体協役員と関係者たちとは? わかりやすく解説

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体協役員と関係者たち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:01 UTC 版)

いだてん〜東京オリムピック噺〜」の記事における「体協役員と関係者たち」の解説

嘉納治五郎かのう じごろう) 演:役所広司 東京高師校長柔道創始者大日本体育協会初代理事長日本初IOC委員第1話キーパーソンであり、“平和の祭典”であるオリンピック精神惹かれ日本オリンピック初参加を実現するため、奮闘するオリンピック予選会においてマラソン優勝した四三短距離走優秀な成績収めた弥彦選手としてストックホルムに送ることを決める。しかし国からの援助はなく、予選会開催のために多く借金重ねた上に、辛亥革命巻き込まれ清国留学生を救うべく莫大な借金をし、資金が不足。四三弥彦自費での出場提案し丸め込むような形で説得するストックホルムへの出発の際は、政府役人であるがゆえに手続き煩雑となり四三らより出発が遅れる。ストックホルムから帰国後、大日本体育協会多額負債を負わせたことを理由永井らから更送を言い渡される(ただし、大日本体育協会会長職には1921年まで留まっている。)。 ベルリン五輪中止後四三東海道五十三次駅伝競争企画すると、その姿に触発され自身神宮外苑競技場建設するという夢を持ち始める。その後1920年アントワープ五輪前後に、永井退任受けて大日本体育協会会長から退くことを表明その後東京オリンピック開催するため明治神宮外苑競技場建設することに尽力する関東大震災発生し完成間近であった競技場バラックとして開放競技場復興大運動会開催するとともに1924年パリ五輪選手派遣宣言する東京市長・永田の申し出きっかけ1940年東京五輪招致向けて活動。「ムッソリーニ直談判して開催譲ってもらう」という作戦発案するが、持病腰痛再発したため、ムッソリーニとの会談およびIOCオスロ総会には出席できなかった。結局、「オリンピック政治介入させた」としてラトゥール不興を買い、開催選挙延期となる。そこで関係を修復するためラトゥール東京視察打診し招待二・二六事件勃発してもなお揺らがず、ラトゥール迎え入れて自ら謝罪し東京五輪への思いを語る。 そして半年後のIOCベルリン総会にて自らスピーチ担当し東京招致成功する。この時、IOC中国代表の王が票を入れてくれたことでより一層大会開催への思い強める。また、ベルリン五輪スケール圧倒されベルリン大会超えるものを作らなければならない」というプレッシャー蝕まれていく。 しかし、中国戦線拡大により日本国内では返上論が拡大副島田畑からも返上するよう説得されるが、1938年IOCカイロ総会各国委員説得し東京での開催押し切ってしまう。 その帰路、「これから番面白いことを東京でやる」と東京五輪夢見ながら太平洋上の氷川丸船内肺炎発病しこの世を去る。 1964年大会組織委員会には一番目立つところに肖像画飾られており、田畑ことあるごとに嘉納と「対話」することになる。 岸清一きし せいいち) 演:岩松了 大日本体育協会2代目会長弁護士IOC委員を後に務める。 会計の面から体協支えアントワープ五輪では派遣費を体協から支弁するよう取り計らうマラソン駅伝競走には興味のない素振り見せていたが、第1回箱根駅伝実際に観戦したことで大い感動し、その魅力取りつかれる。これ以降実際の運営では現実的な策を取りつつも、スポーツ魅力心酔し競技観戦し感動しては涙を流すことが多い。 関東大震災後は、自身弁護士事務所への間借りという形で体協本部を置き、活動続ける。 その後1940年東京五輪招致の話が持ち上がると、招致メンバーとしてロサンゼルス大会に赴き嘉納と共に活動開始ロサンゼルス大会終了後1940年東京五輪実行委員会のひとりとなり、また同時期にロサンゼルス大会の結果昭和天皇御進講するという大役務めるなど活躍する。 しかし程なくして体調崩し昭和8年1933年)、東京五輪実現を見ることなくこの世を去る。 大森兵蔵おおもり ひょうぞう) 演:竹野内豊 アメリカ体育学士ストックホルムオリンピック日本選手団監督バレーボールバスケットボール日本紹介する日本語会話中に英語を混ぜる癖があり、その度安仁子に翻訳されるアメリカ留学中アルバイト安仁子のハウスボーイしたことがきっかけ結婚至った経緯から、オリンピック同行出来ず僻む可児永井から妻の尻に敷かれていると嘲笑される安仁子とは仲睦まじく四三らと同席車中でも新婚夫婦同然にふるまう。 嘉納からオリンピック選手監督打診をされた時には肺病患っており、余命僅かであることが判明していた。しかし、執筆した論文オリンピック陸上運動競技法」から伝わる熱意安仁子からの懇願嘉納心を打ち正式に監督任命される。しかし、ストックホルムでは練習参加できないほど病状悪化一時持ち直すものの男子100メートル走予選以降、再び病状悪化し、それから数か月後に渡米翌年1月カリフォルニア病院息を引き取った享年37歳可児徳(かに いさお) 演:古舘寛治 東京高師助教授徒歩顧問嘉納の下で大日本体育協会立ち上げ右往左往しつつ、オリンピック初参加の準備奔走する嘉納行動振り回されがちではあるが、協会資金勝手に優勝カップ作るなど時折大胆な行動に出る。また、酒に酔うと威勢良くなる円形デッドボール(のちのドッジボール)の日本への紹介者。 