大阪の陣の後から現在に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:35 UTC 版)
「方広寺」の記事における「大阪の陣の後から現在に至るまで」の解説
大坂の陣の後も方広寺は残されたが、方広寺境内に組み込まれていた三十三間堂共々、妙法院の管理下に置かれた。妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)からで、これは大坂の陣で豊臣氏が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である。元和元年(1615年)8月18日には、豊国大明神の神号を剥奪された秀吉の霊が、「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられて、廃された豊国社本殿から大仏殿後方南に建立された五輪塔に移された。この石造五輪塔は現在の豊国神社境内宝物殿裏に馬塚として遺る。当時の史料ではこれを「墳墓」としている(『妙法院文書』)。なお「国家安康」の鐘について、江戸期は懲罰的措置として、鐘楼を撤去の上、地面に置かれ鳴らないようにされていたとの俗説があるが、それは誤りである。方広寺大仏殿は四方を塀に囲まれていたが、鐘楼は南側の塀外(現在の京都国立博物館 の噴水の近辺)にあった。このことは都名所図会や、花洛一覧図などの江戸時代の方広寺境内を描いた絵図からも確認できる。「国家安康」の鐘が地面に置かれていたのは、明治時代の前半期のみで、これは明治新政府の廃仏毀釈の政策(恭明宮造立の為とも)により方広寺寺領の大半が没収され、没収地にあった鐘楼が取り壊され、残った方広寺寺領に鐘が移設された為である。その後しばらくは地面に置かれ、雨ざらしとなっていたが、明治17年(1884年)に鐘楼が再建され、今日に至っている。 時は下って寛文2年(1662年)に地震(寛文近江・若狭地震)が方広寺を襲う。5月1日(新暦では6月16日)に寛文近江・若狭地震が発生し、京都全域に大きな被害をもたらしたが、この地震で2代目大仏が損壊したとするのが通説である。2代目大仏から3代目大仏への建て替えの経緯については、何があったのかの記録史料が非常に混乱、錯綜しており、不明確な点が多いが(京の大仏の項を参照の事)、2代目大仏は取り壊され、寛文7年(1667年)に木造で3代目大仏が再興された。なお取り壊された2代目大仏の躯体の銅材は、亀戸銭座に運び込まれ、寛永通宝(文銭)の鋳造に用いられたという風説が流布した。(新寛永(文銭)項目も参照)。大仏躯体の銅材は現存していないので、何らかの形で再利用されたとも思われるが、真相は不明である。ただ風説のように貨幣鋳造の原料に再利用されたとしても、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかった。真偽は別として、この風説は人々に広く知られており、文銭は大仏の化身であるとしてお守りとしても使用されたほか、文銭を鋳潰して、仏像・仏具にすることも行われたという。 戦国時代に兵火で損壊していた東大寺大仏も江戸時代中頃に再建が行われた。貞享元年(1685年)、公慶は江戸幕府から勧進(資金集め)の許可を得て、東大寺大仏再興に尽力し、元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養が行われ、宝永6年(1709年)東大寺大仏殿が落慶した。宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に大仏と大仏殿が双立していた。 寛文7年(1667年)に再興の方広寺3代目大仏は従前の大仏よりも長命であったが、寛政10年(1798年)に大仏殿に落雷があり、それによる火災で全焼した。 文化元年(1804年)に現在の方広寺本尊である3代目大仏の1/10サイズの模像とされる盧舎那仏坐像が造られる(座高約2m)。方広寺を管理していた妙法院により大仏・大仏殿の再建が企図され、宝物の開帳を行い資金集めを行うなどするものの、往時と同様の規模のものが再建されることはなかった。こうした事態を憂い、天保年間(1830年 - 1844年)に尾張国(現・愛知県)の商人を中心とする有志が上半身のみの木造の仮大仏像(4代目大仏)を寄進した。時同じくして、4代目大仏を安置する仮大仏殿(3代目大仏殿)も造立された。上述の天保造立の大仏・大仏殿は、将来大仏・大仏殿を再建するまでの仮のものという扱いである。造立された場所も従前のものとは異なり、現在の方広寺大黒天堂の東側の駐車場になっている場所に造立されていた。なお4代目大仏は仮のものとはいえ高さが約14mあり、東大寺大仏に比肩する高さを有していた 。 明治時代になると、新政府の廃仏毀釈の政策から、1870年(明治3年)方広寺境内の大部分は収公され、現在の敷地規模となった。「国家安康」の梵鐘を安置する鐘楼は取り壊され(後に再建)、方広寺西門は東寺へ移築された。寛政10年(1798年)の大仏焼失後も、2代目大仏殿の基壇と3代目大仏の台座は、明治初頭まで残されていたようであるが、それに使われていた花崗岩の石材の多くは、1873年(明治6年)に京都市の内外に築造された6基の石造アーチ橋(堀川第一橋など)の建材として転用されたと伝わる。石材を剥がされたのち、土地の整地も行われたとされ、これにより往時の基壇と台座は完全に消失した。なお収公された方広寺旧境内には、歴代天皇や皇族の位牌等を安置する恭明宮(数年で廃絶)や、豊国神社の社殿が建てられた。 経緯は明らかでないが、明治期に方広寺は妙法院の管理下から脱し、独立したとされている。 昭和期に入り、太平洋戦争での戦災を方広寺は免れた。「国家安康」の梵鐘も金属類回収令による供出を免れた。 1973年(昭和48年)の火災により、上述の天保再興の大仏・大仏殿は焼失した。京都市消防局は見分の結果、その原因について「大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢の不始末。練炭火鉢の底に欠けた部分があり、そこから熱が伝わり、下に敷いてあった板が過熱してくすぶり出火。自動火災報知設備が設置されておらず,手動の設備も故障していたなど,いくつもの不運が重なって大火となった」としている(京都市消防局公式HP・朝日新聞1973/3/30の記事より)。 前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。大仏殿跡地は、2000年(平成12年)から発掘調査が行われている。 門前の餅屋が売っていた「大仏餅」は「大仏」の文字を型押しした餅で、大仏を訪れた人々のよい土産となった。門前、餅屋があった向かい辺りには、秀吉が築かせた耳塚がある。 豊国祭礼図屏風 慶長11年(1606年)作 方広寺大仏殿が描かれているが、現存する2代目大仏殿指図(設計図)や大仏殿を描いた江戸期の他の絵図と破風等の大仏殿の細部の形状が異なることから、絵師のミスでなければ初代大仏殿の造形を描いたものであるとされる。 2代目大仏殿を描いた絵図 観相窓(堂外から大仏を拝顔できるようにする窓)があり、その上部に唐破風が設けられているのが特徴である。 このスタイルは再建東大寺大仏殿にも採用された。 都名所図会 大仏御餅所 明治期撮影 規模を縮小して再建された3代目大仏殿(1973年焼失)と梵鐘 大仏殿の入り口に頭部のみの仁王像が置かれる(1973年焼失)。(ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵)
※この「大阪の陣の後から現在に至るまで」の解説は、「方広寺」の解説の一部です。
「大阪の陣の後から現在に至るまで」を含む「方広寺」の記事については、「方広寺」の概要を参照ください。
- 大阪の陣の後から現在に至るまでのページへのリンク