英国、ペリクレス、ジャーナリズム
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「ウォルター・サヴェージ・ランダー」の記事における「英国、ペリクレス、ジャーナリズム」の解説
ランダーは60歳のときルッカに行き、そこで『ペリクレスとアスパシア』(Pericles and Aspasia)を完成させ、9月には単身英国に帰国している。彼には英国での資産から年600ポンドの収入があったが、イタリアを離れるときに妻に400ポンド分けることにし、フィエーゾレの邸宅と農地を息子アーノルドに譲渡した。結果、収入は年200ポンドとなり、経済的苦境に立たされた。3か月間、スランベドルでアブレットと暮らし、冬をクリフトン(英語版)で過ごし、後にアブレットのところに戻った。その頃、アブレットはランダーに「文学の時間」(Literary Hours)に寄稿するように勧め、その本は翌年出版された。 『ペリクレスとアスパシア』は、後に彼の作品の中で最も評価されたものの一つとなったが、これが出版されたのが1836年3月のことである。この作品は、『空想談話』と同様の形式を取りつつ、クレオンに宛てた一連の手紙で述べられているアスパシアとペロポネソス戦争中に死んだペリクレスのロマンスを描いたものである。この作品は、ランダーの作品の中では最も楽しめるものの一つであり、現代の批評家からは彼の作品を紹介する上で最もよいものとされている。あるとき、ランダーは身分を隠してクリフトンを旅行したことがあるが、彼が同道者と話しているのを旅行中のジョン・スターリング(英語版)が聞いていて、その奇妙で逆説的な会話がまるでランダーの『空想談話』のようだったとしている。ランダーは自分の居所を伏せていたが、後にスターリングと面識を得ている。 同じく1836年には、彼の『シェイクスピア』(Shakespeare)の論評をして以来友人になり、後にランダーの伝記を書くことになるジョン・フォースター(英語版)に面会した。その後、子供に会いたさにドイツのハイデルベルクに行ったが、失望する結果になっている。エルドン卿とエスコンベとの対話を含む空想談話を書いた。女性の友人がエルドンが80歳を越えているとして非難を加えてきたときには、これに「悪魔はもっと年を取っているものだ」と昂然と返した。ペリクレスのほかに、『保守党員からの手紙』(Letter from a Conservative)、『風刺家への風刺』(A Satire on Satirists)を含むいくつかの著書を発表したが、これは、サウジー、若いアラビアダス、そしてアイルランドの聖職者に対する風刺である『テリー・ホーガン』(Terry Hogan)をワーズワースが正しく評価しなかったことへの批判を含むものである。ランダーは再び冬をクリフトンで過ごし、サウジーも訪ねてきた。アイアンシーはブリストルにいた可能性があるが、確かなことではなく、1837年にオーストリアに赴き、そこで数年暮らしている。クリフトンを離れた彼は旅を続け、プリマスにおいてチャールズ・アーミテージ・ブラウン(英語版)を訪ねている。ジョン・ケニョン(英語版)やウィリアム・フランシス・パトリック・ネイピア(英語版)らとも友好関係を築いた。その年の終わりに、ランダーは、劇詩に関する研究の珠玉の小品から5点を収めた『クリュタイムネストラの死』(Death of Clytemnestra)と『五部作』(The Pentalogia)を発表した。後者が『五日物語』として出版されることになるものである。 金銭的な成功こそ得られなかったものの、ケニョン、ジュリアス・ハレ、クラブ・ロビンソンら友人からは多大な賞賛を受け、エリザベス・バレット・ブラウニングは「ページをめくることを忘れるほど甘美」と言い、レイ・ハントはこれをランダーの代表作だと評した。1838年春、ランダーはバースに居住しながら3つの戯曲、『ハンガリーのアンドレア』(Andrea of Hungary)、『ナポリのジョヴァンナ』(Giovanna of Naples)、『フラ・ルパート』(Fra Rupert)を書いた。これらは3部作の体裁を取り、1つ目の戯曲でフラ・ルパートがジョヴァンナの夫アンドレアを死なせようともくろみ、2つの目でジョヴァンナに嫌疑がかけられるも疑いが晴らされ、3つ目でフラ・ルパートの犯行であることが明らかにされる。ジョージ・セインツベリー(英語版)は、この3作を対話劇の形に投影した歴史小説であると評した。1839年、ランダーはこれらの戯曲を発表しようとしたが、このことをめぐってベントレー、ディケンズ、フォースターの間で論争が起こり、延期を余儀なくされた。「詩の形をした対話」というべきこれら戯曲も、大衆の人気を獲得するには至らなかったものの、その多くが彼の個人的な友人のものではあるが、暖かい称賛を得ることはできた。