂陽郡 / 呉郡 / 江夏郡 / 逍遥津(渡し場) / 長沙郡 / 沛国 / 保屯 / 麻屯 / 余杭県 / 零陵郡 / 右部督 / 軍正 / 校尉 / 相 / 承烈都尉 / 長吏 / 盪寇中郎将 / 督 / 破賊校尉 / 破賊都尉 / 別部司馬 / 偏将軍 / 行 / 銘誄 |
凌統
凌統 | |
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呉 偏将軍・沛国相・右部督 | |
出生 | 光熹元年(189年) 揚州呉郡余杭県 |
死去 | 建安22年(217年)または嘉禾6年(237年) |
拼音 | Líng Tǒng |
字 | 公績 |
主君 | 孫権 |
凌 統(りょう とう、189年 - 217年/237年)は、中国後漢末期の呉の武将・政治家。字は公績(こうせき)。父は凌操。子は凌烈・凌封。揚州呉郡余杭県の人。
略歴
国士の風
建安8年(203年)、夏口攻めで父が戦死すると15歳で後を継ぎ、孫権から別部司馬・破賊都尉(代行)に任命された。
建安11年(206年)、麻屯・保屯の山賊討伐に従軍した。決戦の前に行われた酒宴で、督の陳勤の傍若無人な振る舞いを咎めたため、陳勤の怒りを買った。陳勤は凌統本人や父の凌操を侮辱し、凌統も初めは耐えていたが、侮辱は酒宴の帰り道にまで及んだため、ついに陳勤を斬った。陳勤は負傷し、その傷が原因で数日後に死んだ。仲間を死なせた責任を感じた凌統は、死んで詫びようと麻屯攻略の際に猛攻を仕掛け、勝利に貢献した。凌統は自首したが、孫権は功をもって罪を許した。
また時期は不明であるが、董襲・歩騭・蔣欽らと共に山越の彭虎を討伐している。
建安13年(208年)、夏口攻略戦では董襲と共に先鋒を務め、張碩を斬るという武功を挙げ、その功により承烈都尉に任命された。同年の赤壁の戦いにも従軍し、さらに周瑜が荊州南郡を攻撃するとこれにも従軍した。夷陵を占領した甘寧の部隊が敵軍に包囲されると、周瑜が諸将を率いて甘寧を救出に行く間、本陣を守った。これらの功により承烈校尉に昇進した。
建安19年(214年)、呂蒙と共に皖城を攻め、盪寇中郎将に昇進し、沛国の相となった。
建安20年(215年)、孫権は劉備に荊州返還を求めたが、劉備は応じず、呂蒙らと共に荊南三郡(長沙郡・桂陽郡・零陵郡)を攻めた。
合肥の戦いにおいて凌統は右部督となり、張遼の奇襲により絶体絶命となった孫権を撤退させるため、腹心の部下300人を率いて奮戦した。孫権が退却に成功したのを見届けると、凌統は再び戦場に戻って戦い敵兵数十人を斬った。退却しようとしたときには橋が壊されていたため、鎧を着たまま泳いで帰還した。孫権は、全身に傷を負って瀕死の状態であった凌統を手厚く看護させた。凌統は部下が全員戻っていないことに落涙した。しかし、孫権は自らの袖で涙を拭い「公績(凌統)、死んだ者はもう戻ってこない。だが、私にはまだあなたがいる。それで十分だ」と慰めた。この功により偏将軍に昇進し、以前の倍の兵を与えられた。
このころの呉は常に人口不足で苦しんでいたという。凌統は孫権に「東の山岳地帯には勇猛な人材が多く、威恩をもって味方にすることができる」と進言し、山越の平定・徴兵を申し出た。
役目を終えて任地を離れようとしている矢先に病死した。孫権はこれを聞いて大いに悲しみ、張承に銘誄を作らせた。
配下の兵は駱統が引き継いだ[1]。家臣が病となった際、孫権が最も気遣ったのは呂蒙・凌統だったという[2]。
