降伏
降伏(こうふく、こうぶく、ごうぶく)とは、戦争において軍隊、あるいは個々の戦闘員が敵に対する戦闘行為をやめて、その支配下にある地点・兵員・戦闘手段を敵の権力内に置くこと。降服、投降ともいう。広義には抵抗を止めて相手に服従すること。
概要
軍人、その他の戦闘員が指揮官の命令、或いは個々の判断によって戦闘を中止し、捕虜となることである。白旗を掲げたり(白旗の掲示そのものは降伏を表すのではなく、軍使の派遣を要請している意思表示である)、何も持たずに両手を開いて挙げたりすることで投降の意思を示す。海上では白旗に加え、投降側の艦船は自らが降参する意思を持つことを具体的に示さねばならず[1]例えば砲撃・雷撃の停止や機関停止、砲口の向きを外す、戦闘旗を降ろすなど抗戦の意思を持たず武装解除を受ける用意があることを示すことが必要である。投降者は意志に反して傷つくのを避ける事ができ、相手は戦闘を回避できる。当事者双方にとって意味がある事であるので軍使による降伏交渉や降伏勧告が良く行われる。
兵士が個人で降伏する場合、戦場の混乱と戦闘中の激情のもとでその場で殺害されてしまう事例がしばしばあるが、これは戦時国際法(ハーグ陸戦条約23条ハ号)で禁止されており、違反行為は締約国の軍法あるいは国際戦犯法廷で裁かれる。組織的降伏においても、助命・安全その他一定の条件等を約して降伏させた者をそれに反し殺傷することは、背信行為として禁止事項に該当(ハーグ陸戦条約23条ロ号)し、また、助命しないことを宣することも禁止事項となる(ハーグ陸戦条約23条ニ号)ので、実質、助命を条件に降伏してきた兵士・部隊は殺害されることがないよう定められている。降伏の申出は一般に白旗を掲示した軍使によるが(ハーグ陸戦条約32条)、軍使を計略の手段として利用している場合は軍使の不可侵権は失われる(34条)。
降伏の条件や捕虜の権利はジュネーヴ条約やハーグ陸戦条約によって規定されている。
降伏する側が勝利者に対して、約束が確実に果たされるときのみに降伏を受け入れる場合、条件付降伏と呼ばれる。しかし、勝利者が国際法に定められたこと以外に何の約束もしないときや、通告した条件以外での降伏を認めず交渉拒否を宣言する場合[2]、これを受入れることも一般的に無条件降伏と呼ばれる。
国家が戦争および軍事衝突を終結させるために自国の軍を降伏させることがある。この場合、紛争国間の合意や片方の一方的な宣言によりなされるものであり、締約により条約的性格を持つ(降伏条約)[2]。戦時国際法の状況下においては、国際法に合意された諸条約において国家による降伏行為の当事適格性については不分明であるが、慣例的にハーグ陸戦条約付属書36条以降にもとづき休戦協定を結び、のち平和条約の締結をすることになるか、第三款「占領」による戦闘終結のいずれかとなる。この場合、被占領や降伏の帰結として軍を保有する政体が消滅したり(デベラチオ(戦亡)ナチスドイツの後継フレンスブルク政府やイラク共和国フセイン政権など)、亡命政権・抵抗政権にとって替わられたり(南ベトナム共和国など)、干渉戦争(アフガニスタン紛争など)や内戦終結時の終結宣言など、例外も多く一般的なプロトコルがあるわけではない。休戦協定から平和条約に至るまでの複数の条約を降伏条約群と呼ぶことがある。
占領時の戦闘を避けるために国家や軍が都市に無防備都市宣言を出すことがある。これは組織的降伏の一種でありハーグ陸戦条約付属書25条における無防備都市を具体化したジュネーヴ条約追加第1議定書によるもので、戦争中に相手国に対して宣言するものである。平和時に地方自治体が戦争に巻き込まれない事を条例で謳おうとする市民運動については無防備都市宣言#無防備地域宣言運動を参照。
脚注
関連項目
投降
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カスターニョス軍が到着したことでデュポンは和平を要求、スペイン軍と数日間交渉した。交渉のことを知るとヴィーデルは撤退したが、スペインの指揮官がヴィーデル軍が投降しなければフランス軍を惨殺すると脅したためデュポンはヴィーデル軍を呼び戻して降伏させた。自らの剣をカスターニョスに渡すとき、デュポンは「将軍、あなたがたは今日に誇りを持つがいい。なぜなら、20回以上の会戦に挑んだ私が負けたのは今回がはじめだからだ。」と話し、それに対しスペイン人は「誇りを持つべき理由は、私がそんな会戦に居合わせたことは一度もなかったからだ。」と応酬したという。
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投降
