芸に対する姿勢について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:09 UTC 版)
「三遊亭圓生 (6代目)」の記事における「芸に対する姿勢について」の解説
古典落語・新作落語の別を問わず人気先行で芸を磨く事を怠る芸人を嫌い、草花は綺麗だが1年で枯れるしそればかりでは花壇になってしまう、日本庭園の松の木のようなしっかり磨いた芸を育てなければ、と語っていた。 名手として高い評価をほしいままにしていた6代目三遊亭圓生ではあるが、その一方で新作落語とこれを手がける落語家をあまり好まず、古典落語至上主義という雰囲気であった。その姿勢が弟子の可能性の芽を摘んでいたことも否定できない面である。もっとも弟子が新作落語を演じることに良い顔はしなかったが禁じる事は無かった。三遊亭さん生は新作落語『ジャズ息子』で圓生から稽古(と言うよりアドバイス)を受けており、圓丈は師匠の目を気にしながら古典落語の合間に新作落語を披露していたが、圓生の死を契機に新作だけを演じるようになり、現在では新作落語の旗手として認知されている。圓生自身も1959-1960年(昭和34-35年)頃から宇野信夫作の新作落語『小判一両』、『大名房五郎』、『江戸の夢』、『うづら衣』、『心のともしび』を口演し、レコード『圓生百席』にも収録している。新作落語を作り、演じて育てる事は当然必要だが基本が出来た上で手掛けるべきであると語っている。 高座では真剣そのもので、客のヤジにも毅然とした態度をとっていた。高座に上がるや否や客席から「いよう! 色男!」と掛け声が飛んだ。圓生は顔色一つ変えず、声のあったほうを睨みつけて「あなたほどではございません」と言い放った。 噺中に関西人の登場する場面のある場合、船場の商人は商人の言葉で、大阪の長屋の衆ならそのような大阪弁で、京都の人なら京言葉で、しかも江戸時代の噺と明治以降の噺とでは言葉柄を使い分けて口演でき、それでいて江戸っ子の台詞が関西弁に引っ張られて怪しくなることも無かった。弟子の圓丈に金明竹を習得させる際、名古屋弁版への改作を助言し、名古屋で幇間の経験がある7代目圓蔵に稽古をつけさせている。 出身地大阪には特別な思い入れがあり、度重なる誘いを受けても芸の未熟を理由に大阪で演じる事は拒み続けた。かつて同門だった3代目桂梅團治を東京へ招いて身内として扱い、2代目三遊亭百生を襲名させた上で、東京で上方落語を演じ続けさせた。3代目桂米朝とは米朝の師匠4代目桂米團治を通じて懇意にしていたようで、米朝の噺の枕に圓生のエピソードが屡々登場するとともに、噺を組み立てるにあたって文献を詳細に調べるなど随所に影響が散見される。 非常に稽古熱心だった。弟子の中で可愛がられていた圓丈の体験談として、「寄席の帰りに一緒に車に乗って帰ると、車に乗り込みドアが閉まった瞬間にもう稽古をしていた」「旅の仕事に同行した時、ぐっすり眠って翌朝師匠に挨拶をしたら、『眠れなくて午前2時から今までずっと稽古をしていた』と言われた」などがある。 芸の事には夢中で、打ち合わせで来訪した関係者の落語に関する質問に解説し始めたがいつの間にかあらすじになり、さらに落語本編を話し始めた。夕方、薄暗くなってきた部屋で照明もつけず演じ続けた。レコードの録音スタジオでも口演の出来上がりに納得しないと自身の頭を激しく殴打して「もうろくジジイ」と吐き捨てた。 「芸はいつも動いていなくては噺が死ぬ」という持論を持ち、完全に噺の仕方を固めてしまうのではなく、わざと固めない部分を残しておき、そこからまた噺の出来を伸ばす、という方法を取っていた。噺を教えるときも、主語と述語を意図的にあいまいにし、同じ噺でも人によってそれぞれ微妙に違うように教えた。 弟子に対して、前座のうちに他の噺家のところに稽古に行くことを禁止していた。「前座のうちによそで稽古すると変な癖が付く」というのがその理由。しかし誰もがそれを守っていたわけではないようで、圓丈は師匠に隠れてこっそり稽古に行っていたことを述懐している。
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