スタジアムの歴史
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「エドワード・ジョーンズ・ドーム」の記事における「スタジアムの歴史」の解説
カージナルスを失って以来、NFLチームの誘致を目指していたセントルイス市は、1990年代初期に新しいドーム球場の建設を決定。1992年にスタジアムの建設を開始した。一方カリフォルニア州ロサンゼルス(厳密にはアナハイム)に本拠を置いていたラムズは、1990年代に入ってから毎年二桁敗戦を喫する低迷期に陥り、観客動員も減少。さらに新スタジアム建設要望も却下され、窮地に追い込まれた。 当時のオーナーの故郷であるセントルイス市と新規市場を開拓したかったラムズの思惑が一致し、ラムズの1995年からのセントルイス移転が決まった。市が建設中の新スタジアムは、ラムズが本拠地スタジアムにすることになった。しかし新スタジアムは1995年シーズン開幕までに完成が間に合わず、ラムズはかつて1987年までアメリカンフットボールとの兼用だった野球場ブッシュ・スタジアムを間借りすることとなった。 シーズンも中盤に入っていた1995年11月12日、ようやく新スタジアムトランス・ワールド・ドーム(Trans World Dome)が開場。スタジアム名はトランス・ワールド航空が命名権を取得したためこのようになった。 トランス・ワールド・ドームはNFL以外にも様々なイベントに使用された。1999年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がミサを行い、104,000人の観衆を集めた。これはアメリカ史上最大の屋内集会である。 2001年、トランス・ワールド航空がアメリカン航空に吸収されると命名権スポンサーがなくなり、スタジアムは一時的にドーム・アット・アメリカズ・センター(Dome at America's Center)と呼ばれた。2002年1月25日、エドワード・ジョーンズ・インベストメンツ(Edward Jones Investments、金融サービス業)が命名権スポンサーとなり、スタジアム名がエドワード・ジョーンズ・ドーム(Edward Jones Dome)に変更された(2016年まで)。 2016年シーズンから、ラムズはロスアンゼルスに再移転した。 NCAAによるアメリカンフットボールやバスケットボールなどの大会も多く開催されている。
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スタジアムの歴史
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「クリーブランド・ブラウンズ・スタジアム」の記事における「スタジアムの歴史」の解説
クリーブランド・ブラウンズはかつてミュニシパル・スタジアムを本拠地にしていたが、1995年シーズン終了後、オーナーのアート・モデルがチームをメリーランド州ボルチモアへ移転させ、チーム名を“ボルチモア・レイブンズ”と改めた。1996年2月、NFL機構は「ブラウンズは1996年からの3年間活動停止し、1999年に新しいスタジアムで活動を再開する」と発表した。つまり、レイブンズは1996年シーズンに創設された新規球団の扱いとなり、ブラウンズのフランチャイズヒストリーはレイブンズではなく1999年に誕生する新ブラウンズが引き継ぐこととなった。 1996年シーズン終了後、クリーブランド市はミュニシパル・スタジアムを取り壊して新スタジアム建設用の土地を確保した。1997年5月15日に新スタジアム建設が開始され、1999年8月21日に開場、同時にブラウンズも再始動した。 クリーブランド市は当初、当スタジアムの命名権スポンサーを募集していなかった。これは1990年代以降に建設されたアメリカ国内のスタジアムでは珍しい事例である。ただ、スタジアム名ではなく、スタジアムの4つの入場ゲートの命名権を企業に販売している。 南西の入場門:クリーブランド・クリニック・スポーツ・ヘルス・ゲート 南東の入場門:ナショナル・シティ・ゲート 北西の入場門:ファーストエナジー・ゲート 北東の入場門:STERISゲート 2013年1月、クリーブランド市は当スタジアムの命名権をファーストエナジー社に売却すると発表。これにより「ファーストエナジー・スタジアム(FirstEnergy Studium)」と呼ばれることとなった。
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スタジアムの歴史
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「セント・メリーズ・スタジアム」の記事における「スタジアムの歴史」の解説