没年について
『三国志』呉志 凌統伝 には、凌統は49歳で病死したとあり、これに従えば没年は嘉禾6年(237年)ということになる。
しかし、『三国志』呉志 駱統伝 には、凌統の没後、配下の兵を駱統が引き継いだとあり、また、駱統の没年は黄武7年(228年)であるので、この場合だと凌統は40歳前後までには死んでいたこととなり、両伝の記述に矛盾が生じている。
『三国志』には建安20年(215年)以降の凌統に関する記述がなく、隋末に編纂された『北堂書鈔』巻133服飾部(牀15)は、『呉志』(『三国志』呉志)を引用し、「凌統が病気で亡くなった。時に29歳であった」とし、『永楽大典』にも同じ文章がある。唐代に書かれた『建康実録』には、凌統は建安22年(217年)に29歳で死去したと記されている。 さらに『三国志』の注釈本である盧弼『三国志集解』、梁章巨『三国志旁証』のいずれも、凌統の没年を29歳が正しいと注記している。
したがって、現行の『三国志』の「四十九」は「二十九」の誤りであり実際の没年は建安22年(217年)と考えられる。
人物
賢に親しみ士に接し、財を軽んじ義を重んじ、国士の風を有していた。精鋭1万人余りを配下に得た後で故郷を通りかかった時にも、役人に対し恭しく礼を尽くし、古馴染みにも親しんでいたという。
平素から優れた人物を愛し、また慕われていた。後に左将軍となった留賛は、凌統の推挙により用いられた人物である。「凌統に勝る」と言われ推挙された同郷の盛暹に対しても、全くわだかまりを持たなかった。
父の仇である甘寧を恨んでおり、復讐しないよう孫権から釘を差されていた。
ある宴会で凌統が剣舞を舞うと、甘寧はそれに応じた。これ見て危惧した呂蒙は二人の間に入り、事を起こさないように振る舞った。これを聞いた孫権は、すぐに甘寧を半洲へ移した。
一族
凌統の父の凌操は孫策・孫権に仕えた。男伊達に富んで剛毅果断な人物であり、武勇に秀でていたという。孫策が兵を興すと自身もそれに従い、常に呉軍の先鋒を任された。
凌統の子2人は幼かったため、孫権は2人を宮内で養い、自分の子と同じように愛した。凌烈が成長し、凌統の生前の功績が評価され亭侯に封じられると、駱統から父の兵を返された。だが、後に凌烈は罪を犯し爵位を取り上げられたため、弟の凌封が後を継いだ。
三国志演義
小説『三国志演義』においても甘寧との確執が描かれている。
216年に曹操が40万で濡須口にやってきた際、張昭が「出鼻をくじけ」と言うと凌統が進み出て「兵3000をお与え下さい」と言った。すると甘寧が「俺なら100騎で足りる」と言い、2人が孫権の面前で言い争いを始めたので、孫権は「敵を軽んじてはならぬ。まず凌統が行け」と命令した。
凌統は攻めてきた張遼と一騎打ちに及び、五十合に及んでも勝負がつかなかった。孫権は呂蒙に命じて帰ってきた凌統を迎えた。
翌日、凌統は再び張遼との一騎打ちを望んだが、飛び出してきた楽進と一騎討ちとなり、五十合の討ち合いを展開した。曹操も見に来て、曹休に命じて張遼の後ろからこっそり凌統の馬を射させた。凌統は曹休の矢を受けて落馬すると、これを見た甘寧が弓矢で楽進を撃退した。窮地を救われた凌統はそれを契機に恨みを水に流して甘寧と固い親交を結んでいる。
夷陵の戦いでは孫権は韓当を大将、周泰を副将、潘璋を先手、凌統を後備、甘寧を援軍に命じ10万で蜀軍を防ぐ。
参考文献
脚注
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