秀頼による造営から寛文2年(1662年)の損壊まで(2代目大仏・2代目大仏殿)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)
「京の大仏」の記事における「秀頼による造営から寛文2年(1662年)の損壊まで(2代目大仏・2代目大仏殿)」の解説
慶長13年(1608年)10月には徳川家康の勧めもあり、豊臣秀頼により再び銅製大仏および大仏殿の再建が企図された。住友財閥の業祖とされる蘇我理右衛門は「南蛮吹き」という金銀の精錬技術を確立したことで知られるが、銅山経営や銅貿易も行っており、彼が大仏や梵鐘に使用する銅材の納入に大きく貢献したとされる。大仏殿の創建は慶長15年(1610年)から行われた。徳川家康も諸大名に負担その他を命じ、自身も米の供与を行い、大仏に貼られる金の板金は江戸で鋳造されている(当代記)。また大工・中井正清を派遣している。2代目大仏殿の指図(設計図)が中井家に伝来しており、発掘調査の成果等も合わせて、(初代大仏殿と異なり)2代目大仏殿はおおよその全貌の把握が可能である。また中井家の配下として活躍した平政隆が著した『愚子見記』にも2代目大仏及び大仏殿についての記述があり、2代目大仏の模式図も掲載されている。なお江戸中期の作と思われる『京都大仏殿絵図(東京国立博物館所蔵)』にも2代目大仏殿及び仁王門の断面図・立面図が記録されている。 2代目大仏殿と銅造の2代目大仏は慶長17年(1612年)に完成した。2代目大仏は銅造であるとするのが定説であるが、東大寺大仏のように全身純銅造であったのか、もしくは事故で未完成のまま焼失した従前の大仏の計画のように、銅造と木造の混構造であったのかは定かでない。2代目大仏殿の平面規模については、現存する指図(設計図)や『愚子見記』の記述によれば南北45間(約88m)・東西27間(約55m)・柱92本とされる。上記寸法は発掘調査による考古学的見地からも正しいと見なされているが、現在の奈良東大寺の大仏殿(約57m×約55m)を凌ぐ平面規模であった。 慶長19年(1614年)4月には、梵鐘も完成し、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ、落慶法要を行おうとしたところ、7月に徳川家康より梵鐘の銘文について「不吉な語句がある」との異議が唱えられ、法要中止の求めがあった。これが、豊臣家と徳川の争いに発展し、両大坂の陣を経て豊臣家の滅亡に繋がる、世に言う「方広寺鐘銘事件」である。大坂の陣の後も方広寺は残されたが、方広寺境内に組み込まれていた三十三間堂共々、妙法院の管理下に置かれた。妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)の妙法院門主常胤法親王の代からで、これは大坂の陣で豊臣氏が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である。三十三間堂については、現代に至るまで妙法院の所属(飛び地)となっている。なお「国家安康」の鐘について、江戸時代においては懲罰的措置として、鐘楼を撤去の上、地面に置かれ鳴らないようにされていたとの俗説があるが、それは誤りである。方広寺大仏殿は四方を回廊に囲まれていたが、鐘楼は南側の回廊外(現在の京都国立博物館 の噴水の近辺)にあった。このことは名所図会や、花洛一覧図などの江戸時代の方広寺境内を描いた絵図からも確認できる。「国家安康」の鐘が地面に置かれていたのは、明治時代の前半期のみで、これは明治新政府の廃仏毀釈の政策(恭明宮造立の為とも)により方広寺寺領の大半が没収され、没収地にあった鐘楼が取り壊され、残った方広寺寺領に鐘が移設された為である。その後しばらくは地面に置かれ、雨ざらしとなっていたが、明治17年(1884年)に鐘楼が再建され、今日に至っている。 大坂の陣ののち、しばらく2代目大仏は何事もなく平穏に存立し続けていたが、寛文2年(1662年)に地震が方広寺を襲う。5月1日(新暦では6月16日)に寛文近江・若狭地震が発生し、京都全域に大きな被害をもたらしたが、この地震で2代目大仏が損壊したとするのが通説である。2代目大仏から3代目大仏への建て替えの経緯については、何があったのかの記録史料が非常に混乱、錯綜しており、不明確な点が多い。大仏の損傷の程度について記した史料には、地震が原因とは明言していないが、以下がある。江戸の牢屋奉行で国学者でもある石出帯刀(常軒)は、地震から約2年後の寛文4年(1664年)3月に京都を訪問した折の日記に「仏は古はてて御くし落けに侍りけれは、あらためつくられけるか、新仏はいまた出来す、只堂のみ有」と記し、方広寺大仏は頭部が落下したので、建て替えられることになったとする(所歴日記)。