1980年代よりサウサンプトンFCはフットボールリーグで好成績を残しており(特に1984年はリーグ準優勝)、手狭で大幅な拡張工事を行えなかったザ・デルに代わる新しいスタジアムにクラブを移転させる計画があった。 ヒルズボロの悲劇を受けて1990年1月29日に発表されたテイラー・レポート(英語版)は、フットボールリーグディビジョン1及びディビジョン2に所属するクラブに対し、1994年8月までに全席座席のスタジアムを整備するよう要求した。当初、クラブはザ・デルを全席座席のスタジアムとして改装することとし、1993年に工事が完了したが、改装されたスタジアムはわずか15,000人しか収容できず、一方、クラブは1992年から新設されたFAプレミアリーグに残留し続けたことから、移転への模索は続いた。 長らく、サウサンプトン郊外のストーンハム(英語版)に25,000席のスタジアムとレジャー施設の複合施設を建設する方法が模索されたが、結局これは実現せず、代わりに市の評議会はザ・デルから1.5マイル(2.4キロメートル)ほど離れた市の中心地のガス作業場跡地に新しいグラウンドを建設する許可を出した。 サウサンプトンFCは、かつて、移転予定地の近所のセント・メリーズ教会(英語版)のメンバーによって、「セント・メリーズ・チャーチ・ヤング・メンズ・アソシエーション」(セント・メリーズ教会青年会)として創設され、その後、「サウサンプトン・セント・メリーズFC」、そして最終的に現在の「サウサンプトンFC」へと変更されたという経緯があったことから、この移転はクラブの里帰りとして話題となった。 工事は1999年12月に着工され、2001年7月末に完了した。スタジアム自体の建設と周辺のインフラ整備を含めて総額で3,200万ポンドの資金が投入された。 セインツ(サウサンプトンFCの愛称)は2001年8月にザ・デルから新スタジアムへと移転し、収容人数わずか15,000人強で新スタジアムの半分にも満たない旧スタジアムはその役目を終えた。新スタジアムでの初試合は2001年8月1日のRCDエスパニョール戦で、この試合はエスパニョールが4-3で勝利を収めた。 このスタジアムで初のハットトリックを達成したのはサウサンプトンの選手ではなく、サウサンプトンの試合でもなかった。オールダーショット・タウンFCのスタフォード・ブラウン(英語版)は、2002年5月1日、ハンプシャー・シニア・カップ(英語版)決勝のハヴァント・アンド・ウォータールーヴィルFC戦で3ゴールを挙げ、3-1でチームを勝利に導いた。
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スタジアムの歴史
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「リンカーン・フィナンシャル・フィールド」の記事における「スタジアムの歴史」の解説
1994年5月6日、ロサンゼルスの映画会社チェストナット・ヒル・プロダクションズの社長兼CEOを務めていたジェフリー・ルーリーが、1億9500万ドルでイーグルスを買収。ルーリーは即座に新スタジアム建設を表明した。当時の本拠地スタジアムだったベテランズ・スタジアムに対しては、人工芝グラウンドのコンディションの悪さや、アメフトと野球の兼用であることなどに不満の声が挙がってきていた。 1999年2月2日、ペンシルベニア州当局は新スタジアム建設へ公金を拠出することを認可。続く2000年12月9日には、フィラデルフィア市当局が建設資金の一部を負担することでイーグルス側と合意した。2001年5月7日、起工。 2年以上かけて建設された新スタジアムは、2002年6月3日にリンカーン・ナショナル・コーポレーションが命名権を20年1億3960万ドルで取得したため「リンカーン・フィナンシャル・フィールド」と名付けられた。2003年8月3日、マンチェスター・ユナイテッド(プレミアリーグ)-FCバルセロナ(リーガ・エスパニョーラ)のサッカー親善試合で開場。初めてアメフトの試合が行われたのは同年8月22日、イーグルス-ペイトリオッツのエキシビジョン・ゲームだった。同年9月8日のイーグルス-バッカニアーズ戦はNFL公式戦初試合ということで、マンデーナイトフットボールで中継されるなど注目を集めたが、地元イーグルスはバッカニアーズに0-17の完封負けを喫した。 サッカーでは、2003 FIFA女子ワールドカップ開催地のひとつとなった。2016年にはコパ・アメリカ・センテナリオが開催された。 また、2026 FIFAワールドカップの会場としても使用される予定である。
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スタジアムの歴史
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「ジレット・スタジアム」の記事における「スタジアムの歴史」の解説
1990年代に入り、ペイトリオッツの本拠地フォックスボロ・スタジアムが老朽化し、経済的にも収益の増加が望めない状況になった。そのためペイトリオッツは「NFL内で競争力を保つためには新スタジアムを建設し、その効果で増収を狙うべき」と判断した。1988年からフォックスボロ・スタジアムの所有者だったロバート・クラフトは、1994年にはペイトリオッツを買収。新スタジアム建設へ模索し始めた。 クラフトはボストン市やロードアイランド州の当局と交渉したが、いずれも決裂。次にコネチカット州と会談し、同州ハートフォードに新スタジアムを建設することで合意に達したが、NFL機構や他方から横槍が入ったため撤回せざるを得なくなった。 その後クラフトは、フォックスボロ・スタジアムに隣接した国道1号線(Route 1)沿いの土地に新スタジアムを建設することにした。1999年12月6日、フォックスボロ町は建設計画を承認。2000年3月24日、起工した。 2002年5月11日、ニューイングランド・レボリューションの試合で開場。9月5日にはローリング・ストーンズがフォーティ・リックス・ツアー・コンサートを開催した。4日後の9月9日、盛大なオープニング・セレモニーと共にペイトリオッツの新本拠地初試合が開催された(スティーラーズ戦)。 この地でペイトリオッツと戦うチームは、特に冬場の積雪や強風、フィールドの凍結に苦しめられることもあり、ペイトリオッツはジレット・スタジアムでの試合に滅法強い。2002年12月9日から2005年9月8日まで本拠地21連勝を達成するなど、レギュラーシーズン、プレイオフ合わせて30勝6敗(勝率.833)を記録している。 2016年1月1日にはNHLウィンター・クラシックが開催。カナディアンズが5-1でブルーインズを下した。 2026年開催の2026 FIFAワールドカップの会場として使用される予定である。
