運用・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 06:08 UTC 版)
太平洋戦争では、本来の任務である戦艦の着弾観測に活躍する余地がなかったため、ほぼ水上偵察機として使用されていた。 しかし、本機は複葉機ながら補助翼の一部を除き全金属製の近代的な機体で、無類の安定性と高い格闘性能を持っており、単葉で優速な二式水上戦闘機よりも軽快だったという。特設水上機母艦「神川丸」や「國川丸」にも配備され、アリューシャン方面やソロモン方面ショートランドなどに展開。船団護衛、対潜哨戒、敵施設の爆撃、さらにはその卓越した空戦性能を生かしての離島の基地における防空など、時として二式水戦と肩を並べ、様々な任務で幅広く活躍した。その他、バリクパパン方面やアンボン方面にも進出している。 太平洋戦争の中期までは戦闘機の代わりとして米戦闘機や爆撃機と空中戦を行うこともしばしばあり、複葉複座の水上観測機ながら敢闘、零戦隊と協力してのP-38 ライトニングの撃墜報告や、P-39 エアラコブラ、F4F ワイルドキャットの撃墜報告などを行っている。駆逐艦によるガダルカナル島への強行輸送作戦「鼠輸送」従事中、たびたび零観の援護を受けた田中頼三第二水雷戦隊司令官は、零観隊の掩護に感謝の言葉を述べている。 速度性能と武装で決定的に不利となった1945年(昭和20年)2月16日ですら、アメリカ本土空襲で有名な藤田信雄少尉が操縦する鹿島空の零観が本土に来襲したF6F ヘルキャットを迎撃し、格闘性能を活かして1機を未確認撃墜(藤田は機首7.7ミリ機銃の射撃によるエンジン発火状態での撃破確認であるが、近隣の香取空がF6Fの地上墜落を確認している)するという戦果を上げた(ただし、藤田と共に同時に迎撃した5機の零観のうち2機は出撃直後に機銃故障で避退、残りの3機のうち2機は撃墜され、2機の二式水戦は1機が撃墜されている)。 1943年(昭和18年)以降は船団護衛や対潜哨戒が主務となり、第一線からは退いたが終戦まで活動を続け、一部の機体は特攻機として沖縄戦で使用された。また、複操縦装置を搭載した練習機型が零式練習用観測機(F1M2-K)として生産されている。生産は三菱の他佐世保工廠でも行われ、総数は約708機(三菱528機(試作機4機含む)、佐世保約180機)である。生産数については1,118機、1,005機などの説もある。
※この「運用・評価」の解説は、「零式観測機」の解説の一部です。
「運用・評価」を含む「零式観測機」の記事については、「零式観測機」の概要を参照ください。
運用・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/01 05:51 UTC 版)
「ウースター級軽巡洋艦」の記事における「運用・評価」の解説
本級の建造は10隻がニューヨーク造船所に割り当てられたが、太平洋戦争の終結と共に1945年1月一番艦CL-144ウースターと同年5月二番艦CL-145ロアノーク の2隻が起工されただけにとどまり、残りの8隻は同年3月にキャンセルされた。2隻だけ建造されたウースターとロアノークは1948年と1949年に就役し、1958年には退役してモスボール処理がなされた。 戦後に完成したウースター級は、自動装填型両用砲を主砲とした革新的な軽巡洋艦であったにもかかわらず、就役時点で既にコンセプトは陳腐化していた。ジェット化による航空機のスピードの増大、小型・俊敏な戦闘爆撃機の一般化に伴い、大口径の自動砲は対空兵器として能力不足とされ、自国の艦隊を空襲から守るには艦対空ミサイルや小口径砲の方がより適していることが判明したからである。また、船体設計の面では大型化を避ける意図で海面から低く設計された乾舷は甲板が波浪の影響を受けやすいとされ結果的には設計思想、装備、運用、就役時期も踏まえ非常に失敗した軽巡洋艦のクラスである。 本級はデモイン級のように生涯を引き延ばすに足る副次的な任務を見出すことができなかったが、唯一朝鮮戦争で空母任務部隊の護衛と上陸部隊の支援砲撃に従事することができた。本級は艦砲を主武装とした最後の軽巡洋艦であり、次世代の巡洋艦は誘導ミサイルを主兵装とする事になった。
※この「運用・評価」の解説は、「ウースター級軽巡洋艦」の解説の一部です。
「運用・評価」を含む「ウースター級軽巡洋艦」の記事については、「ウースター級軽巡洋艦」の概要を参照ください。
運用・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 15:02 UTC 版)
水上戦闘を主任務とする伝統的な重巡洋艦としては、本級は優れた火力、速力、耐航性、防御力を発揮した。すくなくとも、第二次大戦型の戦闘においては、敵水上襲撃部隊から輸送船団や空母任務部隊を護衛する艦として最適なクラスであったと言える。しかしながら、ミサイル全盛時代を迎えた戦後の海軍力整備の観点からすると、砲撃による艦隊戦に勝利することを目的に建造された本級は、就役時点で既に旧式艦であったとも言える。加えて、ネームシップであるデモインが就役した1948年11月には、すでに敵水上艦艇との戦闘が生起する可能性はほとんど無くなってしまっており、この点からしても、本級の登場は遅すぎた。 しかしながらデモイン級三隻の能力は、陸上砲撃任務を通じて移動砲台としての機能を担ったほか、かつての弩級戦艦に引けを取らない規模と威容は艦隊の旗艦を務めるには最適なものであったため、一番艦デモイン (USS Des Moines, CA-134) は地中海に展開する第6艦隊旗艦に就き、二番艦セーラム (USS Salem, CA-139) は第6艦隊と大西洋艦隊第2艦隊旗艦を務め、三番艦ニューポート・ニューズ (USS Newport News, CA-148) は第2艦隊の旗艦を務めた。
※この「運用・評価」の解説は、「デモイン級重巡洋艦」の解説の一部です。
