秀頼誕生後とは? わかりやすく解説

秀頼誕生後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:23 UTC 版)

豊臣秀次」の記事における「秀頼誕生後」の解説

ところが、継承済んだ後になって肥前国から戻った淀殿懐妊判明した当初平静装っていた秀吉であったが、文禄2年1593年8月3日大坂城二の丸淀殿が秀頼(拾)を産むと、その報せ受けた8月15日には名護屋城発ち25日大坂来て我が子抱きかかえたほどの、大変な喜びようであった。『成実記』には「秀吉公御在陣ノ内若君御誕生ナサレ候、秀次公ヘ聚楽御渡候ヲ、内々秀吉御後悔ニモオボシ候哉、治部少見届、御中表裏候由見ヘ候」とあり、この話の史実性にはやや疑問があるが、通説のように秀吉関白譲ったのは早計であった思い直したとしても不思議はなかった。 山科言経の『言経卿記』によると、9月4日秀吉伏見城来て日本5つ分けそのうち4つを秀次に残り1つを秀頼に譲ると申し渡したそうである。この後、秀次は熱海湯治行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出すなど良好な態度であった。ところが、『駒井日記』の10月1日の条によると、駒井重勝は、秀吉祐筆木下半介吉隆)から聞いた話として、秀吉前田利家夫妻仲人として、まだ生まれたばかりの秀頼と秀次の娘(八百姫もしくはのちの露月院)を婚約させるつもりであり、将来は舅婿の関係とすることで両人天下を受け継がせる考えで、秀次が湯治より帰ったらそう申し渡されと書いている。これから3代目後継者は秀頼としたいという秀吉意図読み取れる淀殿対す見舞状への返信10月8日届いており、『福田寺文書』に収録されている淀殿返信該当するものと思われる同書状で淀殿お互いの子同士縁談について喜びをみせている。 宮本義己は、典医曲直瀬玄朔診療録である『玄朔道三配剤録』『医学天正日記』を分析して、秀頼が誕生してから、秀次は喘息症状強くなるなど、心身調子が不安定であった指摘。それは失われるものに対す恐怖心のなせるわざで、すなわち秀次の権力への執着心強さ示していると主張した先の熱海温泉への湯治は秀次の喘息治療のためであったが、前述のように秀吉露骨な秀頼溺愛があって、心休まるような状態ではなく、むしろ悪化したようだ。小林千草は、秀次はもともと激情の人であり、突然の環境の変化が「理性のはどめのきかない部分」を助長したのではないかという。 しかし一方で両者の関係少なくとも表面上は極めて良好であった。『駒井日記』によると、文禄3年1594年2月8日、秀次は北政所吉野花見行っており、9日には大坂城秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞った宴会をしたりして、27日には一緒に吉野花見行っている。3月18日には、滋養に効くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊煎じたものを秀吉献じ残り食している。このような仲睦まじい様子翌年事件が起こる直前まで記されて、何事もなく過ごしていたのである秀吉当初聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって自分仲を取り持つつもりであったが、伏見単なる隠居地から機能強化され大名屋敷多く築かれるようになって、むしろ秀次を監視するような恰好になった4月秀吉普請終わった伏見城淀殿と秀頼を呼び寄せようとしたが、淀殿2歳亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪い反対し、翌年3月まで延期された。秀頼の誕生によって淀殿とその側近勢力台頭したことも、秀次に暗雲となった。またこの頃大坂城拡張工事と、京都大阪中間にあった淀城破却工事実施されたが、中村博司は論文で、これは聚楽第防備削り大坂武威を示す目的があったのではないか主張する他方で、文禄の役では『豊太閤三国処置早計』によると、秀次は文禄2年にも出陣予定であったが、秀吉渡海延期の後、前述病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如博陸(=関白)に太閤代わりに朝鮮出陣し渡海するように諫めてもしそうなければ地位を失うだろう予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである。『続本朝通鑑』にも、如名護屋城朝鮮の陣を指揮している太閤関白替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下帰服しないと諫言したが、秀次は聞かず日夜放して一の台の方ら美妾遊戯耽ったと、同様の話が書かれている翌年正月16日付の吉川広家宛て書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣期待されつつも実現していなかった。

※この「秀頼誕生後」の解説は、「豊臣秀次」の解説の一部です。
「秀頼誕生後」を含む「豊臣秀次」の記事については、「豊臣秀次」の概要を参照ください。

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