北畠顕家上奏文とは? わかりやすく解説

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北畠顕家上奏文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/22 04:01 UTC 版)

北畠顕家上奏文』(きたばたけあきいえじょうそうぶん)は、南北朝時代南朝公卿鎮守府大将軍北畠顕家後醍醐天皇上奏した文。『顕家諫奏』(あきいえかんそう)とも。延元3年/暦応元年5月15日1338年6月3日)跋で、顕家が石津の戦い室町幕府執事高師直に敗れ戦死する一週間前に当たる。建武政権・南朝の政治における問題点を諫めたもので、文章の悲壮美と父の北畠親房を髣髴とさせる鋭敏な議論を併せ持つことから、南北朝時代を代表する政治思想文とされる。内容は、特に人事政策(例えば恩賞として官位を与える政策)に対する批判が現存箇所の半分近くを占め、その他では首都一極集中を批判し地方分権制を勧める条項が重要である。現存文書は『醍醐寺文書』に含まれ、原本ではなく草稿をさらに応永(1394–1428年)初頭頃に写したものと思われるが、前半部に欠損があり、7条と跋文のみが残る(うち1条は断片)。


注釈

  1. ^ なお、佐藤進一の主著『南北朝の動乱』で本項目を解説する節「顕家の諫奏」では、現存第1条の断片について、その存在自体に言及されず、全6条として扱われているが[3]、その後の節「南朝勢力の再建計画」で現存第1条の内容についても言及される[16]
  2. ^ 足利尊氏が建武政権下で鎮西指揮権(九州での指揮 権)を担っていたことは、1978年に網野善彦によって指摘され、伊藤喜良・森茂暁らもこれを実証・支持した[24]
  3. ^ a b c d e f 各条項の訓読文は佐藤進一[3]に拠る。
  4. ^ 日本書紀』に、仁徳天皇は何年ものあいだ課税労役を止め、宮殿の屋根が雨漏りしても意に介しなかったという伝説が描かれている。
  5. ^ 南北朝時代までは、官人の家柄に無い者は、成功(じょうごう)といって、朝廷・寺社の行事や修繕費を肩代わりする見返りとして官位を得ていた[30]
  6. ^ ただし佐藤進一以降の研究では、市沢哲を始め、「官司請負制破壊」という政策があったかについて疑問視する研究者らもいる[33]
  7. ^ 原文「可被厳法令事
    右法者理国之権衡、馭民之鞭轡也、近曽朝令夕改、民以無所措手足、令出不行者不如無法、然則定約三之章兮如堅石之難転、施画一之教兮如流汗之不反者、王事靡盬民心自服焉」[6]
  8. ^ 原文「可被除無政道之益寓直輩事
    右為政有其得者、雖蒭蕘之民可用之、為政有其失者、雖閥閲之士可捨之、頃年以来卿士官女及僧侶之中、多成機務之蠧害、動黷朝廷之政事、道路以目衆人杜口、是臣在鎮之日、所耳聞而心痛也、夫挙直措枉者聖人之格言也、正賞明罸者、明王之至治也、如此之類、不如早除、須明黜陟之法、闢耳目之聴矣」[13]
  9. ^ ただし、円観はこのとき北朝側のため、建武政権時代のことを含めての批難であるとも考えられる。
  10. ^ 原文「陛下不従諫者、泰平無期、若従諫者、清粛有日者歟、小臣元執書巻、不知軍旅之事、忝承綍詔、跋渉艱難之中、再挙大軍、斉命於鴻毛、幾度挑戦、脱身於虎口、忘私思君、欲却悪帰正之故也、若夫先非不改、太平難致者、辞符節而逐范蠡之跡、入山林以学伯夷之行矣、以前条々所言不私、凢厥為政之道、致政之要、我君久精練之、賢臣各潤餝之、如臣者後進末学、何敢討議、雖然粗録管見之所及、聊攄丹心之蓄懐、書不尽言、々不尽意、伏冀照上聖之玄鑒、察下愚之懇情焉、謹奏 延元三年五月十五日 権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍源顕家」[40]

出典

  1. ^ a b 黒板 1939, p. 617.
  2. ^ a b 黒板 1939, p. 619.
  3. ^ a b c d e f g 佐藤 2005, pp. 109–114.
  4. ^ a b c d e f g h i j 黒板 1939, pp. 621–624.
  5. ^ a b c d e f 黒板 1939, pp. 627–628.
  6. ^ a b c d e f 黒板 1939, pp. 629–630.
  7. ^ 黒板 1939, pp. 609–617.
  8. ^ a b 黒板 1939, p. 621.
  9. ^ a b 亀田 2014, pp. 171–175.
  10. ^ a b 黒板 1939, pp. 609–616.
  11. ^ a b c 黒板 1939, pp. 608.
  12. ^ a b 黒板 1939, p. 620.
  13. ^ a b c d 黒板 1939, p. 630.
  14. ^ 黒板 1939, p. 631.
  15. ^ a b c d e f g h 黒板 1939, pp. 624–625.
  16. ^ 佐藤 2005, pp. 192–193.
  17. ^ 亀田 2014, p. 208.
  18. ^ 亀田 2014, pp. 167–171.
  19. ^ 亀田 2014, pp. 168–170.
  20. ^ a b c d 亀田 2014, pp. 167–168.
  21. ^ a b 亀田 2014, pp. 170–171.
  22. ^ a b 亀田 2014, pp. 173–175.
  23. ^ a b c 亀田 2014, pp. 172–173, 199–201, 208.
  24. ^ 吉原, 弘道「建武政権における足利尊氏の立場 : 元弘の乱での動向と戦後処理を中心として」『史学雑誌』第111巻第7号、2002年、35–59,142–143、doi:10.24471/shigaku.111.7_35 
  25. ^ a b c d 佐藤 2005, pp. 110–111.
  26. ^ a b 亀田 2014, pp. 168–169.
  27. ^ a b c d 黒板 1939, pp. 625–626.
  28. ^ a b 佐藤 2005, p. 111.
  29. ^ a b 亀田 2014, pp. 169–170.
  30. ^ 時野谷滋「成功」『国史大辞典吉川弘文館、1997年。 
  31. ^ 呉座勇一「第五章 指揮官たちの人心掌握術>親房の「失敗の本質」」『戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか』新潮社、2014年。ISBN 978-4106037399 .
  32. ^ a b c d 佐藤 2005, pp. 111–112.
  33. ^ 中井裕子 著「【建武政権の評価】1 朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった!」、日本史史料研究会; 呉座勇一 編『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』洋泉社〈歴史新書y〉、2016年、24–42頁。ISBN 978-4800310071 . pp. 37–39.
  34. ^ a b c 黒板 1939, p. 629.
  35. ^ a b c 佐藤 2005, p. 112.
  36. ^ 佐藤 2005, pp. 29–31.
  37. ^ 佐藤 2005, pp. 103–104.
  38. ^ 亀田 2014, pp. 31–32.
  39. ^ 亀田 2014, p. 171.
  40. ^ a b 黒板 1939, pp. 620–621.


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