解釈・評価
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「核兵器の威嚇または使用の合法性国際司法裁判所勧告的意見」の記事における「解釈・評価」の解説
一般的に違反 裁判所は、核兵器の威嚇または使用が国際人道法の原則・規則に「一般的に」違反することを明示し、2つの原則を挙げた。第1は、戦闘員と非戦闘員を区別を確立する原則で、非戦闘員たる文民を攻撃の対象としてはならず、逆に戦闘員と非戦闘員を区別することができない兵器は使用してはならないという原則である。第2は戦闘員に不必要な苦痛を与える兵器を使用してはならないという原則である。裁判所は核兵器の特性に鑑み、その甚大な破壊力により戦闘員と非戦闘員を区別することが困難で、攻撃対象を戦闘員に限ったとしても放射線により不必要な苦痛を与えうる核兵器の威嚇または使用が「一般的に」これらの原則に違反していると判断した。しかし、「一般的に」という修飾語は例外の存在、つまり核兵器の威嚇または使用が違法ではない場合の存在を示唆しているとも言える。例えば、攻撃対象を戦闘員に限ることができるように威力の小さい核兵器を開発した場合、そうした核兵器の威嚇または使用が合法となる可能性も考えられる。判事ヒギンズは反対意見の中で、そうした例外についての十分な検討をすることなくそのような表現を用いたことを批判している。 主文(2)Eの意味 主文(2)Eの解釈は難解である。あまりに難解であることから、主文(2)Eは混乱の極みであり裁判所の意図がつかめないという批判もある。第1文「核兵器の威嚇または使用は武力紛争に適用される国際法の規則、特に国際人道法上の原則・規則に一般的には違反するであろう」と、第2文「国家の存亡そのものが危険にさらされるような、自衛の極端な状況における、核兵器の威嚇または使用が合法であるか違法であるかについて裁判所は最終的な結論を下すことができない」の、一見不整合にも見える両文の関係をどのように解すればよいのか問題である。この2文を合わせて票決したこと自体が妥当であったのか疑問視する声もある。また、「国家の存亡そのものが危険にさらされるような、自衛の極端な状況」という概念は、それまでの国際法には見られなかった全く新しい概念で、通常の自衛権行使よりも厳しい要件が求められるのか、「一般的に違反」の例外的状況をひとつ挙げたにしか過ぎないのか、適用すべき法規が存在しないこと、いわゆる法の欠缺(non liquet)を認めたのかなど、解釈は大きく分かれている。 交渉完結義務 核拡散防止条約第6条には、「各締約国は、核軍備競争の早期の停止及び核軍備の縮小に関する効果的な措置につき、並びに厳重かつ効果的な国際管理の下における全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約について、誠実に交渉を行うことを約束する」と定められているが、主文(2)Fはこの第6条を確認したにしか過ぎないという解釈と、これをさらに推し進めて核軍縮交渉を「完結」させる義務まで述べている点が革新的であるという解釈とに分かれている。そもそも核軍縮交渉の点は、国連総会の諮問事項の範囲外であり、それにもかかわらず裁判所がこの点に言及したこと自体が注目に値する。
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解釈・評価
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20世紀前半の研究者黒板勝美は、書かれた時点の状況について「顕家の悲壮なる最意期が我々の心を強く打つ」と述べ、内容について「総て如何にも堂々たる、如何にも正理正論と云ふものを何処迄も押して行く」と評し、歴史的価値については、醍醐寺の国宝『過去現在因果経』よりもありがたいもの、と絶賛した。また、父の親房とは思想・文体ともに多くの共通点が見られることを指摘している。現存第2・5条の、後醍醐天皇の奢侈を批難する条項については、現況への直ちな改善案というよりは、京都奪還を前提とする未来を視野に入れた志を述べたものではないか、としている。 20世紀後半の研究者佐藤進一は、「憂国の至情を吐露した名文といわれている」と述べ、『二条河原の落書』と並ぶ率直な建武政権批判であり、現代の我々がどのように建武新政を評価すべきか考える上で、最も重要な資料の一つであると評価した。特に、顕家が人事制度に多く批判を述べていることを指摘し、後醍醐天皇が旧来の体制を一方的に破壊する非現実的な絶対的専制君主であったとする佐藤独自の観点から、北畠顕家は、家格門閥の維持が重要であり、律令制以来の天皇と貴族が互いに牽制し合う状況こそが政治に不可欠であると警告したのではないか、と解釈した。 21世紀初頭の研究者亀田俊和は、建武政権は鎌倉後期の政治体制を基盤として発展し、その改革事業も情勢を見据えた現実的な施策だったと主張しており、顕家の建武政権批判については、部分的には同意するものの、全面的な賛成はしていない。亀田は、現存第2・5条といった、後醍醐天皇の奢侈を糾弾する条項については、顕家に同意する。しかし、現存第1条(地方分権制の強化)については、後醍醐天皇は顕家が勧めた施策を既に積極的に行っており、しかも建武の乱の九州での敗因についても顕家の分析は余り正しくはないことから、顕家の批判は的外れであると評した。また、現存第5条(度重なる法令改革を戒める)については、建武政権の法令改革がその直後に混乱を招いたこと自体は同意するものの、後進の室町幕府や南朝の法制度の元になったことを指摘し、その歴史的意義については好意的に見ている。その他の条項について見ると、現存第3・4・7条に人事政策関連の不満があり、同様の趣旨は父の著作にも見られることから、保守的公家層の一員として、後醍醐天皇の先進的なシステムを受け入れられなかったのではないか、とした。