サウジーは1839年にランダーに宛てた手紙を書いたとき、精神を病みかけていたが、ほかの誰についても語れなくなってもなお、ランダーの名を呼び続けた。ランダーは再び国内を放浪し、しばしばロンドンを訪れ、そこではフィレンツェで知り合いになっていたマルグリット・ガーディナーと過ごすのを常とした。ペインター夫人とその娘ローズ・ペインターはバースにおり、ローズに宛てたランダーの手紙や詩は彼の傑作に列せられている。ローズは後にコーンウォール地方リストーメル(英語版)のチャールズ・グレイヴズ・ソウル(英語版)と結婚した。チャールズ・ディケンズとも彼は面会し、年齢差にもかからず、一緒に過ごすことを好んだ。彼はディケンズの作品を非常に高く買っており、特にネル・トレント(『骨董屋』)に感銘を受けた。ディケンズは親しみを込めて、ランダーを自作の『荒涼館』の登場人物ローレンス・ボイソーンとして登場させている。 ランダーはディケンズの次男ウォルター・ランダー・ディケンズ(英語版)の代父にもなっている。また、彼はロバート・ブラウニングに紹介され、ブラウニングはランダーに自作を1部贈呈した。 1842年、ランダーは子息アーノルドの訪問を受け、その年のうちにカトゥルスについての長編のエッセイを書いて季刊外国評論(英語版)誌の編集人であったフォースターに送り、さらにテオクリトスの『小情景詩』について追加した。このエッセイに対し、スーパーは「ランダーの作品の中でこれほどハチャメチャなものはあるまい」と批判している。 1843年、ランダーは友人サウジーの死を悼み、イグザミナー(英語版)誌に詩を送った。二人の子供ウォルターとジュリアの訪問を受けた後には、ジュリアに宛てた詩をブラックウッヅマガジン(英語版)に発表している。 By that dejected city, Arno runs, Where Ugolino claspt his famisht sons. There wert thou born, my Julia! there thine eyes Return'd as bright a blue to vernal skies. And thence, my little wanderer! when the Spring Advanced, thee, too, the hours on silent wing Brought, while anemonies were quivering round, And pointed tulips pierced the purple ground, Where stood fair Florence: there thy voice first blest My ear, and sank like balm into my breast: For many griefs had wounded it, and more Thy little hands could lighten were in store. But why revert to griefs? Thy sculptured brow Dispels from mine its darkest cloud even now. And all that Rumour has announced of grace! I urge, with fevered breast, the four-month day. O! could I sleep to wake again in May." (大意)かのウゴリーノが自らの子を喰らった町、アルノ川が流れる望みなきその町に、ジュリアよ、おまえは生まれ、春の空のように青いその目を輝かせた。そして、おまえはさまよい、時間が羽を生やして飛び去り、春が過ぎようとするとき、アネモネが風に揺れ、紫色の大地にとがったチューリップが刺さったフィレンツェにいたった。おまえの声が初めて私の耳に届いたとき、芳香のようにそれは胸の底に沈んだ。多くの悲しみが傷をもたらしたけれども、たとえそれがどんなものでも、おまえの小さな手がそれらを明るいものに変えてくれる。悲しみに戻ることはもうない。今でも、おまえの額が私の方に向いてくれさえすれば、私の心から暗雲は消え去る。話に聞くだけでも清々しい心地だ。私は幼子に帰ったように胸を熱くし、そして、眠り、5月にまた目覚めよう。 翌年、娘ジュリアが彼のもとを再訪し、ポメロと名付けた犬を置いていった。ポメロは彼にとって長きにわたってよき友となった。同じ年、モーニングクロニクル(英語版)紙にブラウニングに宛てた詩を発表した。 フォースターとディケンズは、ランダーの誕生日と同じ日に起こったチャールズ1世の処刑を祝いにバースを訪問することを習慣にしていた。