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誰が大物バカルターを捕まえるかでFBN、FBI、警察、検察が争った。バカルターは、殺人罪の起訴ではないこと、刑期は10年を超えないことを条件にデューイに密かに自首を打診し、FBIにも似たような打診をしていたと言われた。1938年4月にFBIへ投降して連邦裁判にかけられたパートナーのシャピロは反トラスト法違反で3年刑だった。州検察のデューイはバカルターに250年の刑期に相当する重い告訴を検討していることを公言していた。連邦法(反トラスト法や麻薬取締法)の方が州法(強請や殺人)より総じて刑が軽かったため、バカルターが自首するなら連邦の方だと見られていた。 1939年8月24日、ニューヨークのマンハッタンの街中でフーヴァーFBI長官が待機する車のもとに現れ、自首した。フーヴァーへの口利きはシンジケートの大物に頼ったといわれ(一説にフランク・コステロ)、著名コラムニストのウォルター・ウィンチェルを介してフーヴァーと接触した(ウィンチェルはコステロ、フーヴァーの共通の知人)。身柄確保の現場にはウィンチェルがフーヴァーと一緒に待機していた。ウィンチェルは2日後に事の顛末を自分のコラムに掲載した。新聞は、フーヴァーがバカルターにベストなオファーをしたと報じた。 一説に、フーヴァーとは仲介者を通じて、連邦法で裁かれるのみで州検察へは引き渡されないとの約束を交わし、バカルターはそれを信じて投降したが、投降後、そんな約束はなかったことに気づき、罠に嵌められたと悟ったとも伝えられた。 投降場所や時期はバカルターに近い仲間モー・ディンプル・ウォリンスキーが段取りしたともいう。ウィンチェルによれば、バカルター引き渡しの為何度も電話でやり取りした先方の男は謎の人物で、投降直前に顔を合わせた時、覆面していた。投降時、バカルターにかかる懸賞金は国と州合わせて5万ドルまで高騰していた。 デューイの捜査班を構成するニューヨーク市警の警官が、バカルターを護送中だったFBI捜査官と小競り合いを起こした。警官はバカルターを強引に事情聴取しようとし、FBIに邪険に追い払われた。ニューヨーク市長のフィオレロ・ラガーディアは、「おめでとう。FBIはニューヨーク(当局)に何のメダルもよこさなかった」と皮肉った。
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投降
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1855年2月、アレクサンドル2世が即位し、1857年、友人のアレクサンドル・バリャチンスキー大公をカフカーズ副王に任命した。バリャチンスキー大公は、大規模な軍事行動の外、買収という手段を活用した。シャミールの元からは、次第に人々が離れ、抵抗を継続するには余りに少数の人間しか残らなかった。 シャミールは、グニブ山に撤退し、1859年8月、兵士400人と大砲4門と共にグニブ防衛を準備した。グニブには10個以上の大隊が集結し、バリャチンスキー大公は、シャミールに武器を捨て、和平を締結するよう提案したが、シャミールはこれを拒否した。8月22日~24日、最後の攻撃が行われ、シャミールは少数の部下と共に村の一角に追い詰められた。8月25日、大公は、再び投降を勧告し、シャミールは今度はこれに従わざるを得なかった。大公は、シャミールの投降を歓迎し、彼をロシア皇帝の元に送った。 1859年9月15日、シャミールは、ハリコフ郊外のチュグエフ村でアレクサンドル2世に謁見した。皇帝は、シャミールに金のサーベルを贈り、「最終的にロシアに来てくれたことを非常に喜ばしく思う。もっと早く来てくれなかったことが残念だ。後悔することはないだろう・・・」と語った。 投降後、シャミールは、ロシアの各都市において、「カフカーズのナポレオン」として歓迎された。トゥーラでは武器工場を見学し、豪華な武器と名前入りのサモワールを贈られた。ペテルブルクでは、名誉警衛隊と軍楽隊が出迎え、皇帝の即位式すら凌ぐイルミネーションが灯された。彼がペテルブルクを去る際には、見送りの群集が駅に殺到し、出発が遅れるほどだった。 1859年10月、シャミールは、次男のガジ=マホメドと数人の信頼できる盟友と共に、カルーガに転居した。
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投降
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12月11日、天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞うたものの、幕府軍はこれを斥け、17日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告した。山国兵部らは「降伏」では体面を損なうとして反対したが、総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、ついに加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。 永原は投降した天狗党員を諸寺院に収容し、かなりの厚遇をもって処した。しかし、田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると状況は一変する。関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員を鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められたために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。 この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された。
