秦六大将軍(旧)
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王騎(おうき) 声 - 小山力也 / 中田譲治(PSP) 演 - 大沢たかお 六大将軍の一人。得物は大矛。かつて昌文君と共に昭王に仕え、中華全土から讃えられた武人。本家の王翦らと違い、分家の出。ありとあらゆる戦場にどこからともなく参戦し、その武で猛威を振るったことからついた異名が「秦の怪鳥」。オカマっぽい口調で慇懃無礼な言葉遣いや「ココココ」などという独特な笑い方をするが、個人的武勇と戦場全体を見渡せる知略の双方を兼ね備える、最強の六大将軍。また摎の出生の秘密を知る一人であり、想われ人でもあった。 昭王に心酔し、その亡き後は一線を退いていた。気まぐれで竭氏陣営に付き昌文君と争うが、昌文君から政の評価を聞き竭氏陣営にいながら秦王派を援護する行動 に出る。王都奪還戦では終盤に兵を率いて登場し、竭軍将軍・魏興を討ち戦いを止めて政と問答し、未熟と一蹴しつつ彼を認める。蛇甘平原編では、魏国に亡命した廉頗を見舞いに行く途中で通り掛かり、あくまで丘に登りたいという名目で魏軍を一蹴しそこで邂逅した信に大将軍が如何なる存在かを示唆した。呉慶戦死後、魏将軍・白亀西の前に立ちはだかり撤退させた。 馬陽編にて突如として復帰し、蒙武を退けて秦軍総大将となる。序盤は飛信隊を使って趙将軍・馮忌を葬り、後に趙将軍・渉孟を自ら討ち取るが、深追いし過ぎた蒙武の救援に向かったところを趙本軍と李牧の別動隊との挟み撃ちに遭う。そして、ほぼ互角だった龐煖との一騎討ちにて、止めの一撃を加える好機を得るも「中華十弓」の魏加から不意に狙撃されたために龐煖の矛に胸を貫かれた。その後、致命傷を負いながらも包囲を突破し、騰や蒙武、信に言葉を残し、最後に信に大矛を託して力尽き死亡した。出陣直前に政を仕えるべき主と認め、昭王に託されていた遺言を伝えていた。 白起(はくき) 六大将軍筆頭。故人。危険を冒さず、相手がムキになるほど力を抜いて勢いをかわす戦い方をし、廉頗から「六大将軍の中でも最もやりづらい」「正真正銘の怪物」と評される。 長平の戦いにおいて秦軍総大将を務め、投降した趙兵四十万人を全員生き埋めにするという無慈悲な決断を下した。 摎(きょう) 声 - 高梁碧 六大将軍の一人。六将の中で最も謎に包まれているとされる人物。故人。六将最年少にして、苛烈さは六将随一と言われており、かつて戦ったことのある廉頗も笑いながら殊更酷いと思い返す程。 その正体は、昭王の実の娘。昭王の子ながら生母の身分が低く、暗殺を危惧した母親によって王騎の屋敷に引き取られた。母親はその後焼身自殺し、あたかも娘と共に心中あるいは権力争いによって殺害されたかのように見せかけ、娘を守った。 本人はその事実を知らず召使いとして育てられ、同時に王騎を間近で見てきたことにより武人へと成長。戦場へ出るより前の幼いころに王騎と「将軍になって城を百個とったら妻にしてください」という約束をしており、そのために召使いという身分であったが、王騎の側近として幾度も戦場へ出ていた。 その後、昭王との対面で互いに親子であることを感じ取るが、公に出来ず暗黙の了解となる。このころより、素性を探られることを防ぐために顔の上半分を覆う兜を付けるようになった。それから戦果を挙げ続け、将軍となりさらに戦の才能を開花させ、六人目の大将軍に任命された。馬陽に侵攻した際、突如現れた龐煖との一騎打ちで力及ばず落命。皮肉にも馬陽が約束の百個目の城であった。この事実が与える影響が大きいと判断した王騎と昌文君によって、病死したことになっていた。 王齕(おうこつ) 六大将軍の一人。故人。六将随一の怪力豪将と呼ばれ、得物は長柄大斧。かつて人知れず楚へ侵攻した際、汗明との一騎討ちに敗れて撤退していると汗明は語ったが、真偽は不明。 胡傷(こしょう) 六大将軍の一人。故人。六大将軍唯一の軍師出身にして随一の智将。自由に戦っていたという六将も、実際には胡傷が戦略の大枠を作り、皆がそれに従っていたと言われている。昌平君の師でもあり、王翦を高く評価していた。 司馬錯(しばさく) 六大将軍の一人。故人。