浅井了意が著したとされる読み物『出来斎京土産』(主人公出来斎が京都の寺社、名所を巡る名所記)では「寛文の年にあたりて、仏の肩やぶれ裂けたりければ、是を補修すべき事はかなふまじき旨、鋳師仏工皆申すによって古仏は取りのけ、木像に作らせらる」という記述があり、大仏の肩から亀裂が入り、仏師が修復できないと回答をするほどの損傷であったので、建て替えられることになったとする。上述のように(損壊の部位や程度は諸説あるが)大仏は破損したため、取り壊しの上で、新しく木造で造り直されることになった(3代目大仏)。 浅井了意が著したとされる寛文近江・若狭地震のルポルタージュ的な書物(仮名草子)である『かなめいし』には、当該地震の際の方広寺の様子が描写されているが、それは以下の通りである。なお『かなめいし』は読み物として出版された書物であり、売上を伸ばすため実話に潤色した部分が多々あることが指摘されており、その点は留意が必要である。「当時、方広寺大仏及び大仏殿の工事が行われており、労働者達は大仏の頭部を取り外して、大仏の銅製の躯体を玄翁・金床をもってかち砕き、打ち壊していた。その際に地震の揺れが発生したため、労働者達は、大仏の罰が当たったものと考え、狼狽し、「我々は雇われて、監督者の命令で大仏の御体を打ち砕いているにすぎず、我々に非はない」として大仏に許しを請うた。彼らは大仏殿から逃げ出し(周囲の光景を見て)大仏の罰でなく地震であったと理解したという。(大仏殿修造并日用のもの、うろたへし事)」。『かなめいし』の記述(描写)について、一般には大仏の修繕工事をしていた際に地震が発生した場面と解釈されるが、工事内容について(曲解せず素直に原文を読むと労働者達が大仏を破壊していたようにしか読み取れないので)大仏の修繕ではなく破壊(取り壊し)をしていたとの見方もある。 先述のように2代目大仏は5月1日の寛文近江・若狭地震で損壊したというのが通説であるが、それ以前に大仏は既に何らかの理由で建て替えが決まっており、既存の大仏を取り壊す工事の最中に寛文近江・若狭地震が発生したとする異説もある。関東学院大学教授で仮名草子研究者の井上和人と、歴史学者で建築学者の丸山俊明は、上記の『かなめいし』で描かれている場面について、大仏建て替えのための、2代目大仏の取り壊し工事の場面であるとしている。両氏の説では、『出来斎京土産』の「寛文の年にあたりて、仏の肩やぶれ裂けたりければ、是を補修すべき事はかなふまじき旨、鋳師仏工皆申すによって古仏は取りのけ、木像に作らせらる」という記述を、5日1日以前の事と考える。理由は定かではないが、経年劣化等で大仏に亀裂が入り、仏師達が修繕できないというので、木造で大仏を再建することが決まり、2代目大仏を取り壊している最中に、5月1日の寛文近江・若狭地震を迎えたとする。井上は方広寺大仏の解体工事を行ったことで、仏の罰として5月の寛文近江・若狭地震を招いたとする風説が、京都民衆の間で広まっていたことを指摘しており、井上はその証左として『玉滴隠見』に「京都にて、彼大仏を崩して、銭に鋳させ候とて、町人どもに被仰付、入札に被成、其の落札の族、仏の金箔をこそげ落とし、御頭をば斧鉄を以て打ち砕く。其音地響して夥しかりつるか、若可様の義抔を、地神とがめたまひての事やらん」という記述があることを挙げている。なお上記説の欠点としては、時の妙法院門主尭恕法親王の日記との不整合があり、日記によれば地震から2年後の寛文4年(1664年)3月29日に武家(京都所司代か?)より大仏を鋳造(銅造)から木造に改めるよう命令があったとされ、それにより大仏の木造での再建が決まったとする。また「大仏殿修造并日用のもの、うろたへし事」の話自体の信憑性を疑問視し、5月1日段階で何らかの工事が方広寺で行われていたようではあることから、『かなめいし』の作者が「大仏の修繕工事中に地震が発生し、大仏の頭部が落下した」ないしは「大仏の頭部が落下したので、修繕工事を行っていた際に地震に遭遇した」事を潤色し、「工事のため大仏の頭部を人為的に取り外し、大仏躯体を打ち壊していた所に地震が発生し、労働者達が罰と勘違いして恐れおののいた」とドラマ仕立てな話に作り替えたとする見方もある。(補注:2代目大仏は銅造であるというのが定説であるが、先述のように全身純銅造か、頭部など一部を木造とした、銅造と木造の混構造であったかは定かではない。仮に後者の混構造で頭部が木造の場合に、頭部と胴体は別構造であるので、大仏躯体内部の工事の為に、大仏の頭部を人為的に取り外すことはさほど難しいことではない。) なお5月1日以前に2代目大仏に異常が生じていたことを示唆する史料には以下がある。