芸について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:08 UTC 版)
「古今亭志ん生 (5代目)」の記事における「芸について」の解説
6代目三遊亭圓生・宇野信夫・坊野寿山らによれば売れない頃の5代目志ん生の芸は「(前略)うまいとは思ったけど、どうしても売れるとは思えない芸(後略)」(坊野寿山)、「(前略)噺はうまくなかった(後略)」(宇野信夫)、「(しゃべり方が)とても速かった」「(前略)セカセカして、さっぱり間がとれない(後略)」(6代目圓生)といった状態であった。 6代目圓生は「(前略)芸の幅が五十をすぎて、パーッと開けちゃった(後略)」「(前略)人間はズボラだったが、芸にウソはなかった(後略)」「(前略)志ん生の芸は傷だらけ(中略)その芸も完璧なものじゃなかったわけで、人間描写もいい加減なところがあった(後略)」「(前略)小さく固まらなかったから、いつかその芸がなんともいえない独特の芸風にふくらんでしまった(後略)」口演の出来不出来が激しかったが、「(前略)そこがいかにも志ん生らしいところで(後略)」「(前略)志ん生さんにはフラがありましたが、あれも型があっての上での自在な間なんです。型のないものは芸じゃありません。(後略)」と評している。「完成した5代目志ん生」を見ると「天衣無縫」と思えるが、実際は売れない時代が長く、芸について苦労して非常に考えた上であの芸風を苦心して作り上げたことが窺える。 6代目圓生は「志ん生とは道場の試合では勝てるが、野天の真剣勝負では斬られるかもしれない」と芸へのアプローチの違いを剣に例えて、5代目志ん生の芸を評した。一方、5代目志ん生の方は6代目圓生について「まんべんなく人物描写をしているが、それだと噺にヤマが出来ない。主人公だけ浮き彫りにさせてやらなきゃ駄目だ」と評して、「主人公を躍動させ、脇の人物は少しばかり殺す」という演出法を取っていた。 満州滞在中に満洲電信電話の新京放送局が主催した演芸会で、当時アナウンサーだった森繁久彌と出会う。5代目志ん生と6代目圓生の二人でバレ噺(下ネタがかった噺)を交代で演じ、森繁が「こんなバレ噺もある」と紹介しながら司会進行した。演じる側としても実に楽しい会だったようで、客が鈴なりになって他のお座敷の仕事を放り投げて延々と続け、そのあと森繁が酔い潰れた5代目志ん生をおぶって帰った。森繁の芸達者ぶりに二人は瞠目し、5代目志ん生は森繁を「あなたなら日本ですぐに売り出せる」と絶賛した。のちの森繁の活躍で5代目志ん生の目の確かさが証明されたことになる。 独特のクスグリのセンスで高い評価を得ている5代目志ん生であるが、実際はそのかなりは初代柳家三語楼の作に負うものである。三語楼宅が火事になった折、そのどさくさにまぎれて三語楼のネタ帳を盗み出して自分のものにしてしまったのは落語家内では有名な話であると、後に5代目柳家小さんがTBSラジオ「早起き名人会」で川戸貞吉に述懐している。 噺のディテールはかなり大雑把で、「井戸の茶碗」を口演中に登場人物である「千代田卜斎(ちよだぼくさい)」の名がいつの間にか「千代田売卜(ちよだばいぼく)」になってしまったことがある。「卜斎」なら武士や医師などの人名だが、「売卜」は占い師のことである。このように、人名・地名や言い立ての順序・内容を誤るなどは日常茶飯事であった。次男の3代目古今亭志ん朝が噺の登場人物名を問うと「何だっていい」と答えたり、噺の途中で登場人物の名前を忘れてしまったが「……どうでもいい名前」と何食わぬ顔で済ませて客を爆笑させたりするなど、登場人物の名前を忘れて高座を去った8代目文楽とは対照的であった。これについては5代目志ん生から噺を教わった5代目三遊亭圓楽が「落語のとらえ方、解釈の仕方を大事にし、登場人物の本質、了見をまずつかんでいた。それさえ肚にいれれば、『台詞なんざ、自分でこさえたっていい』という考え方だった」と評している。 3代目志ん朝が入門した後、5代目志ん生は「自分が教えちゃ物にならない」として、自分では稽古をつけず、8代目林家正蔵(後の林家彦六)のところに稽古に行かせていた。3代目志ん朝は、「(5代目志ん生に)なろうとしてもなれるものではない。(8代目桂文楽を)お手本にしている」と語っている。 気に入らぬ客の前ではいい加減な噺で切り上げ、周囲を呆れさせていた。その一方で、数名の酔客にヤジを飛ばされた時、一切無視して丁寧にじっくりと「富久」を演じた。