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藤野中佐は窪田少佐らと会談し、送電が止められている事を告げ、これ以上やっても成功の見込みは無いと言って説得した。窪田少佐らは説得を受けて計画の失敗を悟り、行動中止を決め、その場で藤野中佐らに投降した。 その後、寄居演習隊の高島中隊長も駆けつけ、隊員に帰隊を命じた。更に田中大将が到着し、全員を前に訓示、午後4時頃、隊員はトラックに乗り駅へ向かい、列車で寄居に戻った。この事件の影響で午前6時頃から午後3時頃までの約9時間にわたって関東地方一帯でラジオ放送が停波した。
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投降
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1945年5月8日、ハウデーゲン観測所はトロムソから敗戦を通知されると共に、爆薬と機密文書の処分、および暗号化を解除した気象情報を引き続き送信するように命じられた。しかし、以後は通信が途絶し、観測隊は誰かが受信することを願って気象情報の送信範囲を広げた。それでも応答する者はなく、最終的に連合国軍の救難チャンネルへの送信を開始した。これを受け、ノルウェー当局の依頼によりアザラシ漁船が派遣されることとなった。これ以前にも連合国側ではハウデーゲン観測隊の収容を試みていたが、秘密部隊として扱われ、関連文書も敗戦時に処分されていたため、観測所の正確な位置を把握できていなかった。 1945年9月4日、ノルウェーのアザラシ漁船ブラーセル(Blaasel)がハウデーゲン観測所近くに到着した。ブラーセルの船長ルズヴィ・アルベルトセン(Ludwig Albertsen)は、戦前のスピッツベルゲン島遠征に同行したことがあり、同じ遠征に参加したデーゲとはそれ以来の友人同士だった。デーゲはアルベルトセンを観測隊員らに紹介し、ノルウェー船員らも招いた宴会が催された。この最中、アルベルトセンがデーゲに対して「そういえば、君はまだ投降していないね」と切り出した。デーゲが降伏の意を示すために拳銃を差し出したところ、アルベルトセンは「こいつを土産にしてもいいかね?」と尋ねたという。島を離れた隊員らはノルウェーにて戦争捕虜として収容され、数ヶ月後に帰国を果たした。ハウデーゲン観測隊は、第二次世界大戦において最後に投降したドイツ国防軍の部隊とされている。
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投降
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「ニフティ・パッケージ作戦」の記事における「投降」の解説
10日間にわたる戦意喪失作戦の後、ラボアは、正門にいる米軍兵士に投降する以外の選択肢は無いことをノリエガに告げた。後にタイム誌は、ラボアはノリエガに対して完全に誠実だったわけではなく、世界中のどこの国も彼の避難許可を与えようとしないという偽りをノリエガに伝えていたことを記している。また、ラボアはアメリカ陸軍に対して、もし彼の生命が危険に脅かされていると考えるならば所有地を攻撃する許可を与えるという内容の手紙を書いている。最終的にラボアは、もしノリエガがアメリカに投降しない場合は、ローマ教皇庁のスタッフは大使館の建物から退去してカトリック高校に移動し、そこを新たな大使館と宣言すること、そしてノリエガは廃墟に置き去りとなり、彼はバチカンの庇護無しにアメリカに立ち向かわなくてはならなくなることを伝えた。 ノリエガはキューバ大使館に逃避していた彼の妻と3人の娘たちに電話をかける許可を求め、もし彼が投降した場合は彼女たちがドミニカ共和国に亡命できることの保証を得た。 1月3日、ノリエガは大使館の聖堂でのミサに参加し、聖体拝領を受けた。ミサでラボアはキリストと共に磔にされ最期の時に悔い改めたディスマスについて説教をし、それを聞いたノリエガは目に涙を浮かべたと報道された。 ミサの後、ノリエガは部屋に戻り2通の手紙を書いた。1通は妻に宛て、「私は今、冒険の旅に出る」と伝えた。もう1通はローマ教皇に感謝を伝える手紙で、自分は無実であることを信じており、常にパナマ国民の利益を最優先にして行動してきたことを強調し、教皇の祈りを求めた。 ノリエガは褐色の制服を着用し、大使館の聖書を携行する許可を受け、3人の司祭と共に屋外に出て闇夜の中50歩先の正門まで一緒に歩いた。正門に着くと米軍空挺兵のスコット・ガイスト軍曹が意気消沈したノリエガに突進し、その他の大勢の兵士も飛びかかり地面に押し倒して彼の身体検査を開始した。ノリエガは手首を後ろ手にテープで巻かれ、待機していた米軍のヘリコプターに押し込まれてハワード空軍基地に連行された。 後にモンシニョール・ラボアは、ノリエガを「出し抜いて」米軍に投降させたことを誇りに思っており、「心理戦では私の方が上手だ」と報道に語った。
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