解釈・研究史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:15 UTC 版)
720年に完成した『日本書紀』には「三韓征伐」によって朝鮮は日本の従属国に入ったと記録されている。『日本書紀』の記述は、江戸時代に入ると国学研究の中で三韓征伐、およびそれを大義名分の一つとした文禄・慶長の役を肯定的にとらえる論説(山鹿素行『武家事紀』など)がある。 戦前戦中を通じて、小学校で配布された国定教科書などで三韓征伐は史実として教育された。 津田左右吉は実証的歴史学の観点から、記紀を研究したが、1939年(昭和14年)に津田が『日本書紀』における聖徳太子関連記述についてその実在性を含めて批判的に考察したことについて、蓑田胸喜・三井甲之らが不敬罪として攻撃した。政府は、1940年(昭和15年)2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発禁処分にした。同年に文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。津田と出版元の岩波茂雄は出版法違反で起訴され、1942年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、1944年(昭和19年)に時効により免訴となった。これは津田事件ともいわれるが、この裁判について津田自身は「弾圧ではない」と後に述べており、事件の実態について研究がすすめられている。 戦後史学はマルクス主義の影響を受けた唯物史観の擡頭により、戦前戦中の皇国史観は排除され、津田による説話論も見直され、神功皇后の存在は後世に再構成されたものとされた。また津田左右吉による分析は「津田史観」ともいわれ、戦後主流となり、皇国史観や記紀を批判または否定するために援用されることがあった。津田自身はそうした潮流について誤解があるとし、また皇室(天皇制)を批判するために津田の学説が政治的に利用されることについて津田は批判しており、天皇制と民主主義は矛盾しないと主張している。津田自身は近代的な実証史学を展開したのであり、記紀を「否定」する動機がなかったといわれる。
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