その芸について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 10:06 UTC 版)
「明治の三名人」のうち、梅若実は「機略」(「情」とも)に勝り、宝生九郎は「位」に勝り、伴馬は「技」に勝る、と称された。 そのため特に、巧技を一曲の見せ場とした、「邯鄲」「道成寺」「望月」「石橋」「乱」といった能においては、他の追随を許さなかった。喜多実は、老境の伴馬の「実盛」「融」について、「大きな舞台をいっぱいにする程の力」「軽舟の急流を奔るがごとく、天馬空を征くかと感ぜらるるほどの颯爽」として、「烈々たる気魄が、五尺の短身から火花が散るようにさえ感じさせる」と記している。また野々村戒三は印象に残っている演能として、「自然居士」「車僧」「船弁慶」「藤戸」といった曲を挙げている。 能評家の坂元雪鳥は、伴馬の能について、以下のような評を残している。 「僧都頭巾ならぬ黒頭にて「後の世を」と立出でたる顔色憔悴形容枯槁したる流人の姿の憐れさ十分に表はれ、秋風袂を払ふの感あり」「更にしほしほと崩折れたるは其情趣筆に尽す可らず。森としたる満場玆(ここ)に至りて破るる如き喝采を以て酬いたり」(1908年(明治41年)5月「俊寛」) 「判官を打擲する辺から後の気が掛つた事は恐しい程であつた。その又男舞の面白さは何とも云へない。脇はお誂への宝生新、シテ、ワキ共に日本一の称を恣にせしめた」(1910年(明治43年)5月「安宅」) 「前シテの凄さは勿論、後シテの鮮かさ、何時も乍ら此爺さんには感心させられてしまう」(1910年(明治43年)6月「殺生石」) 「其舞の鮮やかさ、其人は飽くまで枯淡、其芸は飽くまで濃艶、其間に少しの矛盾がない所が、此人の斯界第一の人たる所である」(1910年(明治43年)9月「融 笏之舞」) 「伴馬の「百万」には聊か困つた。評しやうが無いのに困つた。何処と取立てて挙げる事が出来ない……際立つた所が無いといつても、こんな能は滅多に見られるものでは無い。これから考へると万三郎や六平太など、平常私の好な人々も何処が宜かつたと、其部分部分を列挙される間は、未だ未だ前途遼遠だなアと感ぜずに居られない」「伴馬の能の内で私が最も上品と感じた一つである」(1911年(明治44年)10月「百万」) 「威風四辺を払つて、是で八十の老人とは誰が眼にも見えなかつた」「イロエの打上げに車の轅を掴んだ時は本当に虚空へ引摺上げるのではないかと思ふ程の強烈な、何うして斯うも強い力が芸の上に表はれるものかと恐ろしい程であつた」(1913年(大正2年)7月「是界」) 一方で、甥の櫻間道雄は、伴馬の能はどこまでも「技術一辺倒」で、「巧技の駆使に一生をかけた」あまりに「巧技におぼれた」と言うべき側面があり、精神的な領域も含めた「芸術家」としては不足だったと批判している。喜多実も道雄に近い見解を示し、「彼の名声は比較的技術本位の曲に集って、動きの少ない、然し能としてもっとも高度とされる曲に薄い点は注目すべきである」として、ある批評家の「ひっきょう伴馬は左甚五郎ですよ」という発言を引いている。
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