楽曲と演奏
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「アガルタ (アルバム)」の記事における「楽曲と演奏」の解説
昼のコンサートの2つのセットの最初に、デイヴィスのセプテットは「タートゥー」("Tatu")、「アガルタへのプレリュード」("Agharta Prelude")、および(『ゲット・アップ・ウィズ・イット』より)「メイーシャ」("Maiysha")を演奏し、『アガルタ』の1枚目の音楽ディスクを構成した。(デイヴィスの1971年のアルバム『ジャック・ジョンソン』より)「ライト・オフ」("Right Off")、(『ビッグ・ファン』より)「イーフェ」("Ife")、および「ウィーリー」( "Wili (= For Dave)")の2つ目のセットのパフォーマンスが2枚目のディスクを占め、「ライト・オフ」と「イーフェ」のあいだのパートでは、ヘンダーソンがオスティナートし始めたあと、バンドは41秒のあいだ(デイヴィスの1959年のアルバム『カインド・オブ・ブルー』から)「ソー・ホワット(英語版)」にもとづくパッセージで即興演奏を行なった。曲はメドレーで演奏され、レコードでは「アガルタへのプレリュード」("Prelude")や「インタールード」("Interlude")といった一般的なトラックタイトルが付けられた。デイヴィスは批評家やその他のリスナーが、しばしば抽象的な楽曲分析に耽溺して音楽の本質的な意味を見落としたと感じていたので、1970年代のその他のライブのリリース同様、個々の楽曲をトラックリストに明示するのを拒否した。「私は何もしない、それは説明を必要としない」、デイヴィスはのちにレナード・フェザーに語った。音楽学者は、デイヴィスの研究者エンリコ・マーリン(Enrico Merlin)が「符号化フレーズ」と呼んだものを調べることで曲を識別することができた。デイヴィスはトランペットやオルガンで一つのセグメントの終わりを示し、次のセクションに向かって演奏した。彼は1959年に「フラメンコ・スケッチ」("Flamenco Sketches")の録音で、そのようなキュー(きっかけ)と転調を最初に使用したとマーリンは述べた。 『アガルタ』に収められた曲は、グループの典型的なセットリストの一部だったが、それぞれのパフォーマンスは、コンサートからコンサートでほとんど見分けがつかないほど変化することがあった。これはトラック名とともに、音楽がほとんど、あるいは完全に即興演奏であり、不統一であるという広範な誤解をもたらした。ルーカスは、このバンドが「非常に明確な構成上の基盤」で各パフォーマンスを開始し、高度に構造化されていながら「非常に自由な方法」でそれを発展させたと説明した。「ライト・オフ」セグメントは、オリジナルの録音のEフラットのリフから即興演奏された。デイヴィスはバンドに曲の中で数分間、各メンバーが異なる拍子記号で演奏しながら、単一のコード周りで変奏する演奏をさせた。フォスターがコモンタイム(4分の4拍子)、エムトーメが複合2拍子や7拍子(英語版)である一方、ギタリストはまったく別のテンポでコンピング(英語版)(伴奏)している可能性があった。「そいつが我々がこのワンコードでやったややこしいことだ」とデイヴィスは言った。ルーカスの観点から見ると、このような「構造化された即興演奏」は、リズムセクションとのあいだに重要な相互作用をもたらし、バンドに「我々が一緒に進めているあいだ曲全体で即興演奏すること、ソロで演奏されていた単なるノート(音)よりはるかに多く」即興演奏することを可能にした。。 『アガルタ』は、セプテットを披露したほかの2つのアルバム、『パンゲア』や『ダーク・メイガス(英語版)』のように、アミリ・バラカがデイヴィスのミニマリズムに対する親和性と表現したことを明らかにした。彼は、ソリストが終始即興演奏を行なうための背景として、リフ、クロスリズム(英語版)とファンク・グルーヴを選び、旋律的、和声的な慣例を放棄した。