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秦六大将軍(新)
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蒙武(もうぶ) 声 - 楠大典 / 渡辺優里奈(幼い頃) 呂不韋四柱の一人で秦将軍→大将軍→六大将軍第一将。蒙驁の子であり蒙恬・蒙毅の父。得物は大錘。戦闘方法は、己の武力を筆頭に士気を高めた兵で一気に押し潰す、軍師泣かせの力技。列国からは猪突猛進という評価を受けているが、兵の士気を上げるために戦を使って練兵をする等、軍への理解は深い。 馬陽編では、秦軍副将となる。序盤こそ武力で勢いに乗るが、終盤では趙荘の策によって壊滅寸前の窮地に陥る。その後、王騎を戦場から離脱させるために突破口を開き、王騎から秦軍の顔になるべき一人とこれからのことを託される。合従軍編では、騰軍と共に楚軍を担当。15日目に楚大将軍・汗明を一騎討ちの末に討ち取って汗明軍に再起不能の打撃を与えたばかりか、撤退する合従軍を猛追してさらに打撃を与えた。その後の論功行賞では、第一功として大将軍に任命された。 毐国建国宣言後、秦国に侵攻してきた楚軍を蒙恬と共に迎撃した。始皇十二年に楚の什虎に三万の兵を率いて侵攻し、魏の返答を待たずに開戦。中央突破による満羽軍本陣壊滅を狙うが、出陣した満羽を見て標的を変更するも辿り付けず失敗。魏軍と合流後は騰と共に満羽・項翼軍と対峙。乱美迫軍の助攻を得て騰軍とともに満羽軍に突撃し、満羽軍近衛兵団「迅戈」を撃破して満羽と一騎打ちするが、先に敵本陣が陥落したため決着を付ける前に什虎軍が撤退する。始皇十三年、六大将軍第一将に任命される。 騰(とう) 声 - 加藤亮夫 演 - 要潤 王騎傘下筆頭将軍。王騎軍副官→秦将軍→大将軍→六大将軍第二将。得物は剣。常に王騎の傍に控えており、普段は飄々としてポーカーフェイスを崩さない御茶目な紳士だが、王騎から「私に見劣りしない」と評価される実力を持つ。自ら先陣を率いることが出来る高い武力に軍師並みの頭脳を併せ持ち、呉鳳明が長年に亘り王騎の副将をして来た実績と経験からくる隙のなさなどから秦将の中で一番警戒している程である。王騎へ答える時は、「ハ。○○です」と答えることが多い。片手に持った剣を高速回転させ、撫で斬りにする。その際、「ファルファルファル」という独特の擬音が出る。 馬陽編では、終盤で趙軍本陣に突撃して趙将軍・趙荘を討ち取り、その後で王騎から王騎軍の全てを託された。合従軍編では、七将の一人として蒙武軍と共に楚軍と対峙。初日に楚将軍・臨武君を一騎討ちで討ち取り、その後は媧燐軍と激闘を繰り広げた。著雍編では、秦軍の更なる強化を見据え、信と王賁に主攻を託し、攻略に成功。この功により、秦国第二位の大将軍に任命された。 鄴編では、鄴陥落後に魏の前線から北上し、趙軍に塞がれていた列尾を落とすべく向かうも、敵が撤退したことで難なく制圧する。什虎では蒙武への援軍のために二万を率いて録嗚未と共に参戦し、千斗雲軍と対峙。魏軍と合流後は蒙武と共に満羽・項翼軍と対峙。乱美迫軍の助攻を得て騰軍とともに突撃し、本陣を落として寿胡王の生け捕りに成功する。始皇十三年、六大将軍第二将に任命される。 王翦(おうせん) 声 - 堀内賢雄 蒙驁傘下将軍→秦将軍→大将軍→六大将軍第三将。王賁の父親で、王一族の現頭首。得物は矛。元蒙驁軍所属。 恐ろしい形相を模した鎧に身を包み、目元を隠す仮面を付けており、作中では素顔を晒したことがない。秦六将・胡傷に「軍略の才だけで六大将軍の席に割って入ることの出来る」、三大天・廉頗から「白起に匹敵」、秦国内では「王騎と同等」と評価される名将だが同時に秦国一の危険人物とされ、長年冷遇されていた。その理由として、自らが王になりたいという野望を抱いているからという噂がある。無謀な賭けはせずに常に常勝の策を持って戦に臨んでいるため、蒙鰲の下で一緒に副将を務めていた桓騎からは「負ける戦は絶対にしない」と評されている。 山陽編では秦軍左軍を指揮して姜燕軍と対峙し、壁軍を囮に使い窪地に姜燕軍を誘い込み包囲するが、廉頗が現れたことで分が悪いと判断し後退。その後、秘かに築いていた山砦に籠城、虎視眈々と出撃の機会を狙っていたがそのまま終戦となる。