フォースターは、1846年にランダーが戯曲と『全集』を公刊するのに助力した。フォースターはイグザミナーに勤務し、ランダーは政治やその他の話題についてしばしば寄稿した。フォースターが数篇のラテン詩を収録することに難色を示したため、ランダーはこれら重要作品を別に『詩と金言』(Poemata et Inscriptiones)として1847年に発表した。 この詩集は、田園詩、風刺詩、哀歌、抒情詩からなる前の2巻の詩集での主要作品に大幅な追加を施したものである。1篇はジョージ4世について歌ったもので、彼のキャロライン・オブ・ブランズウィックに対する扱いがランダーの不興を買っていたのである。 Heic jacet, Qui ubique et semper jacebat Familiae pessimae homo pessimus Georgius Britanniae Rex ejus nominis IV Arca ut decet ampla et opipare ornata est Continet enim omnes Nerones. (ここにいつも四方八方を打ちまくっている奴がいる。最悪の家系にあって最悪の男。英国という国のジョージ4世という奴だ。まるで暴君ネロがやったように馬鹿でかくてゴテゴテに飾り立てた住まいがお似合いの奴だ) ランダーのハノーヴァー朝に対する嫌悪は、その多くが発表されないまま終わるが、滑稽詩の中で示されていることは有名である。 George the First was always reckoned Vile, but viler George the Second. And what mortal ever heard Any good of George the Third, But when from earth the Fourth descended God be praised the Georges ended (大意)ジョージ1世はいつも酷い奴呼ばわりされるが、ジョージ2世はもっと酷い。ジョージ3世についてどんないい話を聞いても、4世が地上から落っこちたというなら、それこそ神に讃えあれ。ジョージどもがいなくなったのだから。 1846年には、『ヘレニクス』(Hellenics)も出版した。これは、同じ題で全集に収められたラテン語の田園詩に英訳を付したものを収録している。同じ年、エリザ・リン(英語版)に初めて会っている。彼女はリン・リントンとして傑出した小説家・ジャーナリストになる。また、バースにおけるランダーの友人にもなった。70歳を過ぎたランダーは、多くの古い友人を失い、自身も病気がちになっていた。グレイヴス・ソウルと過ごしていたときのことだが、エクスターを訪れ、雨に降られて地元の弁護士ジェームズ・ジャーウッド宅の軒先に雨宿りした。ジャーウッドはランダーを浮浪者と間違え、追い散らした。この弁護士に対するランダーの悪態をぶちまけた手紙は堂々たるものである。1849年、74歳の誕生日にランダーは自分自身の墓碑を書いている。 I strove with none, for none was worth my strife.Nature I loved, and, next to nature, Art; I warm'd both hands before the fire of Life;It sinks, and I am ready to depart. (大意)私は誰とも争わなかった。争うほどの相手がいなかったから。自然を何より愛し、次に芸術を愛した。人生という火に両手をかざして温めた。それが消えて、私は門出のときを迎える。 しかし、ランダーはその後も活動的に社会生活を送った。アルフレッド・テニスンは1850年にランダーに面会し、ほかの客が階段から落ちて腕を折ったときの彼の様子を「ランダー老人はまるで何事もなかつたかのように、カトゥルスその他のラテン詩人について雄弁に話していた」と記録している。 トーマス・カーライルも彼を訪問し、「彼は実際、仲間内を引っかき回している。怒気をはらんでいて鋭く、しかし寛大で正直な誇り高さを持った、たいへん威厳のある老人である」と書いている。 1851年、ランダーは『英国内外のローマカトリック教会』(Popery, British and Foreign)というパンフレットと枢機卿ニコラス・ワイズマン(英語版)に宛てた手紙の中で教会改革への関心を示した。その他にも多数の論説をイグザミナー、フレイザーズマガジン(英語版)等の雑誌に発表している。最愛のアイアンシーの訃報に接し、その年のうちに彼女に捧げる詩を書いた。 