デイヴィスは彼のキャリアを通して抑制された楽曲を好んだが、1970年代中ごろは、アフロセントリック(英語版)な政治に触発された、よりディープなリズムへの傾倒を示した。エムトゥーメとコージーがバンドに加わると、ライブの音楽はその「ヨーロッパ的感覚」の大部分を失ない、個々のソロよりもリズムとドラムスを強調した「ディープなアフリカもの、ディープなアフリカ系アメリカ人のグルーヴに定着した」とデイヴィスは言った。しかしながら彼はメロディーを完全に拒否したわけではなかった。「我々はアフリカにいるのでも、単なるチャントを演奏するのでもない。我々がすることには、いくらかの理屈がある」。サイモン・レイノルズ(英語版)は『アガルタ』をジャズ・ロックのレコードに分類し、この音楽は「ロックの3つのもっとも過激な側面、すなわち空間、音色、グルーヴの劇的な強化を提示した」と『ワイヤー(英語版)』に書いた。マーサ・ベールズ(英語版)の見解では、ジャズからはフリー・インプロヴィゼーションの要素のみが、そしてロックからはエレクトロニクスと「耳出血させる音量」の使用においてのみが引き出された。また、このアルバムはデイヴィスのアバンギャルド(英語版)な衝動やアンビエント・サウンドの探究も披露している。グレッグ・テート(英語版)によれば、セプテットは「アヴァンギャルド・ミュージックの汎民族的な網」をつくり出した。一方、『Sputnikmusic(英語版)』のエルナン・M・キャンベル(Hernan M. Campbell)は、とくにレコードの後半において「プログレッシヴなアンビエンス」を探求していると言い、『モジョ』のフィル・アレクサンダー(Phil Alexander)は、『アガルタ』を「アンビエントながら激烈、旋律的ながら煥発なことの両方」を特徴づけ、カールハインツ・シュトックハウゼンの電子実験を示唆した。 「アガルタへのプレリュード」過去のパフォーマンスよりも明確なリフと調性で演奏された、とジョン・スウェド(英語版)は述べた。 コンサートのあいだデイヴィスは、頭や手の身振りによってバンド、とくにリズムセクションに、およそ50の停止やブレイク(英語版)を指示した。これらの停止は、パフォーマンスのテンション・アンド・リリース構造における劇的な分岐点として用いられ、テンポの変更や、バンドが静かなパッセージと強烈なクライマックスを行き来することを可能にした。デイヴィスは、ヤマハのオルガンからドローンを打ち寄せるパフォーマンスも差し挟み、ミケル・ギルモアが音楽の「気分を決定した」と考えた、「奇妙な、ほとんどひねくれた存在」に到達した。ルーカスは言った。デイヴィスは、無調、ディソナント・コード(不協和音)、そしてグループのファンク・リズムに対応した自身のビバップ・トランペット演奏など、それまでのジャズ演奏のキャリアで発展させてきたダイナミクスへの感覚を、しかしより強力なコントラストの装いで応用した。「極端なテクスチャーと極端な音量は」、ルーカスが説明した。「コントラストのあるコードやリズム構造と同じように音楽の広がりの中の多くを占めた。完全なロックバンドのように装備され、我々は文字通り壁を吹き飛ばした」。「タートゥー」と「アガルタへのプレリュード」セグメントのあいだで、テンポをシフトさせるためにデイヴィスは、不協和で耳障りなオルガンの音型を演奏することにより何度か突然セプテットを停止させて開始させ、コージーに奇抜でサイケデリックな音型やエフェクトを発生させるためのスペースを与えた。コージーが初めてデイヴィスのバンドに加わったとき、「タートゥー」の主要テーマはより遅いテンポで演奏されていたが、彼らの成長につれ、とりわけ日本ツアーのころには、より速く演奏していた。コージーは、デイヴィスが演奏によってソリストに「思考やアイデアを伝える」才能があると評した。 