アメリカ留学後女子高等師範学校教鞭執りカドリーユ普及するが、大胆セクハラ発言生徒らに復唱させ、シマ女生徒たちから顰蹙を買うこととなる。 ストックホルムアントワープパリ海外五輪行けずしばしば悔しがっている。 1964年東京大会は、体協創設メンバー唯一の生存者として開会式見届ける永井道明(ながい どうめい) 演:杉本哲太 東京高師教授。金たちの暮らす寄宿舎舎監務める。 日本人体力向上先決する考えのもと、肋木と共にスウェーデン体操体育取り入れた日本スポーツ界パイオニア一人。頑固で融通利かない性格で、嘉納対立する場面少なくない学生には厳しくも愛をもって接しており、マラソンにおいて学生体調や命を第一とする言動取っている。 嘉納から日本初となるオリンピック参加について相談受けた際には「ドランドの悲劇」を引き合い出し、国の命運選手託し人命よりも勝利にこだわる大会見解し不愉快と感じたことと、肉体的に未熟な日本人にとって無理があると考え反対する。しかし、オリンピック予選会の後から大日本体育協会活動本格的に参加四三オリンピック出場向けて積極的に関わり始める。 ストックホルム大会後は、四三らの惨敗受けて再び日本人体力向上目指す方向へ舵を切り、「学校体操教授要目」をまとめる。また嘉納不在の間に新たな人材大日本体育協会登用財政態勢立て直しを図る。しかし、イギリス留学終えた二階堂トクヨ自身方針否定され今まで提唱してきた肋木スウェーデン体操時代遅れであることを痛感。また自分の考え曲げることも己の美学反するとの思いから、アントワープオリンピック直前大日本体育協会理事職を退くことを決める。二階堂野口源三郎日本スポーツ未来を託し体協を去る。 その後は竹早でテニス教えたり復興大運動会審判務めた野口源三郎(のぐち げんざぶろう) 演:永山絢斗 東京高師学生四三徒歩部の後輩。(実際に野口四三よりも3歳上であった。) 四三と共にオリンピック予選会に出場マラソン途中で蒸しパン無銭飲食しつつ、4位という好成績収めるオリンピックから四三帰ってきたのちは、四三持ち帰った砲丸興味を示す。 高師卒業後は体協活動参加し四三マラソン競技企画補佐するその後アントワープ五輪では、日本選手団主将務めとともに十種競技出場し最下位結果に終わる。帰国後の報告会では、全ての種目やりきったので悔いはないと語り、また他の競技結果報告務め上げ記者からの非難矢面に立つ1924年パリオリンピック結果報告会田畑らに体協陸上びいきを指摘され大会で惨敗責任取って体協理事退任する1928年昭和3年)のアムステルダム五輪には陸上競技選出役員として同行人見絹枝必死嘆願折れて800m走エントリー許可し走り方をアドバイスする大森安仁子おおもり アニコ) 演:シャーロット・ケイト・フォックス 大森兵蔵の妻。 アメリカ人であるが、日本語堪能で兵無意識に発する英語を即座に日本語訳することもしばしば。笑い上戸性格で、それゆえ周囲困惑させることもある。 オリンピック出発1か月前より出場選手らへの英会話西洋式テーブルマナー指南役となる。 余命僅かである兵オリンピック選手監督としての同行嘉納直談判熱意伝わり監督着任した付き添い自身ストックホルム同行することとなる。シベリア鉄道内での料理や、記録撮影なども手掛けるが、病に伏せる看病時間割かれることが多い。 ストックホルム大会終わったのちの大正2年3月自身描いた肖像画携えて嘉納とともに帰国その後日本留まる関東大震災後復興大運動会四三らのもとを訪れた際には、児童福祉施設運営していた。 二階堂トクヨにかいどう トクヨ) 演:寺島しのぶ 東京女子高等師範学校助教授永井道明弟子。 はっきりとした物言いをし、意志の強い性格永井同様にストックホルムオリンピック日本選手惨敗マラソン競技に対して厳し見解を示す。 文部省要請受けて大正元年11月イギリス留学旅立つ帰国後は健やかな子を産む女子のための独自の体育追及従来着物否定し生徒たちチュニック着用提唱したり、メイポールダンスを授業導入したりして、師の永井対立肋木スウェーデン体操は古いと言い放ち袂を分かつ野口源三郎好意抱いていたが、野口妻子がいることを知り落胆女子体育育成生涯をかけるため、頭を剃りカツラを被るという形で覚悟決め二階堂体操塾(後の日本女子体育大学)を設立する体操塾入学した人見絹枝応援し続けアムステルダム五輪出場することになった髪留め渡して励ました武田千代三郎たけだ ちよさぶろう) 演:永島敏行 大日本体育協会副会長史上初の駅伝東海道五十三次駅伝競走」の開催にあたって、「駅伝」の名付け親となる。 辰野保(たつの たもつ) 演:安楽将士 アントワープオリンピック日本選手団監督東京大学陸上部出身弁護士平沼亮三ひらぬま りょうぞう) 演:大谷亮介 大日本体育協会副会長

※この「体協役員と関係者たち」の解説は、「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の解説の一部です。
「体協役員と関係者たち」を含む「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の記事については、「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の概要を参照ください。

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