Sophia! whom I seldom call'd by name, And trembled when I wrote it; O my friend Severed so long from me! one morn I dreamt That we were walking hand in hand thro' paths Slippery with sunshine: after many years Had flown away, and seas and realms been crost, And much (alas how much!) by both endured We joined our hands together and told our tale. And now thy hand hath slipt away from mine, And the cold marble cramps it; I dream one, Dost thou dream too? and are our dreams the same? (大意)ソフィアよ、わたしがその名前で呼ぶことはめったになかったが、その名前を書くとき、私は打ち震えた。もう長いこと別れ別れだったわが友。陽の光の中、足を滑らせないように君と互いに手をとって小道を歩く、そういう夢を見た。長い年月が流れ、海と陸が混じり合った。手をつなぎ、語り合う、そういうことがどれほど続けられたろう。そして今、君の手は私の手から滑り落ち、冷たい棺に繋がれてしまった。私は夢を見る。君も見るだろうか。その夢は私の夢と同じだろうか。 1853年、ランダーは『ギリシア人とローマ人の空想談話』(Imaginary Conversations of the Greeks and Romans)をまとめて発表し、ディケンズに献呈した。ディケンズはその年のうちに出版した『荒涼館』において、ランダーの驚くほどの現実主義的な性格を登場人物ボイソーンとして具現化している。ランダーはまた、『老木のなしたる最後の果実』(The Last Fruit off an Old Tree)も発表した。これには、新しい談話、批評的・論争的な内容のエッセイ、多様な特長を備えた様々な種類のエピグラム、抒情詩、機会詩(英語版)が収録され、「ベアトリーチェ・チェンチの悲劇五景(Five Scenes on the martyrdom of Beatrice Cenci)」で締めくくられている。スウィンバーンはこの著作について、「気高く英雄的なペーソス、鋭く優しい、そして激しく熱烈な洞察において劇的・霊的真実を存分に示した著者畢生の一品」と評している。 このころ、ランダー自身は外交問題について、とりわけロシアにおける圧政とルイ・ナポレオンについて関心を寄せていた。1854年の末、最愛の妹エリザベスを失い、彼は悲痛な追悼文を書いている。 "Sharp crocus wakes the froward year; In their old haunts birds reappear; From yonder elm, yet black with rain, The cushat looks deep down for grain Thrown on the gravel-walk; here comes The redbreast to the sill for crumbs. Fly off! fly off! I can not wait To welcome ye, as she of late. The earliest of my friends is gone. Alas! almost my only one! The few as dear, long wafted o'er, Await me on a sunnier shore." (大意)鮮やかなクロッカスがねじけたその年、鳥たちは古巣に戻る。向こうの枝から、まだ雨で曇ったそこへ。砂利道に落ちた麦粒を鳩は見下ろし、こちらではコマドリが窓枠に落ちたパンくずを狙っている。飛んでいってしまえ。おまえたちを迎え入れる気はない。最近の彼女がそうだったように。私の最も古いその友は逝ってしまった。私にとってはほとんど無二の存在だったというのに。永久の別れになった愛しい人よ、陽のあたる岸で私を待っていておくれ。 1856年、ランダー81歳の年には、『アントニウスとオクタウィウス――研究のための場面』(Antony and Octavius: Scenes for the Study)、対談形式の12の連作詩、『エマーソンへの手紙』(Letter to Emerson)、『空想談話』の続編を発表した。
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