英国への留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 03:35 UTC 版)
御小姓組番頭であった元治2年(1865年)1月、藩命により薩摩藩第一次英国留学生の一人に加えられる。村橋は以前から留学を夢見ていたわけでなく、十分な心の準備もなかったが、当初命じられた同僚の島津織之助、高橋要が固辞したため補充として選ばれた。その際の変名は「橋直輔」。命じられた翌日に鹿児島を出発し串木野郷(現・いちき串木野市)羽島浦に滞留、3月、グラバー商会所有の「オースタライエン号」に乗船し密出国する。香港・シンガポール・スエズを経て、5月にロンドンに到着。最初は海軍学、後に陸軍学を専門とする。8月にはロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの法文学部に入学する。 しかし西洋文明に対するカルチャーショックからノイローゼとなり、慶応2年(1866年)5月、わずか1年で、外交使節として留学生とともにロンドンへ行った松木弘庵とともに帰国した。なお、帰途、上海から海援隊・陸奥陽之助と同船する。 時期不明だが、弟・宗之丞に家督を譲る(宗之丞は戊辰戦争で戦死)。
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