秀頼誕生後
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ところが、継承が済んだ後になって、肥前国から戻った淀殿の懐妊が判明した。当初、平静を装っていた秀吉であったが、文禄2年(1593年)8月3日、大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産むと、その報せを受けた8月15日には名護屋城を発ち、25日に大坂に来て我が子を抱きかかえたほどの、大変な喜びようであった。『成実記』には「秀吉公御在陣ノ内若君様御誕生ナサレ候、秀次公ヘ聚楽御渡候ヲ、内々秀吉公御後悔ニモオボシ候哉、治部少見届、御中ヲ表裏候由見ヘ候」とあり、この話の史実性にはやや疑問があるが、通説のように秀吉が関白を譲ったのは早計であったと思い直したとしても不思議はなかった。 山科言経の『言経卿記』によると、9月4日、秀吉は伏見城に来て、日本を5つに分け、そのうち4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡したそうである。この後、秀次は熱海に湯治に行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出すなど良好な態度であった。ところが、『駒井日記』の10月1日の条によると、駒井重勝は、秀吉の祐筆の木下半介(吉隆)から聞いた話として、秀吉は前田利家夫妻を仲人として、まだ生まれたばかりの秀頼と秀次の娘(八百姫もしくはのちの露月院)を婚約させるつもりであり、将来は舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせる考えで、秀次が湯治より帰ったらそう申し渡されると書いている。これからは3代目の後継者は秀頼としたいという秀吉の意図が読み取れる。淀殿に対する見舞状への返信が10月8日に届いており、『福田寺文書』に収録されている淀殿の返信が該当するものと思われる。同書状で淀殿はお互いの子供同士の縁談について喜びをみせている。 宮本義己は、典医・曲直瀬玄朔の診療録である『玄朔道三配剤録』『医学天正日記』を分析して、秀頼が誕生してから、秀次は喘息の症状が強くなるなど、心身の調子が不安定であったと指摘。それは失われるものに対する恐怖心のなせるわざで、すなわち秀次の権力への執着心の強さを示していると主張した。先の熱海温泉への湯治は秀次の喘息治療のためであったが、前述のように秀吉の露骨な秀頼溺愛があって、心休まるような状態ではなく、むしろ悪化したようだ。小林千草は、秀次はもともと激情の人であり、突然の環境の変化が「理性のはどめのきかない部分」を助長したのではないかという。 しかし一方で、両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好であった。『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)2月8日、秀次は北政所と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に効くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊が煎じたものを秀吉に献じて残りを食している。このような仲睦まじい様子が翌年事件が起こる直前まで記されて、何事もなく過ごしていたのである。 秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって、自分が仲を取り持つつもりであったが、伏見は単なる隠居地から機能が強化され、大名屋敷が多く築かれるようになって、むしろ秀次を監視するような恰好になった。4月、秀吉は普請が終わった伏見城に淀殿と秀頼を呼び寄せようとしたが、淀殿が2歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪いと反対し、翌年3月まで延期された。秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭したことも、秀次には暗雲となった。またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されたが、中村博司は論文で、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかと主張する。 他方で、文禄の役では『豊太閤三国処置太早計』によると、秀次は文禄2年にも出陣予定であったが、秀吉の渡海延期の後、前述の病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇が記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如水は博陸(=関白)に太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように諫めて、もしそうしなければ地位を失うだろうと予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである。『続本朝通鑑』にも、如水が名護屋城で朝鮮の陣を指揮している太閤と関白が替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身が安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下は帰服しないと諫言したが、秀次は聞かずに日夜淫放して一の台の方ら美妾と遊戯に耽ったと、同様の話が書かれている。翌年正月16日付の吉川広家宛ての書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣は期待されつつも実現していなかった。
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