英国、ペリクレス、ジャーナリズムとは? わかりやすく解説

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英国、ペリクレス、ジャーナリズム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 17:33 UTC 版)

ウォルター・サヴェージ・ランダー」の記事における「英国、ペリクレス、ジャーナリズム」の解説

ランダー60歳のときルッカ行き、そこで『ペリクレスアスパシア』(Pericles and Aspasia)を完成させ、9月には単身英国帰国している。彼に英国での資産から年600ポンド収入があったが、イタリア離れるときに妻に400ポンド分けることにし、フィエーゾレ邸宅農地息子アーノルド譲渡した結果収入は年200ポンドとなり、経済的苦境に立たされた。3か月間、スランベドルでアブレットと暮らし、冬をクリフトン英語版)で過ごし、後にアブレットのところに戻ったその頃、アブレットはランダーに「文学時間」(Literary Hours)に寄稿するように勧めその本翌年出版された。 『ペリクレスアスパシア』は、後に彼の作品の中で最も評価されたものの一つとなったが、これが出版されたのが1836年3月のことである。この作品は、『空想談話』と同様の形式取りつつ、クレオン宛てた一連の手紙述べられているアスパシアペロポネソス戦争中に死んだペリクレスロマンス描いたのである。この作品は、ランダー作品の中では最も楽しめるものの一つであり、現代批評家からは彼の作品紹介する上で最もよいものとされている。あるとき、ランダー身分隠してクリフトン旅行したことがあるが、彼が同道者と話しているのを旅行中のジョン・スターリング(英語版)が聞いていて、その奇妙で逆説的な会話がまるでランダーの『空想談話のようだったとしている。ランダー自分居所伏せていたが、後にスターリング面識得ている。 同じく1836年には、彼のシェイクスピア』(Shakespeare)の論評をして以来友人になり、後にランダー伝記書くことになるジョン・フォースター(英語版)に面会したその後子供会いたさにドイツハイデルベルク行ったが、失望する結果になっているエルドン卿とエスコンベとの対話を含む空想談話書いた女性友人エルドン80歳を越えているとして非難加えてきたときには、これに「悪魔はもっと年を取っているものだ」と昂然返したペリクレスのほかに、『保守党員からの手紙』(Letter from a Conservative)、『風刺家への風刺』(A Satire on Satirists)を含むいくつかの著書発表したが、これは、サウジー、若いアラビアダス、そしてアイルランド聖職者対す風刺である『テリー・ホーガン』(Terry Hogan)をワーズワース正しく評価しなかったことへの批判を含むものであるランダーは再び冬をクリフトン過ごしサウジー訪ねてきた。アイアンシーはブリストルにいた可能性があるが、確かなことではなく1837年オーストリアに赴き、そこで数年暮らしている。クリフトン離れた彼は旅を続けプリマスにおいてチャールズ・アーミテージ・ブラウン(英語版)を訪ねている。ジョン・ケニョン(英語版)やウィリアム・フランシス・パトリック・ネイピア(英語版)らとも友好関係築いた。その年の終わりに、ランダーは、劇詩に関する研究珠玉小品から5点収めたクリュタイムネストラの死』(Death of Clytemnestra)と『五部作』(The Pentalogia)を発表した後者が『五日物語』として出版されることになるものである金銭的な成功こそ得られなかったものの、ケニョン、ジュリアス・ハレ、クラブ・ロビンソンら友人からは多大な賞賛を受け、エリザベス・バレット・ブラウニングは「ページをめくることを忘れるほど甘美と言い、レイ・ハントはこれをランダー代表作だと評した1838年春、ランダーバース居住しながら3つの戯曲、『ハンガリーアンドレア』(Andrea of Hungary)、『ナポリジョヴァンナ』(Giovanna of Naples)、『フラ・ルパート』(Fra Rupert)を書いた。これらは3部作体裁取り1つ目の戯曲でフラ・ルパートがジョヴァンナの夫アンドレア死なせようともくろみ2つの目でジョヴァンナ嫌疑かけられる疑いが晴らされ、3つ目でフラ・ルパートの犯行であることが明らかにされる。ジョージ・セインツベリー(英語版)は、この3作を対話劇の形に投影した歴史小説であると評した1839年ランダーはこれらの戯曲発表しようとしたが、このことをめぐってベントレーディケンズフォースターの間で論争起こり延期余儀なくされた。「詩の形をした対話」というべきこれら戯曲も、大衆人気獲得するには至らなかったものの、その多く彼の個人的な友人のものではあるが、暖かい称賛を得ることはできた。サウジー1839年ランダー宛てた手紙書いたとき、精神病みかけていたが、ほかの誰についても語れなくなってもなお、ランダーの名を呼び続けたランダーは再び国内放浪し、しばしばロンドン訪れ、そこではフィレンツェ知り合いになっていたマルグリット・ガーディナーと過ごすのを常とした。ペインター夫人とその娘ローズ・ペインターはバースにおり、ローズ宛てたランダーの手紙や詩は彼の傑作に列せられている。ローズは後にコーンウォール地方リストーメル(英語版)のチャールズ・グレイヴズ・ソウル(英語版)と結婚したチャールズ・ディケンズとも彼は面会し年齢差にもかからず一緒に過ごすことを好んだ。彼はディケンズ作品を非常に高く買っており、特にネル・トレント(『骨董屋』)に感銘受けたディケンズ親しみ込めてランダー自作の『荒涼館』の登場人物ローレンス・ボイソーンとして登場させている。 ランダーディケンズ次男ウォルター・ランダー・ディケンズ(英語版)の代父にもなっている。また、彼はロバート・ブラウニング紹介されブラウニングランダー自作1部贈呈した1842年ランダー子息アーノルド訪問を受け、その年のうちにカトゥルスについての長編エッセイ書いて季刊外国評論英語版)誌の編集人であったフォースター送り、さらにテオクリトスの『小情景詩』について追加した。