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スタジアムの歴史
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「ファーストエナジー・スタジアム」の記事における「スタジアムの歴史」の解説
クリーブランド・ブラウンズはかつてミュニシパル・スタジアムを本拠地にしていたが、1995年シーズン終了後、オーナーのアート・モデルがチームをメリーランド州ボルチモアへ移転させ、チーム名を“ボルチモア・レイブンズ”と改めた。1996年2月、NFL機構は「ブラウンズは1996年からの3年間活動停止し、1999年に新しいスタジアムで活動を再開する」と発表した。つまり、レイブンズは1996年シーズンに創設された新規球団の扱いとなり、ブラウンズのフランチャイズヒストリーはレイブンズではなく1999年に誕生する新ブラウンズが引き継ぐこととなった。 1996年シーズン終了後、クリーブランド市はミュニシパル・スタジアムを取り壊して新スタジアム建設用の土地を確保した。1997年5月15日に新スタジアム建設が開始され、1999年8月21日に開場、同時にブラウンズも再始動した。 クリーブランド市は当初、当スタジアムの命名権スポンサーを募集していなかった。これは1990年代以降に建設されたアメリカ国内のスタジアムでは珍しい事例である。ただ、スタジアム名ではなく、スタジアムの4つの入場ゲートの命名権を企業に販売している。 南西の入場門:クリーブランド・クリニック・スポーツ・ヘルス・ゲート 南東の入場門:ナショナル・シティ・ゲート 北西の入場門:ファーストエナジー・ゲート 北東の入場門:STERISゲート 2013年1月、クリーブランド市は当スタジアムの命名権をファーストエナジー社に売却すると発表。これにより「ファーストエナジー・スタジアム(FirstEnergy Studium)」と呼ばれることとなった。
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スタジアムの歴史
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「グリフィス・スタジアム」の記事における「スタジアムの歴史」の解説
グリフィス・スタジアムが建っていた土地には、元々1891年からバウンダリー・フィールドという野球場があった。その球場は1891年からワシントン・セネタースが本拠地として使用したが、1900年にリーグが縮小された際、セネタースは削減対象となり解散した。 1904年、アメリカンリーグのワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)がアメリカン・リーグ・パークからバウンダリー・フィールドがあった場所に移転してきた。セネタースは前本拠地からスタンドなど設備を移築し、新球場の名前を前本拠地と同じ「アメリカン・リーグ・パーク」にした。ワシントンD.C.という立地から、大統領も観戦に訪れたりしていたが、客足は芳しくなかった。そして1911年3月17日、配管工がもっていた溶接用の小型バーナーから出火し、アメリカン・リーグ・パークは全焼してしまった。 シーズン開幕が目前に迫っていたため、新球場の建設が急ピッチで進められた。しかし開幕までに間に合うわけもなく、仕方なく4月12日、ほとんどの部分が未完成のまま開場した。新球場が全面完成したのはシーズン半ばのことだった。新球場はナショナル・パーク(National Park)と名付けられた。 その後、1920年にセネタースのクラーク・グリフィス球団オーナーの名を取って球場名をグリフィス・スタジアムに改称した。グリフィス・スタジアムは1937年からはNFLワシントン・レッドスキンズの本拠地にもなり、野球とアメリカンフットボールの兼用球場となった。またこの頃にはニグロリーグのホームステッド・グレイズの試合も開催されていた。グリフィス・スタジアムはワシントンD.C.のスポーツの中心地だった。 1950年代に入り、セネタースの観客動員が減少し始めた(1946年から1950年までの5年間で1試合平均約10750人を動員していたのが、1951年から1955年までの5年間で同約7600人まで減少している)。球団は移転を検討し始め、最終的にミネソタ州へ1960年シーズン終了後に移転することに決定した。またレッドスキンズも、グリフィス・スタジアムの老朽化が進んでいたので1961年からは新しく建設されたロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムへ移転することになった。 1961年にはメジャーリーグが球団拡張を実施し、新たなワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャーズ)が誕生した。しかし新セネタースがグリフィス・スタジアムを本拠地として使用したのは最初の1年のみで、その翌年にはロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムへ移転した。使い手がなくなったグリフィス・スタジアムは1965年に取り壊され、跡地にハワード大学病院が建設された。
