徐禎卿
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徐禎卿(じょ ていけい、1479年-1511年)は、中国明代の文学家。字は昌谷、または昌国。常熟梅李鎮の人で、後に呉県(現江蘇省蘇州市)に移った。『明史』列傳第一百七十四・文苑二に伝が立てられている。
略歴
若い頃は貧しく、独学した。唐寅と交友を持ち、唐寅が沈周や楊循吉に紹介したことから名を知られた。1505年に進士になり、大理左寺副となった。李夢陽や何景明と交友を持った。
唐寅、祝允明、文徴明と合わせて「江南四大才子」(または呉中四大才子)と呼ばれる[1]。また、劉麟、顧璘と合わせて「江東三才子」と呼ばれる[2]。文学流派としては李夢陽、何景明、康海、王九思、邊貢、王廷相と共に「前七子」と呼ばれた。徐禎卿は文章は秦漢、古詩は漢魏、近体宗法は盛唐に学ぶよう主張した。
著書
著書は『迪功集』[3]、『迪功外集』、文学の批評書『談芸録』など。他に『異林』[4]。
清の『四庫全書総目提要』によると、「明の朱元璋の伝記『翦勝野聞』は徐禎卿の著とも伝わっているが、明史の徐禎卿伝にも文芸志にもその旨の記載が無い」と解説されている[5]。
脚注
固有名詞の分類
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