秦以前の爵位
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中国語における爵とは中国古代の温酒器を意味し、三本足の青銅器であり中国の古代王朝ではこの爵を人物の徳や身分を指す概念として用いるようになった。その起源は氏族制の時代に宴席での席次を定める習俗にあるとされる。『孟子』(告上篇)には「天爵なる者有り、人爵なる者有り」といい、孟子は忠・孝・仁・義などの人徳を指し天爵と呼び、社会的地位である通常の爵位を人爵と呼んで、制度としての爵位(人爵)を精神的な価値(天爵)の下に置く思想を唱導した。儒教の経典の主張するところによると夏王朝には公・侯・伯・子・男の五等があり、それが殷代には公・侯・伯の三等となり周代には再び五等となったとされる。また『書経』(王制篇)によると公侯伯子男の5位はその領地の大小広狭によって5段階に分けたものである。ただし、例外事項が少なくとも二つあり、第一に諸侯は爵位の上下にかかわらず自国の領内ではすべて公と自称・呼称されるのが礼とされた(爵位はあくまでも周王朝の朝廷における順位にすぎないのに対し、ここでいう公は爵位ではなく「領主」とか「殿様」ぐらいの意味)。第二に周礼によると異民族の国々の首長は領地面積の大小にかかわらずすべて子の爵位しか与えられなかったとされる(これも周王朝内部の建前であり、自国内では公または王を自称した)。この二項は現在残る歴史書の記述にも合致している(ただし異民族の首長が子爵を与えられていると自認していたという考古学的証拠はない)。さらに爵位とは別に「禄位」というものがあり、爵位と禄位が並行されていた。禄位とは公・卿・大夫・士であるが、これは仕える君主(諸侯)が五等爵位のどれであるかによって例えば同じ「大夫」であっても相互の地位の高さに違いがあったり、さらに細かく(例えば上大夫・下大夫のように)分かれたりした。 しかし甲骨文、金文等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究によりこれらの時代に実在した都市国家支配層や共同体の成員には爵位の原型とされる称号はあったものの五等爵のようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。きれいに序列化された五等爵は戦国時代に過去の時代のありかたをもって当時の政権に正当性を与えるために諸子百家により整理され、序列化されたものではないかとする説が有力になってきている。 実際の爵位については、制度としてどこまで整理されたものかは不明だが、いわゆる爵位に該当または類似したものとして、 婦(殷爵。女性の爵位で巫女的な存在。最高位だったが周代では格下げされ士階層の配偶女性をさす言葉になった。例:婦好) 子(殷周共通。殷では王族(王子)の意味で「婦」に次ぐ高位の都市の領主。周代には格下げされ都市共同体の大夫階層をさした。例:微子啓、孔子) 公(周爵。「侯」の中の特別に格付けされたもの。例:周公旦、召公奭) 侯(殷周共通。都市国家の首長) 伯(殷周共通。殷では王権の親衛隊的存在だったが、周では都市国家に従属する小都市の長。例:西伯昌、伯邑考) 叔(周爵。諸侯の兄弟の意で、都市国家に従属する小都市の長。例:蔡叔度、唐叔虞) 亜(殷爵。亜の字は王を取り囲む者の意味で、殷王の親衛隊的存在) 男(殷周共通。殷の下層首長を管理する徴税官的存在。周では都市共同体の大夫階層) 田(殷爵。「男」の下位の首長層) 方(殷爵だが『周礼』における子爵に該当。「邦」の語源で、外国の王や異民族の首長をいう。例:鬼方) の存在が知られている。
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