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解釈・評価
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ゴーゴリの初期作品は、主にエルンスト・ホフマンをはじめとするヨーロッパ・ロマン派の影響下にあり、概して明るいユーモアとロマン主義的な幻想性を特徴とする。古いロシア文学もゴーゴリに強い影響を与え、またスラブ神話からも多くのプロットを作り出した。 中期以降の作品では、地方地主たちの安逸な日常や、ペテルブルクの小役人・下層階級の人々の日々の生活の現実的で詳細かつ極めて誇張された描写から来る笑いと、それらの俗悪さ、空虚さ、卑小さへの作者の絶望と恐れから来る詠歎とが同居した独特の文体を特色とする。その笑いは『外套』の「人道主義的箇所」や、『死せる魂』第一部に顕著な抒情的詠歎などから、しばしば「涙を通しての笑い」と呼ばれる。 ゴーゴリ作品への評価にはロシア文化における西欧派とスラヴ派(民族主義派)の分裂・相克が映し出されている。帝政への不満を持つ急進的な知識人たちはゴーゴリの作品を醜悪な現実社会を映し「社会批判」「社会改革」を志向する「諷刺文学」として受け容れた。『鼻』や『外套』などに見られる空想的要素については厳しい検閲に対する目くらましとも言われた。 ところが現実の政治や社会問題に対するゴーゴリの見解は、評論や書簡、回想などから窺い知る限り、視野が狭く極めて保守的だった。生涯の大作となるべき『死せる魂』を書いた根底に一種の理想主義があったことは確かだが、それはロシアの体制それ自体の変革を志向するものでなく、第一部で主人公の過ちを、第二部でその矯正を描くことによって、ロシア民衆を道徳的に目覚めさせ、古き良きロシアを再生させようとするものであった。しかし人間の否定的で醜悪な面を誇張しグロテスクに描くことに長けたゴーゴリにとって、第二部の創作は手に余るものだった。そのため執筆は遅滞し、それとは裏腹にロシア民衆の教化とロシア再生への祈念は年を追うごとに大きくなっていった。晩年にはゴーゴリは『友人との往復書簡選』の発表によって宗教への狂信と体制への賛美を表明するに至る。この最後の著作はそれまでゴーゴリを体制批判者と信じてきた自由主義者ばかりか保守反動のスラヴ派の人々からも痛烈な批判を浴び、ゴーゴリの思想的推移を作品の解釈にどのように結びつけるかという点で、彼の作品に対する解釈の分裂を生じさせる原因ともなった。 西欧派・進歩派は、『死せる魂』第一部までのゴーゴリ前半生の作品群に笑いと諷刺による体制批判を読み取り、神秘思想・保守思想の見られる後半生作品群をあくまで宗教的迷妄による転向として切り捨てた。彼らはまたゴーゴリ晩年の復古的ユートピア思想の価値を積極的に認め、ゴーゴリの全作品に汎スラヴ思想が通底すると読み解くスラヴ派的読解が生じた。この解釈はベリンスキーの批評と相まってゴーゴリを自然派の代表者、ロシア・リアリズム文学の祖にして人道主義者であると見なすソ連公式見解へと繋がった。 一方ウラジーミル・ソロヴィヨフ、ニコライ・ベルジャーエフらは、そうしたイデオロギー的読解に対し20世紀初頭のロシア・フォルマニズム運動以降になって異議を唱えた。 その他、ドストエフスキーをはじめその後のロシア文学にゴーゴリが与えた影響はきわめて大きい。ゴーゴリは前述のように長らくロシア・リアリズム文学の祖とされたが、その作品の幻想性、細部の誇張、グロテスクの手法などが20世紀文学に与えた影響も重視されている。ドミトリー・メレジコフスキー、エヴゲーニイ・ザミャーチン、ミハイル・ブルガーコフ、アンドレイ・シニャフスキー(アブラム・テルツ)などはその伝統を強く意識していた。1920年代に、ホフマンの作品の登場人物の名を借りてつくられた文学サークル『セラピオン兄弟』は有名である。 ゴーゴリはまた日本文学にも強い影響を与えた。芥川龍之介の『芋粥』は導入部分が『外套』に酷似しているほか、宇野浩二の饒舌体、後藤明生の『笑い地獄』『挟み撃ち』など、ゴーゴリの小説作法に学んだ作品が数多く存在する。
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解釈・評価
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マルキ・ド・サドを日本に紹介した人物とされているが、実際には澁澤以前にサドの翻訳、式場隆三郎による評伝の翻訳、紹介があった。澁澤は1959年に現代思潮社から、サドの『悪徳の栄え(続)』を翻訳出版したが、1960年4月に、同書が性表現を理由に発禁処分を受けた。その際、三島由紀夫から、同年5月16日付の葉書で「今度の事件の結果、もし貴下が前科者におなりになれば、小生は前科者の友人を持つわけで、これ以上の光栄はありません」と激励の言葉を贈られた。 人間精神や文明の暗黒面に光を当てたエッセイが世間に与えた影響は大きい。小説家としても独自の世界を開く。下記の著作でエロティシズムを追究し、沼正三のSM小説『家畜人ヤプー』を絶賛した事でも知られている。 「エロティシズム」「幻想文学」関連の編著も多く出した。 責任編集を務めた雑誌として以下がある。澁澤龍彥編 『血と薔薇 エロティシズムと残酷の綜合研究誌』(全3号、復原版/白順社、2003年)2005年に河出文庫 全3冊、なお第4号まで発行されたがこの号は平岡正明が編集した。 難解だといわれるジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』の邦訳の中でも、訳文の正確さは別として、澁澤訳は読みやすいとの定評がある[要出典][誰によって?](『バタイユ著作集 7』二見書房、のち河出書房新社『翻訳全集 13』に収録)。
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