合従軍編では、燕軍を担当。15日目には燕軍を終始翻弄しつつ、さらに函谷関の裏手に現れた楚軍を一掃して、函谷関陥落の危機を救った。 鄴編では三軍の総大将として参戦。列尾では李牧による罠を見抜くと、昌平君の戦略を放棄し己の立てた戦略による継戦を決断し、列尾を放棄し全軍で趙国王都圏に侵攻。そして、鄴に難民達による兵糧攻めを仕掛けた後、鄴を桓騎軍に任せ、鄴を解放しようとする趙軍を迎え撃つべく朱海平原で秦軍中央軍から総指揮を担う。十五日目の中央軍同士の会戦では李牧の戦術を見破り戦況を優位に進め、朱海平原での決戦が決着した後は、鄴へ向かった李牧軍を速度を重視した精鋭を選抜して追撃する。その後、鄴に潜入させた配下達に兵糧を焼き払わせたことにより、生じた難民達の暴動によって鄴を陥落させる。さらに出撃前に鄴の陥落後に発生すると予測した兵糧問題を、昌平君に頼んで秦国とは逆側の斉国に援助してもらうことで打開。のちに趙軍が鄴一帯から撤退したことで鄴攻略に成功。その後、最前線で扈輒軍と対峙している。始皇十三年、六大将軍第三将に任命される。武城を攻めている最中自ら邯鄲へ偵察に赴くが、そこで李牧が築いた長城を発見。北方の宜安の攻略を目指す。 楊端和(ようたんわ) 山民族王兼秦大将軍→六大将軍第四将。山の民参照。 桓騎(かんき) 声 - 伊藤健太郎 蒙驁傘下将軍→秦将軍→大将軍→六大将軍第五将。元は秦南方の野盗団の首領。元蒙驁軍所属。独自の兵法を駆使し、自軍の将校ですら予測不能な奇策を得意とする軍略家。野盗時代に落としたある城邑の住民全員の首を自ら斬り落とした逸話から「首斬り桓騎」の異名を持ち、将軍となっても投降兵諸々を殺してしまう残忍な性格の持ち主。傲岸でもある一方、蒙驁には敬服している。砂鬼によると、桓騎の中にある根源は「全てへの激しい怒り」であることを那貴に語っていた。その考えは王翦ですら読めなく、王翦からは「狂っている」と言われる程。傘下の兵や将校達は元々はそれぞれ別の野党団であり、桓騎がそれらを一つ一つ説得したり、潰したりしていって取り込んでいった。勝つためなら民間人への残虐な行為や非道な策や自軍の兵の多くの死も厭わない。 山陽編では、秦国右軍を指揮し、遊撃戦で介子坊軍を翻弄。敵伝令兵に変装して廉頗四天王・玄峰を討ち、その後も敵本陣を奇襲して魏大将軍・白亀西を討って勝利に貢献。合従軍編で函谷関の守将の一人に抜擢され初日に「巨大井闌車」を焼き尽くし死守。さらに15日目には「巨大井闌車」を逆に利用し地上に降り、張唐と自軍の僅かな兵で韓軍本陣に奇襲をし、張唐に成恢を討ち取らせる貢献を果たす。秦国統一編で函谷関から敗走する毐国軍を迎え撃ち、毐国王・嫪毐を生け捕る。 黒羊編では、総大将として飛信隊と共に慶舎軍と対峙。3日目に敢えて一切何もしないことで慶舎を怒らせ、4日目には慶舎を誘い込んで討ち取りに掛かる。信が慶舎を討ち取った後に総大将が紀彗に変わったのが分かると、捕らえていた趙兵を拷問したことで紀彗の過去と離眼兵の関係を知り、その後は手段を択ばぬ非道な戦略により、予想よりも圧倒的に少ない損害で黒羊を奪取。 鄴編では、三軍連合軍の一角として参戦。王翦が鄴へ兵糧攻めを仕掛けた後は、鄴包囲軍を担当する。鄴の兵糧が焼かれて失ったことを知ると、兵士らを使い降伏を呼び掛けて城内の難民達の暴動を煽る。そして、難民達によって城門が解放されるとすぐに攻撃を仕掛けて鄴を陥落させる。始皇十三年、六大将軍第五将に任命される。その後六大将軍の権限で近隣の軍を集め、犠牲を払いながらも進軍を進め扈輒軍が迫っている中でも軍の後退をせずに扈輒軍との戦を始める。大軍勢の扈輒軍に圧倒され味方も次々と脱走を始めて総崩れとなる中、岳白軍を撃破した飛信隊に虎白軍五千が向かった隙を突いて敵軍本陣を急襲。逃げようとする扈輒達を先回りして近衛隊と交戦し、趙大将軍・扈輒を討ち死させた。その後、数万人の扈輒軍の捕虜をすべて処刑する暴挙を起こし、政が自ら前線に駆け付けて尋問をする。だが、摩論の弁明と単独で扈輒軍に勝利した功績で一応は不問となる。
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