このエッセイ対しスーパーは「ランダー作品の中でこれほどハチャメチャなものはあるまい」と批判している。 1843年ランダー友人サウジーの死を悼み、イグザミナー(英語版)誌に詩を送った二人の子ウォルタージュリア訪問受けた後には、ジュリア宛てた詩をブラックウッヅマガジン(英語版)に発表している。 By that dejected city, Arno runs, Where Ugolino claspt his famisht sons. There wert thou born, my Julia! there thine eyes Return'd as bright a blue to vernal skies. And thence, my little wanderer! when the Spring Advanced, thee, too, the hours on silent wing Brought, while anemonies were quivering round, And pointed tulips pierced the purple ground, Where stood fair Florence: there thy voice first blest My ear, and sank like balm into my breast: For many griefs had wounded it, and more Thy little hands could lighten were in store. But why revert to griefs? Thy sculptured brow Dispels from mine its darkest cloud even now. And all that Rumour has announced of grace! I urge, with fevered breast, the four-month day. O! could I sleep to wake again in May." (大意)かのウゴリーノが自らの子を喰らった町、アルノ川流れ望みなきその町に、ジュリアよ、おまえは生まれ春の空のように青いその目を輝かせた。そして、おまえはさまよい時間が羽を生やして飛び去り、春が過ぎようとするとき、アネモネ風に揺れ紫色大地とがったチューリップ刺さったフィレンツェいたった。おまえの声が初めて私の耳に届いたとき、芳香のようにそれは胸の底に沈んだ多く悲しみが傷をもたらしたけれども、たとえそれがどんなものでも、おまえの小さな手がそれらを明るいものに変えてくれる。悲しみに戻ることはもうない今でも、おまえの額が私の方に向いてくれさえすれば、私の心から暗雲消え去る。話に聞くだけでも清々しい心地だ。私は幼子帰ったように胸を熱くし、そして、眠り5月にまた目覚めよう翌年、娘ジュリア彼のもとを再訪し、ポメロ名付けた置いていった。ポメロ彼にとって長きわたってよき友となった。同じ年、モーニングクロニクル(英語版)紙にブラウニング宛てた詩を発表したフォースターディケンズは、ランダー誕生日と同じ日に起こったチャールズ1世処刑祝いバース訪問することを習慣にしていた。フォースターは、1846年ランダー戯曲と『全集』を公刊するのに助力したフォースターはイグザミナーに勤務しランダー政治その他の話題についてしばしば寄稿したフォースターが数篇のラテン詩収録することに難色示したため、ランダーはこれら重要作品別に『詩と金言』(Poemata et Inscriptiones)として1847年発表した。 この詩集は、田園詩風刺詩哀歌抒情詩からなる前の2巻詩集での主要作品大幅な追加施したのである。1篇はジョージ4世について歌ったもので、彼のキャロライン・オブ・ブランズウィック対す扱いランダー不興買っていたのであるHeic jacet, Qui ubique et semper jacebat Familiae pessimae homo pessimus Georgius Britanniae Rex ejus nominis IV Arca ut decet ampla et opipare ornata est Continet enim omnes Nerones. (ここにいつも四方八方打ちまくっている奴がいる。最悪家系にあって最悪の男。英国という国のジョージ4世という奴だ。まるで暴君ネロがやったように馬鹿でかくてゴテゴテ飾り立てた住まいお似合いの奴だ) ランダーハノーヴァー朝対す嫌悪は、その多く発表されないまま終わるが、滑稽詩の中で示されていることは有名である。 George the First was always reckoned Vile, but viler George the Second. And what mortal ever heard Any good of George the Third, But when from earth the Fourth descended God be praised the Georges ended大意ジョージ1世はいつも酷い奴呼ばわりされるが、ジョージ2世はもっと酷い。ジョージ3世についてどんないい話聞いても、4世地上から落っこちたというなら、それこそ神に讃えあれ。ジョージどもがいなくなったのだから。 1846年には、『ヘレニクス』(Hellenics)も出版した。これは、同じ題で全集収められラテン語田園詩英訳付したものを収録している。同じ年、エリザ・リン(英語版)に初め会っている。彼女はリン・リントンとして傑出した小説家ジャーナリストになる。また、バースにおけるランダー友人にもなった。70歳過ぎたランダーは、多く古い友人失い自身病気がちになっていた。グレイヴス・ソウルと過ごしていたときのことだが、エクスター訪れ降られ地元弁護士ジェームズ・ジャーウッド宅の軒先雨宿りした。ジャーウッドはランダー浮浪者間違え追い散らした。この弁護士に対すランダー悪態ぶちまけた手紙堂々たるのである1849年74歳誕生日ランダー自分自身墓碑書いている。 