酔客は黙ってしまい、5代目志ん生が退場すると大きな拍手を送った。 大阪でも8代目文楽らと共に戎橋松竹などの寄席に上がることがあったが、当時大阪はトリオ漫才(かしまし娘など)の全盛期で、客席には漫才を見に来た団体客が多く、落語はまったく受けなかった。そのため、5代目志ん生は時間を守らずにすぐ切り上げてしまい、次の出番の芸人を慌てさせていた。東京でも気分が乗らないとさっさと高座から下がってしまった。 1958年(昭和33年)10月11日、「第67回三越落語会」において「黄金餅」をトリで演じる予定であったが、8代目正蔵がその前に似たような内容の「藁人形」を演じてしまった。これは落語会の事務関係者のミスによるものだが、落語界では、一つの興行で同じ傾向の噺が続くことは「噺がつく」と呼ばれるタブーである。8代目正蔵の後に高座に上がった5代目志ん生は、客席に断って演目を変更し、手持ちの噺の中から艶笑噺の「鈴振り」をたっぷりと演じた。 芸にはプライドを持っており、ある落語会で「牡丹灯籠 〜御札はがし〜」を演じることになった際には「これは生半可なことじゃあできねえんだから、ワリ(出演料)に「牡丹灯籠代」が付くよ」と言い出して関係者を困らせた。このゴタゴタでやる気をなくしたのか、高座では散々な出来であったという。 自身が得意な噺はなかなか人に教えなかった一方で、一度人に授けた噺は以後高座でやらないようにけじめをつけていた。かつて演じていた「夕立勘五郎」や「町内の若い衆」などは、他人に教えた後はピタッと演じなくなったという。。 余芸として端唄などを得意とした。元慶應義塾塾長・小泉信三は5代目志ん生の「大津絵」を聴き、度々目頭を濡らした。 「酒気を帯びて高座を務める」「時間通りに来ない」「自分の独演会に来なかった」などズボラなエピソードが多く伝わるが、当時電通でラジオ番組制作を担当しており、親しく交流していた小山觀翁によると、小山が担当した録音の当日に酔っていたり遅刻したりしたことは一度もなく、録音する演目の口演時間を前日に寄席で計測し、録音時に時間調整するといった丁寧な仕事ぶりだったという。 5代目志ん生は「(前略)売れない噺家に用はないとまでいわれた(中略)あのときの気持ちだけは、あたしゃァ忘れない(後略)」「(前略)いまに見てやがれ畜生め。席亭のほうから出てくれッていわせてやるんだ(後略)」と思ったと語っていた。売れない頃に関係者に粗略に扱われた恨みは根深かった。 相手の都合など意に介さず気ままに振る舞ったのは、「(前略)あの寄席の親父が気にいらないとか、あいつは……っていうと、周囲の迷惑は思わない。そいつに迷惑かけてやろうという一心で(後略)」というケースと、仲間内で多少の甘えが許されると踏んだ場合にというケースがあると小山は推測している。小山いわく「(前略)この野郎にはズボラをいいのか悪いのかってえのを、ちゃんと心得てズボラをする男ですね(後略)」。 貧乏・天衣無縫・融通無碍・出たとこ勝負、といったイメージばかりが紹介されるが、小山は「(前略)型がないどころか、きちんとあるんですよ(中略)一点一画をゆるがせにしないという芸であるのに、それを天衣無縫に見せるという、この親父はたいした親父だ(中略)タヌキですよそりゃァ(後略)」と語っている。 貧乏についても小山は、落語の速記本の購入や音曲の修行など芸事にはしっかり資本を掛けていることを根拠に、貧乏時代を売り物とするためにいささか誇張して「(前略)自ら神話を作っていたのではないか(後略)」と推測している。 8代目文楽は、「(前略)あちらは、いまンなって若い時分の貧乏を自慢してますがネ。あの時分金のないのはおたがいだったんだ。その、おたがい金のなかった時分、なけなしの五円貸して、返してもらえなかった身のことは、誰も考えてくれない……(後略)」と語っている。出演料がまとまった収入源になるメディアがNHKの前身にあたるラジオ放送(日本放送協会の沿革参照)以外存在しなかった当時、5代目志ん生だけでなく落語家がそもそも儲かりにくい稼業だった。 出たとこ勝負、いいかげん、というイメージについては小山は「(前略)八十何年も落語を演っててねェ、そんなに出鱈目でいいかげんであろうはずがないという、この原点をわりに皆さんが考えませんねェ(中略)だからむしろ逆に、いいかげんに見せる技術が秀れていたと。(後略)」と語っている。
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