大正・昭和時代
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1917年(大正6年)の「大津波」(正確には台風による高潮であり、津波とは異なる)や1923年(大正12年)の関東大震災では、南砂も大きな被害を受けた。1924年(大正13年)、「砂町海水浴場」が開設された。これは地元青年団主催の海水浴場で、1日に3万164人の来場があったとされる。浅瀬が広がり潮干狩りを楽しむことができた。当時、この一帯は歓楽地であり、洲崎の遊郭や洲崎球場などがあったほか、1928年(昭和3年)から1972年(昭和47年)まで城東電気軌道(のちの都電砂町線)の路面電車が走っていた。「砂町海水浴場」は1948年(昭和23年)まで続いた。 1930年(昭和5年)、「明治43年の大水害」を教訓に荒川放水路が完成し、大正時代から昭和時代には埋め立てが進んだ。この埋め立てられた地域が現在の新砂である。当時の海岸線を示す物は21世紀初頭の現在、堤防がフェンスの土台としてコミュニティー通り(海岸堤通り)に残っているだけである。砂村一族が村民に植えるように言っていた堤防の松の木は今は無い。宝六島の南砂の海はなくなってしまった。そんな最中の1934年(昭和9年)、永井荷風が散歩に訪れ、元八幡(富賀岡八幡宮)を見つけて喜んだという逸話がある。 その後、工場や町工場が立地するようになり工業地としての性格が強くなっていた。1929年(昭和4年)、越中島支線が開設。北砂に小名木川駅が置かれた。1931年(昭和6年)には、汽車製造の平岡工場(東京製作所)が移転してきた。地盤沈下が進み問題となった。南砂二丁目は1918年(大正7年)から1980年(昭和55年)の間に4. 57m沈下したことが知られている。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では工場が狙われ、南砂も大きな被害を受けた。戦後、1949年(昭和24年)のキティ台風の高波にも襲われた。 1959年(昭和34年)、「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律(工業等制限法)」が制定され、工場等の新設・増設が制限された。また地盤沈下などの公害が深刻化し、企業の負担も増大した。1965年(昭和40年)頃から大規模な工場移転が行われた。 1960年代は、ハエの大量発生に悩まされていた。1965年には南砂の主婦と北砂の主婦が合同で、東京都にハエ撲滅対策の陳情が行っている。こうした動きに対応して東京都は、近隣の埋立地である夢の島の一部において、地表をハエの幼虫ごと焼き払う焦土作戦を実行した。 1969年(昭和44年)には、帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄)東西線が延伸。「南砂町駅」が開設された。公共交通機関は都電とバスしかなく「陸の孤島」と揶揄された時代から一変した。工場の跡地には団地が建てられた。汽車製造東京製作所の跡地は南砂2丁目住宅になった。南砂一丁目から六丁目の各町に都営住宅が建てられた。
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大正・昭和(~敗戦)時代
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「川崎市の歴史」の記事における「大正・昭和(~敗戦)時代」の解説
川崎町では1921年(大正10年)6月に待望の水道が敷設された。それ以前は二ヶ領用水の水を生活用水として使用していた。そのため1886年(明治19年)のコレラ流行時には、川崎町で患者60人のうち40人が死亡、大師河原村で53人のうち43人が死亡、橘樹郡内では338人の患者が発生、そのうち254人が死亡していた。市の合併話はこの水道敷設から現実味を帯び、大正11年には大師河原村と御幸村への給水が開始されたことをきっかけに、3町村は合併、1924年(大正13年)に川崎市となった。 1923年9月1日の関東大震災では、東京や横浜のように大規模な火災こそ発生しなかったものの、川崎市域全体で全壊家屋2916、半壊家屋4455、死者383人、行方不明16人の被害を出した。