中国・朝鮮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:00 UTC 版)
高温で焼成され釉薬が溶けかかった硬質のやきものである磁器の製法は、中国で発明されたものであり、草木の灰を溶いて焼きものの器面に塗布し、人為的に釉薬をつくりだした灰釉陶器の誕生は殷の時代までさかのぼることが明らかになった。灰釉は長い年月をかけて少しずつ改良され、安定して技術として確立し、後漢の時代には、素地が堅く焼き締まり釉薬がなめらかに溶けかかった「瓷器(じき)」(半磁器)としての完成の域に達した。本格的な青磁の製作は、この後漢代に始まった。青磁の発祥地は、現在の浙江省紹興市上虞区の一帯とみられ、現在までに30か所以上の後漢代の青磁窯址が発見されている。古くは河姆渡文化の中心地であった当地は、磁土や燃料といった原材料にも恵まれて窯業の長い伝統を有し、また農耕がさかんで人口も多く、水運の利便にも恵まれた地域であり、窯炉の改良もさかんだったとみられる。 これに続く、三国時代から南北朝時代にかけて、日本では一般に「古越磁」と称される青磁が製作されたのは、現在の浙江省を中心とする地域で、楼閣や人物、鳥獣などさまざまな装飾をほどこされた多様な造形の器物が、墳墓に副葬されるいわゆる「明器」としてもさかんにつくられた。古越州窯の青磁は、南京はじめ江南地方一帯で出土する。南北朝時代の北朝では、その末期に北方青磁独自の様式があらわれ、隋代に引き継がれた。なお、北方の青磁はオリーブ色がかった暗緑褐色・暗褐色・黄褐色を呈するという特徴がある。 唐代以降、青磁は多くの文人・知識人に愛されたが、その理由の一つとして中国で古来珍重されてきたヒスイ(碧玉)に近い色合いが挙げられる。碧玉は古代より君子が身に付ける装身具の素材とされ、儒教においては「徳」の根源とみなされてきたので、青磁は「假玉器(かぎょくき)」とも称されて宝器などとして貴族層に受容された。さらに、760年には、後世「茶祖」と称される陸羽が『茶経』を著し、それに則った喫茶の習慣が流行した。『茶経』において陸羽は、浅黄色に抽出した煎茶を越州窯の青磁茶碗に淹れると茶の色が緑に映える、と述べている。唐代から宋代にかけて、陸羽茶道の流行とともに、王侯や文人たちはおおいに青磁茶碗を求めた。 宋代には官窯が設置され、定窯の白磁、汝窯(じょよう)の青磁などに代表される、器形、釉調ともにきわめて高度な技術を駆使した磁器が生み出された。また、華北・華南の各地に磁州窯、耀州窯、龍泉窯、建窯、吉州窯などの個性的な窯が栄えた。とりわけ。北宋代から存在感を発揮し、以後の中国陶磁史を主導するのが江西省の景徳鎮窯である。元台には、白地にコバルト顔料による青色で絵付けをした磁器である「青花」(日本語では「染付」という)の生産が隆盛し、輸出磁器として諸国の憧憬の的となり、イスラーム圏などで競って求められるようになった。 明代には景徳鎮窯が中国の磁器生産の中心となり、青花や「五彩」などの絵画的な加飾を施した器が盛んに生産された。明末から清初にかけては、景徳鎮の民窯や福建省の漳州窯などで、官窯とは作風の異なる輸出向けの磁器が大量生産され、ポルトガル、オランダ、日本などへ運ばれた。清代に入ると、七宝の技法を応用した粉彩(琺瑯彩)の技術が開発され、磁器の器面に絵画と同様の絵付けが施されるようになった。この時期、窯業技術の進歩によってさまざまな色釉が新たに開発され、成形や施釉の技術、絵付けの技法とともに中国陶磁の頂点を迎えた。しかし、清朝後期以降は、社会情勢の不安定化とともに従来の技術水準を維持することが困難になり、一時は一世を風靡した中国陶磁も変革と進歩の歴史に終止符を打った。 画像 古越州窯、後漢代、青磁の壺 唐代、白磁の竜耳壺 耀州窯、10世紀(北宋代)、青磁刻花蓮華文水注 官窯, 修内司, 南宋代 定窯, 金代, 捧盒 景徳鎮窯、14世紀(明代)、左後:永楽青花龍紋扁壺,右前:永楽青花海水白龍紋扁壺 景徳鎮窯、18世紀(清代) 景徳鎮の官窯、1723年 - 1735年(清代)
※この「中国・朝鮮」の解説は、「磁器」の解説の一部です。
「中国・朝鮮」を含む「磁器」の記事については、「磁器」の概要を参照ください。
中国・朝鮮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 20:17 UTC 版)
活字は中国で発明された。漢字の数の膨大さは活版印刷をおこなう上で常に障壁となり、後々までも小規模な設備で印刷をおこなうことを困難たらしめた。このため、活字印刷の淵源は中国にあるが、漢字は最も印刷に向かない表記法でもあった。 『夢渓筆談』に記録が残っている畢昇の膠泥活字(こうでいかつじ)が知られている最古の活字である。同書によれば、粘土(膠泥)の一字一字の駒に文字を彫り、焼いて活字を得た。必要に応じて数十個まで作られた活字は、韻によって木箱に分納された。陶を使ったのは、木では彼の考案した印刷法に向かないためという。温州市の白象塔から発見された北宋崇寧年間(1102-1106年)印刷(膠泥活字)の『観無量寿経』が、知られている現存最古の印刷物である。その他、12世紀半ばから13世紀初頭に西夏で印刷されたと見られる、内モンゴル自治区のエジン旗から発見された西夏文字による仏典や武威市で出土した維摩詰所説経が現存している。 1300年代には王禎が木活字を作った。王禎は、韻書にそって字を選び、能書家に字を書かせ、それを板木に裏返しにのり付けし、工人に彫らせたと記録している。木活字版はおもに仏典や学術書などの開版に使われた。木活字は欧州へも伝播した。 13世紀には朝鮮半島や日本へも金属活字や木版が伝わったとみられる。高麗では1234年に青銅製の活字が作られ(銅活字と呼ばれる)実用化したといわれている。高麗末の14世紀後半に印刷された直指心体要節が現存する世界最古の金属活字本であるといわれている。高麗においては発達せず、李氏朝鮮に至って本格化した。永楽元年(1403年)に李成桂の命により活字鋳造がはじめられた。この時の字は癸未活字という。その後数回の改刻を経たらしいが、現存していない。
