笑い上戸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:27 UTC 版)
子供の頃から笑ってはいけない場面で笑ってしまう失笑恐怖症を患っており、小学校の国語の時間で教科書を朗読する際にも必ず笑ってしまい、ほかの生徒達が面白がって笑ってくれても、段々と白けていき、静かな教室で自分の苦しい笑い声と先生の怖そうな顔が目立って冷や汗をかいたという。 病院でも笑う癖があり、歯科医院の治療で顔を真っ赤にしながら笑いを我慢していると思わず涙がこぼれ、看護婦に「痛かったですか?」と勘違いされたことがある。眼科で治療に臨んだ時も、目医者が頬に目薬を一滴落としただけで思わず二、三分間も笑い続けた。親戚が亡くなった際にも仲が良かった親戚の女の子と葬式の一番後ろに着いて、ずっと二人で笑っていたという。この時から常に「親の葬式の時は果たして笑わないでいられるだろうか」「どれほど深刻ぶる事が出来るのだろうか」と悩んでいたと単行本『私はバカになりたい』(1982年・青林堂)の「あとがき」で述べている。 出演するテレビ番組でも、悲しい場面で笑ってしまい、生放送だったため、CMに切り替えられたことがある。きたろうは以前に蛭子と共演した際、蛭子が「きたろうさんが刑事役をやるのがおかしい」と笑ってばかりでNGを連発してしまい、ひどい目に遭っている。競走馬のテンポイントの感動シーンでも、ひとり爆笑して雰囲気を壊したことがある。また、雑誌の企画で杉作J太郎の包茎手術の様子を漫画に描くため手術現場に同行した際にも「あそこがキノコ雲になってる」と終始爆笑していたことが明かされている。 蛭子自身も「結婚式も葬式もパーティも“式”そのものがすごく苦手で特に葬式は極力行かないようにしている」と述べており、知人の葬式でも「参列者全員が神妙な顔をしている」「笑ってはいけないシリアスなシーンにいる自分が滑稽」ということがおかしくて笑ってしまい、そのため「笑う悪魔」というニックネームを付けられたこともある。 1992年に投身自殺した山田花子の自宅に弔問した時も、仏壇に向かって焼香する際に笑いを我慢することに耐えきれず、肩を震わせて嗚咽を漏らしていたという(横で見ていた特殊漫画家の根本敬とマディ上原も蛭子につられて笑いそうになった)。後に蛭子は「線香を上げてるときに、オレの後ろには山田花子さんの両親がいたんだけど『頼むからそこからオレを見たら泣いてる風に間違えてくれ』と思っていた。きっと、向こうの両親にはオレが悲しんで泣いてるみたいに見えたと思う」と回想している。 この悪い癖のため、逸見政孝の追悼番組で出演を拒否されたこともあった。この出演を見送らせたディレクターは1994年に交通事故死しており、ビートたけしも同年交通事故を起こし頭蓋骨の陥没骨折や顔面麻痺の重傷を負っている。たけしは事故の前に蛭子のサイン本を貰っていることから「呪われているんじゃないか」とも語っている。1999年に逝去したビートたけしの母の葬儀に参列した時も笑顔で葬式を過ごし、北野家の遺族達を激怒させたと言う。 交通事故死した自身のファンクラブ会長の遺体と霊安室で対面した際には、棺の中に自著『なんとなくピンピン』が収められているのを見て笑いが止まらなくなったという逸話がある。また根本敬の証言によれば『なんとなくピンピン』のサイン本を貰った人間のうち4人が交通事故に遭っており、そのうち2人は死亡している。サイン本を貰っていたみうらじゅんもタイでバイク事故に巻き込まれ、麻酔も打たずに手術を受ける羽目になったという。これらのエピソードから根本は「直接ではないが間接的には何人も殺している」とも語っている。また根本の担当編集者であった白取千夏雄も「蛭子さんを『理解せず』付き合うと、死ぬこともあるので注意が必要だ」と警鐘を鳴らしていた。 自身の母親の葬式でも終始笑顔で、親類にたしなめられたという。26年ぶりに再会した実兄も母親の葬式を笑顔で過ごし、葬儀終了後に2人でパチンコに出掛けようとしたという。ただし、最愛の元妻が亡くなった時は唯一涙を流して悲しんだ。その後、「オレは両親が死んだときでさえ泣かなかった。人でなしと思われるかもしれないが、人前で変に感情をあらわにするなんて、恥ずかしいことだと思っていた。でもこの時は生まれて初めて本当の孤独というものを知ったのかもしれない」と語っている。
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