その軍事的効果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 04:22 UTC 版)
当時他国から抜きんでていた行政組織、優秀な官僚と将校に裏打ちされたカントン制度により、プロイセンはその規模に不釣り合いな大きさの軍隊を構築することに成功した。王の即位の段階で、プロイセン軍はせいぜい4万前後の規模であったが、次代のフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の即位のときには倍の8万の兵力を有していた。これはドイツにおけるのどの大領邦よりも抜きんでて多く、オーストリアの10万に次ぐ規模であった。プロイセンは当時人口はヨーロッパで13位であったが、兵士数は第4位であったという。しかもその軍隊は質も優秀であった。これが大王の軍事的活躍の基盤となるのである。大王没時には兵士数は19万を数えた。 ただし、全兵士数における自国民の割合を増やすという目的には限界があった。というのも、兵士の数についてこれを満足するということはありえず、拡張を続ける軍隊に対してはカントン制度をもってしても十分な数の徴兵者を供給することができなかったからである。もしそれをあえて行えば貴族、農民を問わず地域社会の我慢の限界を超える恐れがあった。であるから、プロイセン軍の傭兵への依存は継続し、少ない時でも全兵士のうち3分の1を傭兵が占めたという。 プロイセンの成功は他国にも影響を与え、オーストリアなどはプロイセンとの戦争のあと、これに類似した制度を導入して軍事力の増大を図った。そしてカントン制度は、フランス革命で国民皆兵制が生まれ、ナポレオン戦争ののち、シャルンホルストらがプロイセンに一般徴兵制を導入するまで続いた。
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