「運用・評価」を含む「デモイン級重巡洋艦」の記事については、「デモイン級重巡洋艦」の概要を参照ください。
運用・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:57 UTC 版)
「CL-154級軽巡洋艦」の記事における「運用・評価」の解説
本級の建造は6隻が予定されたが、1945年3月にキャンセルされた。建造予定の造船所は不明である。本級は未完成に終わったため、直接の評価は出来ないが、結果として、アトランタ級、ジュノー級は、ジュノー (CL-119)以外は1950年までに退役し、遥かに大型のウースター級も、ジェット機及びミサイル時代に防空艦としての活路を見出せず、全て1950年代中には退役を余儀なくされた事実から、本級も、同様に防空艦としての意義を早々に失い、退役を余儀なくされたものと考えられる。また、仮に建造され、ミサイル時代に対応することになったとしても、ボルチモア級重巡やクリーブランド級軽巡のような大改造を行う余地はなく、改装した場合も、全面改装とならないためにターター・システム搭載にとどめた場合でも、改造費用や搭載弾数などから、実際に搭載改造を行ったミッチャー級駆逐艦やフォレスト・シャーマン級駆逐艦に対して、低い費用対効果と判定され、改装は見送られ、結果的に50年代中の退役は避けられなかった可能性が高い。
※この「運用・評価」の解説は、「CL-154級軽巡洋艦」の解説の一部です。
「運用・評価」を含む「CL-154級軽巡洋艦」の記事については、「CL-154級軽巡洋艦」の概要を参照ください。
運用・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 03:13 UTC 版)
1943年12月21日に強風は制式採用されたが、既にその時期にはソロモン方面の戦いはアメリカ軍の勝利で決着し、日本は絶対国防圏の死守を唱えて守勢に回っており、島嶼部での侵攻を目的に開発された本機の活躍の場はほとんど消滅していた。そのような状況ではあったが、制式採用と同時に強風はインドネシアのアンボン島やマレー半島西岸沖のペナン島に展開していた水上機部隊に配備され、少数ではあるもののB-24やその哨戒機型のPB4YおよびB-29の撃墜破を報告している。対爆撃機戦闘の際は時限起爆式の30kg爆弾を敵機上方から投下しその爆発によりダメージを与えるという戦法を採ることが多かったようである。一方、日本本土では佐世保航空隊や大津航空隊(琵琶湖)に配備されて防空任務についていたが、戦績はほとんど皆無であった。そのほか菊水一号作戦の直掩などにも使用された。 なお1945年2月16日、千葉県館山沖で1機の強風が零式艦上戦闘機と交戦中のF6Fに横槍を入れるかたちで戦闘に突入、格闘戦の末、1機の撃破を報告している。これは強風が敵戦闘機に対して挙げた唯一の戦果であるという。 結局本機は登場時期を逸し、本来つなぎ的存在であったはずの二式水上戦闘機の方が活躍するという結果に終わってしまった。しかしこのような事情があったからこそ強風は紫電の母体となったとも言える。当時の海軍も強風が時局に見合わない存在であることを見抜いていたので発注数は予定より大幅に削減されたが、それは川西に事業の不振を懸念させ、本機を陸上機化した紫電の開発を促すことになった。紫電とその改良発展型である紫電改は層流翼や自動空戦フラップといった本機の特徴を受け継ぎ、大戦末期に最後の奮戦を見せることになる。 強風の生産は川西のみが行い、総生産数は試作機を含めて97機であった。この内31機程が終戦時に残存していた。なお生産された全ての機体は強風一一型に分類されるが、紫電二一型を水上機としてフィードバックした強風二二型という派生型の開発計画があったとされている。
※この「運用・評価」の解説は、「強風 (航空機)」の解説の一部です。
「運用・評価」を含む「強風 (航空機)」の記事については、「強風 (航空機)」の概要を参照ください。
運用・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 10:03 UTC 版)
「Tu-4 (航空機)」の記事における「運用・評価」の解説
1947年5月19日に初飛行し、8月3日にモスクワで行われた航空記念日パレードで初めて披露されたTu-4は、その後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、1949年半ばにはソ連戦略爆撃軍で本格的に運用された。Tu-4Aはソ連初の核兵器RDS-1を投下した最初の航空機であった。 一方、アメリカ空軍は片道飛行の「特攻」であれば、Tu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや地対空ミサイルなどの防空設備の開発を急ぐこととなった。まさに日本の広島・長崎に対し行った都市への核兵器による攻撃を、自分たちの兵器のデッドコピーにより受けるのではないかという恐怖であった。 アメリカ人はB-29のあからさまなコピーなのをみてTu-4を「ボーイングスキー」と呼んだという。これは、「ロシア人には○○スキーという姓が多い」というステレオタイプに基づいた命名である。 Tu-4は、後継機が登場する1950年代の終わりまで製造され、空対地ミサイルのKS-1(英語版)やソ連初の無人航空機であるLa-17(英語版)を翼下に懸吊したTu-4KやTu-4NMも開発された。また、多くの機体は研究用の機体として活用された。しかし、後継機であるTu-16やTu-95などが実戦配備されたために早々に退役した。その内数機は博物館に展示されている。
※この「運用・評価」の解説は、「Tu-4 (航空機)」の解説の一部です。
「運用・評価」を含む「Tu-4 (航空機)」の記事については、「Tu-4 (航空機)」の概要を参照ください。
- 運用・評価のページへのリンク