新寮獲得運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)
戦後、京大の吉田キャンパス周辺では下宿不足が深刻化していた。その背景には工学部の拡充に伴う新入学生の増加と、学生寮の定員の少なさがあった。1958年、吉田寮は宇治寮、女子寮と三寮連合を結成し、大学当局に増寮を働きかけた。翌1959年、薬学部敷地内の労働者向け宿舎を借り受ける形で「吉田西寮」が開寮、吉田寮に編入された。だが吉田西寮の定員はわずかで、「薬学部が入用のときは返す」という条件も付いていた。三寮連合は更なる増寮を求めて大学当局と交渉を重ねたものの、二年間進捗がなく、追い打ちをかけるように薬学部から西寮の返還を催促された。危機感を持った吉田寮は1963年、「新寮建設闘争委員会」を組織し、寮生数を減らすことなく増寮することを基本方針に、大学当局に増寮を強く迫った。吉田寮、薬学部、教育学部、学生部を交えて協議した結果、東竹屋町の教育学部を吉田キャンパスに移し、その跡地に新寮を建設する計画が次第に現実味を帯びてきた。1964年3月、京都大学は東竹屋町に定員400名の新寮「(仮称)熊野寮」を建設する計画を発表、吉田寮は工学部建築科の西山夘三研究室と共同で熊野寮の設計図を書いた。1965年4月、熊野寮A棟が竣工、開寮し、吉田寮からの引越し者を中心に熊野寮自治会が形成された。A棟竣工と引き換えに、吉田寮は吉田西寮第Ⅲ棟の撤去に同意した。1966年4月、B,C棟と食堂が竣工し熊野寮は完成した。その後1980年半ばまで吉田寮と熊野寮は共同歩調をとった。
※この「新寮獲得運動」の解説は、「京都大学吉田寮」の解説の一部です。
「新寮獲得運動」を含む「京都大学吉田寮」の記事については、「京都大学吉田寮」の概要を参照ください。
- 新寮獲得運動のページへのリンク