I strove with none, for none was worth my strife.Nature I loved, and, next to nature, Art; I warm'd both hands before the fire of Life;It sinks, and I am ready to depart. (大意)私は誰とも争わなかった。争うほどの相手がいなかったから。自然を何より愛し次に芸術愛した人生という火に両手かざして温めた。それが消えて、私は門出のときを迎える。 しかし、ランダーその後活動的に社会生活送ったアルフレッド・テニスン1850年ランダー面会し、ほかの客が階段から落ちて腕を折ったときの彼の様子を「ランダー老人はまるで何事もなかつたかのようにカトゥルスその他のラテン詩人について雄弁話していた」と記録している。 トーマス・カーライルも彼を訪問し、「彼は実際仲間内引っかき回している。怒気はらんでいて鋭く、しかし寛大正直な誇り高さを持った、たいへん威厳のある老人である」と書いている。 1851年ランダーは『英国内外ローマカトリック教会』(Popery, British and Foreign)というパンフレット枢機卿ニコラス・ワイズマン(英語版)に宛てた手紙の中で教会改革への関心示したその他に多数論説をイグザミナー、フレイザーズマガジン(英語版)等の雑誌発表している。最愛のアイアンシーの訃報接し、その年のうちに彼女に捧げる詩を書いたSophia! whom I seldom call'd by name, And trembled when I wrote it; O my friend Severed so long from me! one morn I dreamt That we were walking hand in hand thro' paths Slippery with sunshine: after many years Had flown away, and seas and realms been crost, And much (alas how much!) by both endured We joined our hands together and told our tale. And now thy hand hath slipt away from mine, And the cold marble cramps it; I dream one, Dost thou dream too? and are our dreams the same? (大意ソフィアよ、わたしがその名前で呼ぶことはめったになかったが、その名前を書くとき、私は打ち震えた。もう長いこと別れ別れだったわが友。陽の光の中、足を滑らせないように君と互いに手をとって小道を歩く、そういう夢を見た長い年月流れ、海と陸が混じり合った。手をつなぎ、語り合うそういうことどれほど続けられたろう。そして今、君の手は私の手から滑り落ち、冷たい繋がれてしまった。私は夢を見る。君も見るだろうか。その夢は私の夢同じだろうか。 1853年ランダーは『ギリシア人ローマ人空想談話』(Imaginary Conversations of the Greeks and Romans)をまとめて発表しディケンズ献呈した。ディケンズはその年のうちに出版した荒涼館』において、ランダーの驚くほどの現実主義的性格登場人物ボイソーンとして具現化している。ランダーまた、老木のなしたる最後の果実』(The Last Fruit off an Old Tree)も発表した。これには、新し談話批評的論争的な内容エッセイ多様な特長備えた様々な種類エピグラム抒情詩機会詩英語版)が収録され、「ベアトリーチェ・チェンチ悲劇五景(Five Scenes on the martyrdom of Beatrice Cenci)」で締めくくられている。スウィンバーンはこの著作について、「気高く英雄的なペーソス鋭く優しい、そして激しく熱烈な洞察において劇的霊的真実存分に示した著者畢生一品」と評している。 このころランダー自身外交問題について、とりわけロシアにおける圧政ルイ・ナポレオンについて関心寄せていた。1854年の末、最愛の妹エリザベス失い、彼は悲痛な追悼文書いている。 "Sharp crocus wakes the froward year; In their old haunts birds reappear; From yonder elm, yet black with rain, The cushat looks deep down for grain Thrown on the gravel-walk; here comes The redbreast to the sill for crumbs. Fly off! fly off! I can not wait To welcome ye, as she of late. The earliest of my friends is gone. Alas! almost my only one! The few as dear, long wafted o'er, Await me on a sunnier shore." (大意鮮やかなクロッカスねじけたその年、たちは古巣に戻る。向こうから、まだ曇ったそこへ。砂利道落ちた麦粒を見下ろし、こちらではコマドリ窓枠落ちたパンくず狙っている。飛んでいってしまえ。おまえたち迎え入れる気はない。最近の彼女がそうだったように。私の最も古いその友は逝ってしまった。私にとってはほとんど無二の存在だったというのに。永久の別れになった愛しい人よ、陽のあたる岸で私を待ってておくれ1856年ランダー81歳の年には、『アントニウスとオクタウィウス――研究のための場面』(Antony and Octavius: Scenes for the Study)、対談形式12連作詩、『エマーソンの手紙』(Letter to Emerson)、『空想談話』の続編発表した

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