津田事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:40 UTC 版)
1939年(昭和14年)、津田が記紀の文献学的考証を行い、記紀神話や『日本書紀』における聖徳太子関連記述についてその実在性を含めて批判的に考察した。特に問題になったのは『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』であった。この2冊は神典とされてきた古事記と日本書紀の文献的批判を行ったものである。 津田が指摘したのは、おおよそ次の諸点である。 古事記と日本書紀の元になったのは、皇室系譜の「帝紀」と、宮廷で伝わってきた説話の集合体の「旧辞」である。 帝紀と旧辞が成立したのは、6世紀の継体天皇~欽明天皇の時期である。 帝紀の系譜は全て史実ではなく、少なくとも15代応神天皇より以前(14代仲哀天皇や13代成務天皇以前)の天皇は創作された非実在の人物である。 旧辞の大部分、特に神話の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説く為に造作されたもので、史実的な資料価値は全く無い。 このことについて、蓑田胸喜や三井甲之らが津田を「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」として不敬罪にあたるとして攻撃した。 政府はこれを受け、1940年(昭和15年)2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発禁処分とした。同年1月に文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。 津田と出版元の岩波茂雄は同年3月に「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で東京地方検事局の取り調べを受け、同月8日に起訴、不拘束のまま予審に回附された。1942年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、1944年(昭和19年)に時効により免訴となった。津田事件また津田左右吉事件ともいう。 ただしこの裁判については、津田自身は「弾圧ではない」と後に述べており、事件の実態について研究がすすめられている。
※この「津田事件」の解説は、「津田左右吉」の解説の一部です。
「津田事件」を含む「津田左右吉」の記事については、「津田左右吉」の概要を参照ください。
- 津田事件のページへのリンク