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スタジアムの歴史
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「メモリアル・スタジアム (ボルチモア)」の記事における「スタジアムの歴史」の解説
ヴェナブル・パークという未開発地域にメモリアル・スタジアムが開場したのは1922年のことで、当時はミュニシパル・スタジアム(Municipal Stadium)、ボルチモア・スタジアム(Baltimore Stadium)、ヴェナブル・スタジアム(Venable Stadium)などと呼ばれていた。アメリカンフットボール用に建設された馬蹄型のスタジアムで、南側を除く三方をスタンドが取り囲んでいた。開場初期には、アーミー・ネイビー・ゲーム(陸軍士官学校と海軍兵学校の対抗戦)を含むカレッジフットボールの試合が多く開催された。 1944年夏、MiLBインターナショナルリーグに参加していたボルチモア・オリオールズの本拠地オリオール・パークが火災によって焼失。本拠地を失ったオリオールズはミュニシパル・スタジアムを野球ができるように改修した。この年オリオールズはジュニア・ワールドシリーズを制したのだが、このときミュニシパル・スタジアムで開催された試合には、オリオール・パークには入りきらないほどの大観衆が集まり、その年のワールドシリーズを観客動員で上回った。このことが大リーグ各球団オーナーの目にとまり、ボルチモアは「魅力的な移転先の一つ」と認識されるようになった。 ボルチモア市はこれを受け、大リーグやプロ・フットボールの使用にも堪えるようスタジアムを改修。650万ドルをかけた工事は1950年に竣工し、31,000人収容の大スタジアムとなった。また改修に併せ、スタジアム名も第一次世界大戦及び第二次世界大戦戦死者の名誉を称えメモリアル・スタジアムへと変更した。また、2年前の1948年8月16日に没したボルチモア出身のベーブ・ルースの名前を取ってベーブ・ルース・スタジアム(Babe Ruth Stadium)と呼ばれることもあった。 1953年にはNFLに新球団コルツが誕生。また翌1954年には大リーグのセントルイス・ブラウンズがセントルイスからボルチモアに移転し、チーム名をボルチモア・オリオールズに変更。この両チームは共にメモリアル・スタジアムを本拠地にした。 しかし、1970年には第5回スーパーボウル制覇、1975年からはAFC東地区三連覇を達成するなど強豪チームだったコルツもその後は成績がふるわず、1983年限りでボルチモアを去りインディアナ州インディアナポリスへ移転。一方のオリオールズも1988年に新球場の建設を発表し、1992年からオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズへ移った。 1994年からはCFLスタリオンズ、1996年からはNFLレイブンズの本拠地となったが、それも2年ずつしか続かなかった。メモリアル・スタジアムは1997年12月14日に閉場し、2001年4月から10ヶ月かけて解体され、残骸はチェサピーク湾の人工暗礁の形成に使用された。
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スタジアムの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 17:55 UTC 版)
スタジアムという言葉は、古代ギリシアの「競技場」を意味したギリシャ語「スタディオン (στάδιον)」に由来する。日本語に直訳すれば「(人々が)立つ(所)」であり、観客席を「スタンド(stand)」と呼ぶのもこれに由来する。 現在知られているうちで最も古いスタジアムはギリシャ、ペロポネソス半島西部の、オリンピアのものである。ここでは紀元前776年以降古代オリンピックが開催された。最初はスタジアムの端から端まで走る短距離走だけが競技として行われていた。そのため、競争で走る距離として、オリンピアのスタジアムの長さ(約190m)が大なり小なり標準的なものと考えられた。この長さはローマにも引き継がれ、180m-200mというトラックの長さが標準とされた。長さの単位であるスタディオンはこれに由来し、メートル法では177.6mである。 科学的に興味深い事実として、走る距離が約200mを超えると、それ以下の距離よりも最高速度を落とさないと人間の身体が耐えられないことが知られており、近現代の陸上競技の成績もそうなっている。ギリシャやローマの古代都市の多くにスタジアムが見つかっているが、その中でもローマのチルコ・マッシモやギリシャのドミティアヌス帝の時代につくられたスタジアムが特に良く知られている。
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