新寛永(文銭)
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幕藩体制の確立とともに全国に普及、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃から行われた鋳造によって、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。寛文の鋳造開始時期は不明であるが、寛文5年(1665年)には既に鋳造が開始されたとみられている。また、安国良一は将軍の上洛や日光社参時に貨幣の新鋳・使用が行われた傾向から、当初は寛文3年(1663年)の将軍徳川家綱の日光社参の際に内々に鋳造する予定であったものが一般向けに切り替えられた可能性を指摘している。 寛文8年5月(1668年)、江戸亀戸で発行されたものは、寛文地震で倒壊した京都・方広寺の大仏を鋳潰して鋳造したという噂が流布したこともあり、俗に「大仏銭」と呼ばれていた。また、裏に「文」の字があることから、文銭(ぶんせん)とも呼ばれていた。このとき大仏は鋳銭の材料の一部になったかも知れないが、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかった。 江戸亀戸に設立された銭座で、後藤縫殿助、茶屋四郎次郎ら呉服師六軒仲間が請負って大規模に鋳造が行われ、発行された銭は良質で均質なものとなった。 新井白石は寛文8年(1668年)から天和3年(1683年)までの鋳造高を197万貫文(19億7千万枚)と推測しているが、『尾州茶屋家記録』では213万8710貫文(21億3871万枚)としている。この増鋳により寛永通寳は全国に広く行き渡り、寛文10年6月(1670年)には寛永新銭に従来の古銭を交えた売買や、銭屋における新銭と古銭を交えた商売を禁止した。 寛文年間鋳造寛永通寳寛文8年(1668年)亀戸銭文銭 寛永通寳延宝2年(1674年)?亀戸銭島屋無背
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新寛永(元禄以降)
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品位の低下した元禄金銀の発行により銭相場が高騰し、元禄7年(1694年)に金一両=4800文前後であったものが元禄13年(1700年)には一両=3700文前後となった。加えて経済発展により銭不足も目立ち始めたため、勘定奉行の荻原重秀は銅一文銭についても量目を減ずることとし、量目がこれまでの一匁(3.7グラム)程度から七分(2.6グラム)程度とされた。元禄11年(1698年)からは江戸亀戸で、元禄13年からは長崎屋忠七、菱屋五兵衛ら五人の糸割符仲間が請負って京都七条川原の銭座で鋳造を行った。このときの銭貨は俗称荻原銭(おぎわらせん)と呼ばれる。荻原重秀はこのとき「貨幣は国家の造る所、瓦礫を以て之にかえるといえども行うべし。今鋳るところの銅銭は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし。」と述べたとされる。 京都七条における元禄13年3月より宝永5年1月(1708年)までの鋳造高は1,736,684貫文(1,736,684,000枚)に上り、主に伊予立川銅山(別子銅山)の産銅が用いられた。 宝永5年(1708年)、江戸亀戸で鋳造されたものも小型のもので、四ツ宝銀のように質が悪いという意味から四ツ宝銭(よつほうせん)と呼ばれる。 元禄・宝永年間鋳造寛永通寳元禄10年(1697年)元禄期亀戸銭江戸荻原銭 寛永通寳元禄13年(1700年)元禄期京都七条銭荻原銭 寛永通寳宝永5年(1708年)宝永期亀戸銭四ツ宝銭 正徳4年(1714年)、品位を慶長のものへ復帰した正徳金銀の発行を踏まえ、一文銭も文銭と同様の良質なものに復帰することとなった。このとき再び呉服師六軒仲間が請け負って亀戸で鋳造したとされるものが丸屋銭(まるやせん)、あるいは耳白銭(みみしろせん)であり、50万貫文(5億枚)が鋳造されたとされる。享保2年(1717年)には佐渡相川(背面に「佐」字)、享保11年(1726年)に江戸深川十万坪、京都七条、享保13年(1728年)に大坂難波、石巻、また詳細は不明であるが享保年間に下総猿江で鋳造が行われている。 正徳・享保年間鋳造寛永通寳正徳4年(1714年)頃正徳期亀戸銭丸屋銭 寛永通寳正徳4年(1714年)頃正徳期亀戸銭耳白銭 寛永通寳享保2年(1717年)享保期佐渡銭佐 寛永通寳享保11年(1726年)享保期京都七条銭不旧手 寛永通寳享保13年(1728年)享保期仙台石巻銭仙 寛永通寳享保13年(1728年)享保期仙台石巻銭、異書旧称猿江銭 寛永通寳享保13年(1728年)享保期難波銭 元文2年(1737年)には前年(1736年)の品位を低下させた元文金銀の発行により、銭相場が一両=2800文前後まで急騰したのを受け銭貨の増産が図られ、これらの銭貨の背面には鋳造地を示す文字が鋳込まれるようになる。元文元年には深川十万坪、淀鳥羽横大路、京都伏見、元文2年には江戸亀戸、江戸本所小梅(背面に「小」字)、下野日光、紀伊宇津、元文3年(1737年)には秋田銅山、元文4年(1738年)には深川平野新田、相模藤沢、相模吉田島、下野足尾(「足」字)、長崎一ノ瀬(「一」字)、明和4年(1767年)には肥前長崎(「長」字)、など各地に銭座が設置され、小型の銭貨が大量に発行された。寛保元年(1741年)には摂津天王寺村の銀座役人徳倉長右衛門、平野屋六郎兵衛の請負った大坂高津銭座で元字銭(「元」字)が大規模に鋳造された。寛保2年(1742年)に勘定所は別子・立川両銅山の出銅の銅座分の五歩ほどずつを天王寺の銭座に渡すことを命じた。 元文~明和年間鋳造寛永通寳元文元年(1736年)頃元文期伏見銭蛇之目 寛永通寳元文元年(1736年)元文期平野新田銭虎之尾寛 寛永通寳元文2年(1737年)元文期和歌山中之島村銭 寛永通寳元文2年(1737年)元文期小梅銭小 寛永通寳元文2年(1737年)元文期日光久次良村銭 寛永通寳元文3年(1738年)元文期秋田銭大字 寛永通寳元文5年(1740年)頃寛保期長崎一之瀬銭低寛 寛永通寳寛保元年(1741年)寛保期高津銭元 寛永通寳寛保元年(1741年)寛保期足尾銭足 寛永通寳明和4年(1767年)明和期長崎銭長 寛永通寳明和5年(1768年)明和期亀戸銭小様、四年銭 江戸時代を通じた銅一文銭の総鋳造高は知る由も無いが、明治時代の大蔵省による流通高の調査では2,114,246,283枚としている。しかしこの数値は鉄銭などとの引換に回収され安政年間に幕府庫に集積された数であり、既に述べたように鋳造高はこの程度にとどまるものではない。寛永通寳の総鋳造量は300~400億枚にも上るとの推定もある。
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