工場が集中する川崎町、田島町、大師町の三町が被害全体の76%にあたり、特に富士紡川崎工場は全壊12800坪、半壊2600坪、建物19棟が崩壊した。とりわけ夜勤明けの女工が眠っていた寄宿舎の倒壊は惨事となり、圧死者154名、重傷者34名のほとんどが地方出身の女子労働者であった。震災時のデマによる朝鮮人の虐待は川崎南部でも発生した。富士紡川崎工場の後片付けに雇われた2名、田島町塩浜で1名、川崎駅前で1名の朝鮮人が殺害された。川崎町小土呂では朝鮮人と間違えられた日本人1名が殺害された。 現在の川崎区と幸区の一部を市域として人口5万人で出発した川崎市は、1933年(昭和8年)に中原町を合併した。丸子橋架橋の寄付金で町財政が苦しくなったことが要因のひとつであった。その後次々と多摩川沿いの北部の町村を合併し、1940年には人口31万人の都市となった。この人口増加は町村合併と、日中戦争以後の軍需工場の新設ラッシュによる。1936年には従業員5名以上の工場が103であったが、37年に137、38年に250、39年に447と増加し、それにつれて全国から労働者が流入した。 多摩川の砂利の採掘は江戸時代から行われていたが、あまりに大量に掘ったために堤防が壊れやすくなったこともあり、1934年(昭和9年)に多摩川の砂利採掘は禁止された。砂利採掘事業は「陸掘り(おかぼり)」へと移行することとなり、東京横浜電鉄が中心となって東京川崎砂利株式会社が設立され、等々力緑地一帯の砂利採掘が行われた。採掘跡は戦後釣り池となり、東横水郷と呼ばれた。 1925年(大正14年)に工事が開始された新鶴見操車場は地域に影響を与えた。橘樹郡の中丸子村、中原町、日吉村、鶴見町にまたがる、総面積8000ヘクタールの広大な土地への工事に、加瀬山は切り崩され、東横住宅や三菱重工業(現在の三菱ふそうトラック・バス川崎工場)の建設敷地に使われた。土地の人々は買収、道路問題、移転料の問題で苦しんだ。 資金難により、二ヶ領用水が用水組合から川崎市の手に委ねられると、神奈川県は平瀬川と三澤川を改修し、久地円筒分水をつくり、上河原堰堤をつくった。当時の技術の粋を集めた久地円筒分水は1941年(昭和16年)に完成した。 1939年には軍需工業都市を目指し、日本初の公営工業用水道がつくられ、京浜工業地帯は軍需工業に一変した。すでに開通していた南武砂利鉄道が、工業地帯造成の資材を三多摩から運び、工場は市域内陸部に次々と進出した。第101連隊が再編されて内地防衛の東部62部隊ができると、軍部は実践訓練用の軍用地に多摩丘陵の向丘村と宮前村、横浜市の元石川町にまたがる広大な農地と山林の強制収用を1940年8月に開始し、「溝ノ口演習場」とした。同じく1940年に生田村の枡形山に陸軍科学研究所が移転し、2年後の1942年に登戸研究所として独立、秘密兵器の研究、開発、指導にあたった。1942年11月には宮崎台に「溝ノ口兵舎」が新設され、1528人の兵隊が駐屯した。 戦争の拡大で成人男子が次々と戦場に送られる中、重工業の労働力は小学校や高等科を卒業した少女が担った。川崎の労働力不足を補うため1942年12月、全国から女子勤労報国隊の受け入れが始まり、1943年には北海道や東北の農村女性1万人が川崎の軍需工場に就労した。 1944年(昭和19年)8月、川崎市では三年生から六年生の学童7500人が、現在の伊勢原市を含む神奈川県中郡など県内の農村地帯と、川崎北西部の丘陵地帯に疎開した。 軍需工場の集中する川崎は1942年4月18日に本土初の空襲にあい、1944年から集中的な空襲を受けるようになった。最大の空襲は1945年4月15日夜10時ごろから始まった川崎大空襲で、臨海工業地帯と蒲田など東京南部が攻撃目標であった。空襲警報は16日午前1時10分に解除され、明け方5時ごろに鎮火した。空襲全体の被害は、全半焼家屋は3万を超え、工場は287、罹災者は死者を含め10万人を超え、川崎市域では死傷者約1000人、負傷者約15000人といわれる。1943年に39万人余いた市の人口は、敗戦時には20万人余に落ち込んだ。
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