ときおり音楽のリズムの方向性は、繰り返し唸りをあげ、きしみを立てるサウンドなど、高密度に織りをなすパーカッシヴで電子的なエフェクトに埋め尽くされ、中断された。コージーは、リングモジュレーター(英語版)とEMS Synthi A(英語版)でギターを動かし、これらのサウンドをつくり出した。後者の機器は、ノブとボタンを備えた初期のシンセサイザーで、キーボードはなく、正確なピッチというよりは抽象的なノイズとメロディーを生み出すのに有益だった。彼はそれぞれのパフォーマンス中、特定のサウンドスケープ(音風景)、「宇宙にいるのか、水中にいるのか、アフリカ人のグループが演奏しているのかといった、まったく異なるサウンドスケープ」を提示するためにそれを使用した。ステージ上には、ムビラ、クラベス、アゴゴベル、その他のいくつかのハンドパーカッション(英語版)楽器が用意されたテーブルもあり、異なった停止やブレイクを指示するために、演奏したりマレットで叩いたりした。「まるで[ボクシングの]戦いでもするみたいにぶっ叩いた!」とコージーは思い起こした。彼のシンセサイザーは、ときに「イーフェ」セグメントのように、エムトーメがドラムマシンから生成することができた実験的なサウンドと相互作用した。デイヴィスは、日本ツアーのスポンサーであるヤマハから受け取った楽器をエムトーメに渡し、「それでできることを見てくれ」と伝えた。エムトーメはリズムをつくり出すというより、いくつかの異なるペダルやMu-Tron Bi-Phase(英語版)のようなフェイズシフターを使ってドラムマシンを処理し、彼が言うところの「トータル・タペストリー」なサウンドをつくり出した。 「我々のコンサートの開始は信じられないほど圧縮された風船のようだった。その後は空気を徐々に逃がすということだった。そのレベルで演奏するのに要したエネルギーは途方もないものだった。演奏を終えたあと倒れることもあった。 我々はコンサートの前にこのエネルギーを充填した。お互いを見て「壁を突き抜けよう」と言った。それが我々のスローガンだった。それは身体的にできる限りのことをすることを意味した。そうした集中とエネルギーのレベルを2〜3時間保つことで壁を突き抜けた。」 —ジェームズ・エムトゥーメ デイヴィスの以前の録音とは異なり、『アガルタ』の全体を通してカデンツァは、そのほとんどがフォーチュンとコージーによって演奏された。フォーチュンはソプラノとアルトのサクソフォンとフルートを持ち替え、ギルモアが『至上の愛』(1965年)期のジョン・コルトレーンに負うところが非常に多いと考えた「内容と構成」で演奏した。彼はレコード2枚目の「推進的な」セグメントの口火を開く「ライト・オフ」で最長のアルト・サクソフォン・ソロを演奏し、ギルモアは「夢で列車に乗って飛んでいるような、魅惑的で幻想的な、夢の中の一瞬で過ぎ去る窓の風景」と述べた。コージーはギルド・S-100(英語版)エレクトリック・ギターを演奏し、『アガルタ』の即興演奏では半音階(英語版)、不協和音、フィードバックを重視した。彼は、ギターサウンドを歪めるためのファズボックスや、ソロのあいだ使用したり、よりメロウなトーン(英語版)で演奏するときの2つの異なるワウペダルなど、パーカッション楽器のテーブルの下に設置されたいくつかのエフェクトペダルを交互に使用した。コージーはしばしばギター弦をフレットボード上の違う位置に張り、スタンダード・チューニング(英語版)では決して演奏しなかった。少なくとも36の異なるチューニング・システムを用い、それぞれが彼の演奏スタイルとサウンドを変化させた。『プレミアギター(英語版)』からツヴィ・グルキン(英語版)によれば、彼の実験的なギター演奏はブルースに根ざしていたが、とりわけフィードバックのコントロールにおいて、攻撃的で「痛烈」ながら「どこか抑制的な」フレージング・センスを示した。 デイヴィスはコージーに、エレクトリック・ブルース(英語版)とジミ・ヘンドリックスのサウンドから音楽をしつらえるよう求めた。