新寛永とは? わかりやすく解説

新寛永(文銭)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 07:02 UTC 版)

寛永通宝」の記事における「新寛永(文銭)」の解説

幕藩体制確立とともに全国普及、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃から行われた鋳造によって、永楽通宝はじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し貨幣純国産化を実現した寛文鋳造開始時期不明であるが、寛文5年1665年)には既に鋳造開始されたとみられている。また、安国良一は将軍の上洛や日光社参時に貨幣新鋳使用が行われた傾向から、当初寛文3年1663年)の将軍徳川家綱日光社参の際に内々鋳造する予定であったものが一般向けに切り替えられ可能性指摘している。 寛文8年5月1668年)、江戸亀戸発行されたものは、寛文地震倒壊した京都方広寺大仏を鋳潰して鋳造したという噂が流布したこともあり、俗に大仏銭」と呼ばれていた。また、裏に「文」の字があることから、文銭ぶんせん)とも呼ばれていた。このとき大仏鋳銭材料一部になったかも知れないが、寛文期鋳銭材料すべてを賄う量ではなかった。 江戸亀戸設立され銭座で、後藤縫殿助茶屋四郎次郎呉服師六軒仲間請負って大規模に鋳造が行われ、発行された銭は良質均質なものとなった新井白石寛文8年1668年)から天和3年1683年)までの鋳造高を197貫文19億7千万)と推測しているが、『尾州茶屋家記録』では2138710貫文21億3871万枚)としている。この増鋳により寛永通寳全国広く行き渡り寛文10年6月1670年)には寛永新銭従来古銭交えた売買や、銭屋における新銭古銭交えた商売禁止した寛文年間鋳造寛永通寳寛文8年1668年亀戸文銭 寛永通寳延宝2年1674年)?亀戸銭島屋無背

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新寛永(元禄以降)

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寛永通宝」の記事における「新寛永(元禄以降)」の解説

品位低下した元禄金銀発行により銭相場高騰し元禄7年1694年)に金一両=4800文前後であったものが元禄13年1700年)には一両=3700文前後となった加えて経済発展により銭不足も目立ち始めたため、勘定奉行荻原重秀一文銭についても量目減ずることとし量目これまでの一匁(3.7グラム程度から七分(2.6グラム程度とされた。元禄11年1698年)からは江戸亀戸で、元禄13年からは長崎屋忠七菱屋兵衛五人糸割符仲間請負って京都七条川原銭座鋳造行った。このときの銭貨俗称荻原銭(おぎわらせん)と呼ばれる荻原重秀はこのとき「貨幣国家造る所、瓦礫を以て之にかえるといえども行うべし。今鋳るところの銅銭は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし。」と述べたとされる京都七条における元禄13年3月より宝永5年1月1708年)までの鋳造高は1,736,684貫文(1,736,684,000)に上り、主に伊予立川銅山別子銅山)の産用いられた。 宝永5年1708年)、江戸亀戸鋳造されたものも小型のもので、四ツ宝銀のように質が悪いという意味から四ツ宝銭(よつほうせん)と呼ばれる元禄宝永年間鋳造寛永通寳元禄10年1697年元禄亀戸江戸荻原銭 寛永通寳元禄13年1700年元禄京都七条荻原銭 寛永通寳宝永5年1708年宝永亀戸四ツ宝銭 正徳4年1714年)、品位慶長のものへ復帰した正徳金銀の発行踏まえ一文銭文銭同様の良質なものに復帰することとなった。このとき再び呉服師六軒仲間請け負って亀戸鋳造したとされるものが丸屋銭(まるやせん)、あるいは耳白銭(みみしろせん)であり、50貫文(5億)が鋳造されとされる享保2年1717年)には佐渡相川背面に「佐」字)、享保11年1726年)に江戸深川十万坪、京都七条享保13年1728年)に大坂難波石巻、また詳細不明であるが享保年間下総猿江鋳造が行われている。 正徳享保年間鋳造寛永通寳正徳4年1714年)頃正徳期亀戸丸屋銭 寛永通寳正徳4年1714年)頃正徳期亀戸銭耳白銭 寛永通寳享保2年1717年享保佐渡銭寛永通寳享保11年1726年享保京都七条銭不旧手 寛永通寳享保13年1728年享保仙台石巻銭仙 寛永通寳享保13年1728年享保仙台石巻銭、異書旧称猿江銭 寛永通寳享保13年1728年享保難波元文2年1737年)には前年1736年)の品位低下させた元文金銀発行により、銭相場一両=2800文前後まで急騰したのを受け銭貨増産図られ、これらの銭貨背面には鋳造地を示す文字鋳込まれるようになる元文元年には深川十万坪、淀鳥羽横大路京都伏見元文2年には江戸亀戸江戸本所小梅背面に「小」字)、下野日光紀伊宇津元文3年1737年)には秋田銅山元文4年1738年)には深川平野新田相模藤沢相模吉田島下野足尾(「足」字)、長崎一ノ瀬(「一」字)、明和4年1767年)には肥前長崎(「長」字)、など各地銭座設置され小型銭貨大量に発行された。寛保元年1741年)には摂津天王寺村銀座役人徳倉長右衛門平野屋六郎兵衛請負った大坂高津銭座で元字銭(「元」字)が大規模に鋳造された。寛保2年1742年)に勘定所別子立川銅山の出銅座分の五歩ほどずつを天王寺銭座に渡すことを命じた元文明和年間鋳造寛永通寳元文元年1736年)頃元文伏見之目 寛永通寳元文元年1736年元文平野新田銭虎之尾寛 寛永通寳元文2年1737年元文和歌山中之島村銭 寛永通寳元文2年1737年元文小梅銭小 寛永通寳元文2年1737年元文期日光久次良銭 寛永通寳元文3年1738年元文秋田大字 寛永通寳元文5年1740年)頃寛保長崎一之瀬銭低寛 寛永通寳寛保元年1741年寛保高津銭元 寛永通寳寛保元年1741年寛保足尾銭足 寛永通寳明和4年1767年明和長崎銭長 寛永通寳明和5年1768年明和亀戸銭小様、四年銭 江戸時代通じた一文銭の総鋳造高は知る由も無いが、明治時代大蔵省による流通高の調査では2,114,246,283としている。しかしこの数値鉄銭などとの引換回収され安政年間幕府庫に集積された数であり、既に述べたように鋳造高はこの程度にとどまるものではない。寛永通寳の総鋳造量300400にも上るとの推定もある。

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