※この「中国・朝鮮」の解説は、「活字」の解説の一部です。
「中国・朝鮮」を含む「活字」の記事については、「活字」の概要を参照ください。
中国・朝鮮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 04:20 UTC 版)
中国においては、『春秋』に「子以母貴、母以子貴(子は母を以って貴し、母は子を以って貴し)」とあり、七去には、「子供ができないため妻を離婚できる」という概念もある。特に前漢には、皇子が産まれなかった皇后を廃し、皇子を持った後宮の女を皇后に立てる事件がしばしば発生した。後漢以降、皇子を産まなかった皇后は多いが、家柄を重んじる風潮があったため廃后の例は少ない。六朝には廃后の例は存在しない。唐宋以後は皇帝とは仲が悪くなるも廃妃の主な原因となる。総じて、皇太子を出産した皇后の地位は保障され、政争を除き廃位された可能性が低い。 また自ら廃后を申し出る場合もある。『明宣宗実録』によれば、明宣徳帝の皇后胡善祥は男子を儲けなかったために廃后を申し出、皇帝や皇太后も止めたが聞き入れることなく、貴妃の地位に落とされたとされる。ただしこれは実際の経緯からみると強制されたものとみられる。 廃妃の結末については、それぞれ大きく異なる。貴妃など下位の妃嬪の地位に落とされ、後宮にとどまる例もある。また別居し、ある程度の地位を保つ例もある。後漢の光武帝の廃后郭聖通は中山王太后に改封され、平穏な生活を送った。あるいは出家して女道士または尼となった。悪い場合には庶民に落とされて幽閉され、さらには賜死に追い込まれることもある。この場合、一族にも粛清、流刑などの厳罰が下されることが常であり、より陰惨な様相を呈する。典型的な例は、唐の高宗の王皇后は新しい皇后である武則天の台頭によって極刑に処せられた。一族も追われ、姓も「王」から「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)に変えられた。 また、王の廃位によってその正妃が称号を奪われる場合にも用いられる。李氏朝鮮で廃位された燕山君正妃の慎氏は廃妃により居昌郡夫人、光海君正妃の柳氏は文城郡夫人と「妃」の称号を奪われた。 廃后・廃妃が元の地位に復帰することもしばしばある。宣徳帝の廃后胡善祥は、没後に皇后位が追贈されている。
※この「中国・朝鮮」の解説は、「廃妃」の解説の一部です。
「中国・朝鮮」を含む「廃妃」の記事については、「廃妃」の概要を参照ください。
中国・朝鮮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 02:51 UTC 版)
中国や韓国における風水の四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川の水(すい)が配置されている背山臨水の地を、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。 日本の平安京においても、北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とする対応付けが可能で、背山臨水を左右から砂で守るという風水の観点から正しく京都は四神相応の地であった。ただし巨椋池が完全に干拓されてしまったために、現代では平安京は朱雀を失っている。なお平安京大内裏北方にある船岡山は玄武とするには低山に過ぎ、現代中国の風水の観点に立つと、船岡山は玄武を伝ってやってくる山龍が目指す星峰と解釈される。 なお、中国元代に編集された家政全書である『居家必要事類』には『周書秘奥営造宅経』が収められており、そこには宅地の撰地条件として 一 屋宅舎。欲左有流水。謂之青龍。右有長道。謂之白虎。前有洿池。謂之朱雀。後有丘陵。謂之玄武。為最貴地。(屋宅は舎。左に流水有るを欲す。これを青龍と謂う。右に長道有り。これを白虎と謂う。前に洿池有り。これを朱雀と謂う。後ろに丘陵有り。これを玄武と謂う。最も貴地と為す。) とある。これは後に述べる「四神=山川道澤」説と同じであり、この説が中国由来であることを明瞭に示す。なお、ここに朱雀を「洿池」即ち「溜め池」とすることは宅地からの水溜めを示していて、これらが住宅の敷地の撰地に限定していることに留意すべきである。さらに敦煌文書『司馬頭陀地脈訣』の中に 凡居宅、左青龍、東有南流水。是左青龍。右白虎、西大道。是右白虎。前朱雀、南有洿池。是前朱雀。後玄武、北有大丘陵。是玄武。(およそ居宅、左青龍、東に南流する水あり。これ左青龍なり。右白虎は西に大道あり。これ右白虎なり。前朱雀は南に洿池あり。これ前朱雀なり。後玄武は北に大丘陵あり。これ玄武なり。) とある。この文書は出自から唐の頃のものと考えられる。これらは『周書秘奥営造宅経』と同じく住宅に関する四神である。
※この「中国・朝鮮」の解説は、「四神相応」の解説の一部です。
「中国・朝鮮」を含む「四神相応」の記事については、「四神相応」の概要を参照ください。
- 中国朝鮮のページへのリンク