が【画〔畫〕】
読み方:が
[音]ガ(グヮ)(慣) カク(クヮク)(漢) [訓]えがく
〈ガ〉
1 絵。「画集・画風・画廊/絵画・戯画・書画・図画・動画・版画・壁画・漫画・山水画・水彩画」
2 絵をかく。「画家・画材・画餅(がべい)・画竜点睛/臨画」
3 映画。また、テレビやビデオの映像。「画質/映画・邦画・録画」
〈カク〉
1 線を引いて境をつける。区切り。「画一・画定・画期的/区画」
4 漢字を構成する一筆分の線や点。「画数/字画・点画・一点一画」
[補説] の1・2は「劃(かく)」と通用する。
が〔グワ〕【画】
読み方:が
絵。絵画。
かく【画】
読み方:かく
⇒が
かく〔クワク〕【画/×劃】
え〔ヱ〕【絵/▽画】
画
画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/11 09:24 UTC 版)
『昔なつかしい徳島風景』林鼓浪、1966年。 『なつかしの徳島風物 明治・大正から昭和へ』松本進解説、出版、1970年。 『阿波よしこのが聞こえる 林鼓浪の描く、なつかしき徳島風景』徳島市立徳島城博物館編、徳島市立徳島城博物館、2004年7月。 『林鼓浪 画業と生活 徳島最後の粋人』徳島市立徳島城博物館編、徳島市立徳島城博物館、2010年7月。
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画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 09:21 UTC 版)
画は母方の祖父・矢野典博に狩野派の画法を学んだが、菘翁の母にも絵筆に心得があり、菘翁は絵を描くたびに母に示して母はこれを喜んだという。のちに徳島城下二軒屋町の観潮院において明の銭穀の「真景山水図十五幅」を観て以来、文人画に傾倒する。長じた後に大坂では鼎春岳、濱田杏堂、京都では浦上春琴、中林竹洞、山本梅逸、青木木米ら、当時一流の文人画家と親しく交流するうちに文人画の技法を修得したものと推察される。また、頼山陽、梁川星巌、猪飼敬所、摩島松南ら多くの儒者・文人とも親交を深めている。こうした書画家や儒者・文人たちとの交流によって、書画は表面に芸術的成果として現れ、儒学は内面に精神的基盤として蓄えられることで、菘翁をして大家の地位に到達せしめたものと考えられる。 一方で菘翁は、中国の明清画を学習しており、明清画を臨模した作品も多数残されている。これは、文人画誕生に大きな影響を与えた中国明代末の画法書『八種画譜』などに学んだと推測される。さらにそれだけではなく、菘翁はさまざまな明清の画家の作品にも倣っている。とりわけ董其昌の作品に深く学んでいる。また、米法山水図や江稼圃の画法も自らのものとしている。 還暦を目前に長崎では祖門鉄翁から南画の画法を受けた。鉄翁によれば、菘翁は広く各家の画論や画譜を閲覧していたが自分(鉄翁)の門下となり江稼圃などを学び画道をすぐに会得した、逆に自分は菘翁から書法の道理だけでなく画理をも学ぶところがあったとし、「故に翁は我が門に入ると雖も、我れ之を師友と称す」と述べている。また、けっして俗気を帯びること無く、深く雅致を損なうことを恐れて、下賀茂に転居して隠遁の志を全うしようとした、と評している。 田能村竹田はその著『竹田荘師友画録』において「菘翁の『送行図鑑』を見た。京から伏見に至る路上の真景を描いたもので、木立や水面、村家や畑、舟車や橋、そこを往来する人びと、酒旗の影、馬影が見え隠れするなど景観の幽趣が余すところ無く描かれ、濃淡のある筆致は清趣にして秀潤である。このような絵は読書をよくし、しかも画をよくする者でないと描けない。近年の真景山水では一は野呂介石の熊野瀞八丁、一は頼山陽の耶馬渓、一は本図で自分の及ぶところでは無い」と賞讃している。 菘翁の画の全体的な特徴は保守的とも評されてきたが、南宗画の基本である柔らかい描線、墨の穏やかな感じ、そして安定感のある構図、さらには温和で気持ちを穏やかにする清雅な作品が多いことなどが特筆される。画題としては、余白を巧みに使って雲や水を表現した精緻な山水画が多く、その他にも竹・梅・蘭・菊などの四君子を題材として好み、それらを清新に画いている。さらに松や鶴も見られる。門弟には多くの優れた文人画家が育った。 また、菘翁は画論にも長けており56歳の頃、伊勢の浜地庸山の著した中国画論『山水高趣』に題言を寄せ、浦上春琴の『論画詩』『続論画詩』にも評を加えている。
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画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 07:42 UTC 版)
