実際の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:57 UTC 版)
この騒動、烏帽子山全体ではなく、黒石藩領平内村(現・平内町)と南部藩領馬門村(現・野辺地町)の藩境にある烏帽子山系の標高130m程度の堀指山で起きた。 その境目をめぐって過去しばしば紛争が起きていたが、1713年(正徳3年)に至り深刻な問題に発展した。1713年6月12日、平内村の名主である左五兵衛ら3名は、境界の儀について幕府に訴え出た。馬門村の者が勝手に境を超えて木を伐採して迷惑しているというものである。幕府は軽視せず、翌1714年(正徳4年)4月2日に検使2人を派遣した。検使役2人に対して弘前藩では郡奉行や代官を派遣し、御用の呼び出しの際には、黒石藩主の津軽政兕が役人を連れてまかり出るなどの細かい手配を行った。 4月18日検使の2人は野辺地に到着、26日まで現地を調査した。このとき、弘前藩は南部領との境界絵図を資料として提示した。記録によると、平内村の名主の訴えに対して、馬門村の百姓は別の芝崎道が境であることを主張した。しかし、現場を検証すると芝崎道は芝木を運ぶ程度の細い道で藩の境としてはふさわしくなかった。また、津軽藩からは狩場沢村水帳が提示され、現場と照合したところ書類と畑高が一致した。また、蟹田村の者が掘ったとされる金山坑道の長さが津軽藩が提出した資料の日数と一致すること。さらには、1673年(寛文12年)に馬門村の百姓が鳴地山で津軽藩の役人に捕縛され、南部藩に引き渡された際に、南部藩から異論は出なかったことなどから、南部藩の主張は通らず、この地域は津軽藩の物とされた。 この時、烏帽子岳から峰筋に境界を定めたが、馬門村から堀指山に入る古い道が5筋もあり、樵の小屋がいくつもあったので、毎年3貫文を払うことによって白石沢から堀指川通りの大森までは入山して木材や薪などを取ってもよいとされた 。
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