『落穂雑談一言集』には寛文2年(1662年)3月24日に、方広寺大仏は地震のため七尺傾き、大仏の胎内に七寸角の材木を千本も立てて補修したとの記述がある。この記述について『大日本地震史料』では、3月に地震があったことを記録する史料は少ないので、5月1日の地震(寛文近江・若狭地震)と混同したものではないかとしている。仮に上記の『落穂雑談一言集』の記述が正しいとすれば、あまり他の史料では記録されることのなかった規模の小さな地震で、2代目大仏に異常が生じたことになり、巨大さゆえ耐震性に問題があったことになる。なお郷土史家の田中緑紅は、「3月に大仏に傾きが生じ、補正工事を行った」事は正ではないかとしている。 先述のように損壊の経緯や損壊の程度については諸説あるものの、2代目大仏は取り壊されることになった。それについて、豊臣氏の遺産である銅造の2代目大仏の存在を快く思わない江戸幕府が、修繕計画すら立てずに既存大仏の解体と木造での再建を決定し、それが実行され、大仏躯体の銅材は亀戸銭座に運び込まれ、寛永通宝(文銭)鋳造の原料に用いられたのだという風説が大衆に流布した。「大仏躯体の銅材を銭貨にする」という案は知恵伊豆とも称される松平信綱の発案によるもので、上記案は通貨量の不足を解消するための公益上必要な措置であると時の将軍徳川家綱に建議し、それが了承され実行されたのだとも噂された(新寛永(文銭)項目も参照)。大仏躯体の銅材は現存していないので、何らかの形で再利用されたとも思われるが、真相は不明である。ただし上記風説のうち、「松平信綱の建議による」という話については、彼が寛文2年(1662年)3月に死去しているので真実とは考えにくい。経済学者・貨幣史研究者の三上隆三は、「大仏躯体の銅材を銭貨にした」話については、真実であるとしている。ただし三上は、大仏躯体の銅材を貨幣鋳造の原料に再利用されたとしても、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかったとしており、寛永通宝(文銭)の原料は全て大仏躯体の銅材で賄われたとする風説は誤りとしている。日本銀行金融研究所は上記風説の真偽について、寛永通宝(文銭)の原材料の化学的な成分分析の結果、2代目大仏の鋳造がなされた秀頼期のものとは原材料の産出地が異なるとして、「たとえ鋳銭の原料に大仏を用いたとしても、それは(生産された文銭全体の割合からみれば)ごく一部に過ぎなかったと判断できる」との結論を出している。 「大仏躯体の銅材を銭貨にした」か否かについては諸説あり真偽は不明である。ただし真偽は別として、この風説は人々に広く知られており、文銭は大仏の化身であるとしてお守りとしても使用されたほか、文銭を鋳潰して、仏像・仏具にすることも行われたという。 なお「大仏躯体の銅材を銭貨にした」とされる行為は、後年に同様の政策が取られるにあたり、引き合いに出されることがあった。天保年間の水戸藩では、藩主の徳川斉昭が尊皇攘夷・廃仏毀釈の政策から、藩内の寺院に対し、金銅仏や梵鐘などの金属製の仏具を供出させ、それを海防のための大砲鋳造の原料に充てた。当然こうした政策に対し、仏教を冒涜(ぼうとく)しているとの批判が上がったが、徳川斉昭は「かつて江戸幕府が公益上の必要から、方広寺大仏を鋳潰して銭貨にした」ことを先例に挙げ、自身の政策も国防上必要なもので、やむを得ない政策であると弁明を行っている。供出に応じた寺院には、水戸藩から代替となる木製の仏具が贈られたという。 先述のように損壊した2代目大仏は取り壊され、スクラップにされ外部へ搬出されたが、銅材スクラップの一部は、将来何らかの利用を想定してか、方広寺に残してあったようである。寛保3年(1743年)には上記銅材を利用して、仏像の鋳造が行われている。現在、往時の大仏の遺物として、銅製の蓮座肉片が残されているが、上記の保存していた2代目大仏のスクラップ片が、今日まで伝世したとも考えられる(1798年に落雷で焼失した3代目大仏は木造であり、3代目大仏の遺物とは考えにくい為)。 豊臣秀頼像 父豊臣秀吉の志を引き継いで、大仏再建を行ったが、徳川家康に方広寺鐘銘事件を引き起こされ、大仏再建は結果的に自身の身を滅ぼすことに繋がってしまった。 国家安康の梵鐘(重要文化財)とその銘文 寛永通宝(文銭) 2代目大仏を鋳潰して鋳造されたとの風説から「大仏銭」「毀仏鋳銭」とも称される。
※この「秀頼による造営から寛文2年(1662年)の損壊まで(2代目大仏・2代目大仏殿)」の解説は、「京の大仏」の解説の一部です。
「秀頼による造営から寛文2年(1662年)の損壊まで(2代目大仏・2代目大仏殿)」を含む「京の大仏」の記事については、「京の大仏」の概要を参照ください。
- 秀頼による造営から寛文2年の損壊までのページへのリンク