文人の画芸というと文人画が有名である。これは明末の董其昌による画論『画禅室随筆』に「文人の画は王維から始まる」として唐代の王維をその始祖としたことによる。しかし、文人の画芸はさらにその淵源を遡ることができる。宋以降にようやく文人の遊戯として定着した。画芸について晋の顧愷之の『論画』、宋代の宗炳の『画山水序』・王微の『叙画』、斉の謝赫の『古画品録』などの画論でその理論が模索され、やがて気韻を貴ぶようになる。文人画は飽くまで素人の余技であり、その精髄とも呼べる「気韻」は広く文人の間に受け入れられ、宋元以降、文人の趣味生活に深く浸透していった。
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画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 09:18 UTC 版)
古書画に学び、古くは唐代の郭煕や李唐から元代の趙孟頫や元末四大家に師法している。山水、花卉・蘭竹・人物など作域が広い。山水画は主に趙孟頫・呉鎮を模範とする。精妙細緻でありながら時に大胆な画風は「粗の文」「細の文」と呼称された。文徴明の画法を学ぼうと後進があとを断たず、のちには呉派の代表とされた。最晩年になっても画の完成度は衰えるどころかなお一層、謹細にして典雅であった。祝允明・唐寅・徐禎卿らと「呉中の四才子」と称揚され、その画を求めて門前に車馬が並んだという。
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画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 22:19 UTC 版)
文人の画(画芸)というと文人画が有名である。これは明末の董其昌による画論『画禅室随筆』に「文人の画は王維から始まる」として唐代の王維をその始祖としたことによる。しかし、文人の画芸はさらにその淵源を遡ることができる。唐の張彦遠の『歴代名画記』には、画を得意とする文人が多数挙げられている。後漢では張衡・蔡邕・趙岐、魏の楊修・桓範・嵆康、蜀の諸葛亮、東晋の戴逵・王羲之・顧愷之など。いずれも著名な文人で専門の画工ではない。このように後漢以降に文人の中で画を得意とする者が多数存在したが、画の価値については一定の評価を得られていなかったと考えられる。盛唐の閻立本は殿中で画師として扱われたことを大いに恥じて顔を真っ赤にしたという逸話がある。宋以降にようやく文人の遊戯として定着した。画芸について東晋の顧愷之の『論画』、宋代の宗炳の『画山水序』・王微(中国語版)の『叙画』、斉の謝赫の『古画品録』などの画論でその理論が模索され、やがて気韻を貴ぶようになる。この価値基準の確立によって文人の画芸に対する関心は一層高まった。北宋の米芾は『画史』において書画鑑賞の本質的な意義は「清玩」することにあると述べているが書画の芸術性が社会に認識されたことを示している。このような背景の中、先の董其昌の画論では専門の画工によった院体画と対峙して文人画を位置づけている。文人画は飽くまで素人の余技であり、その精髄とも呼べる「気韻」は広く文人の間に受け入れられ、宋元以降、文人の趣味生活に深く浸透していった。
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画
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畫
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「 画」の例文・使い方・用例・文例
- 彼はその計画を断念した
- 抽象画
- 抽象派の画家
- 彼は私に計画の変更を知らせてきた
- 彼は30以上の映画に出演した
- 映画俳優
- 映画の本編は6時に始まります
- 彼の意見は結局私の計画はだめだという非難であった
- 18歳未満の子どもはこの映画は見られません
- 成人映画
- アポロの月着陸成功によって宇宙開発計画がさらに歩みを進めた
- 前もって慎重に計画を立てる
- 彼は黒澤明に次いで最高の映画監督だ
- 彼は我々の計画に同意しないだろう
- トムとジェーンは何の映画を見るかについて意見が合わなかった
- お互いに合意できる計画
- 全体的に見てわれわれの計画は成功だった
- その計画はうまくいった
- 僕はその映画が成功だったということを認める
- 彼の計画を支持する人はほとんどいない
画と同じ種類の言葉
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