ディストーションの使用やEフラット・チューニング(英語版)をコージーは共有した。チャールズ・シャー・マリー(英語版)によれば、彼はこのギタリストに鳴り響くフリー・ジャズの影響を受けたソロを想起させ、一方、ルーカスは、ヘンドリックスのより叙情的なリズム・アンド・ブルース曲のように演奏した。『アガルタ』でコージーのギターは左チャンネル(英語版)[要リンク修正]、ルーカスは右に分離された。ジャズ学者のスチュアート・ニコルソン(Stuart Nicholson)は、デイヴィスは彼のギタリストを、ヘンドリックスが自分の音楽で探求した「ハーモニック・ディストーション(高調波歪)の波」を実現するのにあたり活用した、と書いた。マリーの考えでは、このアルバムはデイヴィスへの彼の影響をほかのレコードよりも明瞭に訴えており、ニコルソンは、彼らが一緒に録音したかもしれない音楽への「近似値にもっとも近い」と評した。デイヴィスはトランペットで、簡潔で表現力豊かなソロから非感傷的な嘆きに向かった。それは、彼がまだ1970年のヘンドリックスの死(英語版)を悼んでいたことを示唆しているとマレーは推測した。その年デイヴィスは、ヘンドリックスがギターで達成したレジスター(声区)の向こうを張ってトランペットにワウペダルを付けて演奏し始めていた。コンサートのときまでに、デイヴィスはフィリップ・フリーマン(Philip Freeman)が、「『アガルタ』で聞かれる新しいトーン、揺れ動き、かすかに光るサウンドのリボン」と表現したものを開発していた。彼のワウワウ処理されたソロは、しばしば狂おしくかつメランコリックに聞こえ、「むき出しの痛みの捻じれた流れ」のようだった。 「インタールード〜ジャック・ジョンソンのテーマ」リチャード・クックによれば、デイヴィスの「ウィーリー」セグメントからの最後のトランペット・パッセージは、アガルタの「暗い」音楽の多くの解釈を彩った、「倦怠感さえ漂わせる暗闇の感覚」の典型だった。 コンサートを通してデイヴィスのトランペット演奏は希薄で、しばしばリズムセクションに覆い隠されて聞こえた。彼の『アガルタ』における存在は、ジョン・スウェド(英語版)が「音楽家の晩年の作品の感覚とたたずまい、創作者の死に先立つ自我のない音楽」と呼んだことを反映していた。テオドール・アドルノのルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの後期作品の解説を引用してスウェドは述べた。「作品への音楽家の不在は、死すべき運命に従うということである。あたかもマイルスが、過去30年間に立ち会った恐怖と喜び両方のすべてを証言しているかのようだった」。ルーカスの、この公演、最初で唯一のソロが「イーフェ」セグメントを盛り上げたあと、デイヴィスは、いくつかのオルガン・コード、最高潮に達するコージーの最後のソロ、そしてポール・ティンゲン(英語版)が素朴で内省的と特徴づけたデイヴィスのトランペット・パッセージで「ウィーリー」を披露した。彼によれば、一般にライブ音楽の公演は、最後のクライマックスに到達する方向で展開するが、デイヴィスのコンサートは「しばしばエントロピーの中へと溶解した」。『アガルタ』においては、ティンゲンは言った。「ウィーリー」のエネルギーの欠けらがレコードのフェードアウトへと「ゆっくりと消え去る」ことで、「深い悲しみ」が音楽の上を覆った。日本のCDエディションでは、9分以上の幽玄(アトモスフェリック)なフィードバック、パーカッションとシンセサイザーのサウンドで終了した。 ティンゲンは、2番目のコンサートのときまでにバンドのエネルギーレベルは大幅に低下しており、デイヴィスはとくに不在に聞こえる、と書いた。エムトーメは「彼はその晩、具合が悪くなり、エネルギーの違いを聞くことができる」と思い起こした。
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