6. 法令を厳にせらるべき事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 08:03 UTC 版)
「北畠顕家上奏文」の記事における「6. 法令を厳にせらるべき事」の解説
現存第6条は、「可被厳法令事」(「法令を厳にせらるべき事」)で、法令をおごそかにすべきことを主張している。 法の運用は国を治める基本であり、近年の法令改革を繰り返して朝令暮改で混乱した状況では「法無きにしかず」(法律がない方がましである)と厳しく批判し、漢高祖の「法三章」の逸話(秦始皇帝の複雑な法体系とは違い、「殺人・傷害・窃盗」のみを禁じた単純で運用のしやすい法律)のように簡明で、堅い石を転ばすことが難しいように、ゆるぎない堅固な法を作るべきである、と述べる。 黒板勝美は、親房の『神皇正統記』で、泰時や後醍醐天皇を評する段落にも同様の思想が現れていることを述べ、「また上古はこの法よく固かりしにや」と法律を硬さに比喩する点でもよく似ていて、思想・文体ともに父親からの影響が大きいことを指摘している。 佐藤進一は、後醍醐天皇が「綸旨万能主義」(綸旨=「天皇の私的な命令文」によって全てを独裁的に決める主義)を理想とする非現実的政治家だったと唱え、建武の新政はそれが挫折していく過程で、のちには下部機関雑訴決断所で綸旨の検証手続きが必要とされる法令が突然定められる(=綸旨の無謬性が減る、つまり天皇の言葉は絶対に正しいという権威が減ってしまう)など、朝令暮改を繰り返して天皇の権威が衰えていったのだと否定的に捉えた。そして、この条項についても、綸旨の権威が失墜していく様を顕家が批判したものだと解釈した。 亀田俊和もまた、所領政策の頻繁な変更や、矛盾する綸旨が出回って混乱が起きたことを顕家は指摘したのだとする。ただし、亀田は佐藤(および顕家)とは違い、後醍醐天皇の法令改革の歴史的意義については好意的に見ている。前述の「綸旨万能主義の衰退」という佐藤説についても、亀田の説では、建武政権初期の綸旨乱発は別に万能を目指したものではなく、あくまで緊急的な措置であり、雑訴決断所こそが綸旨への補完機構として本来後醍醐天皇の意図したもので、綸旨の衰退ではなく発展の過程であるという。そして、前後の歴史との比較における位置づけとしても、「鎌倉後期の法制→後醍醐天皇の雑訴決断所のシステム→高師直の初期室町幕府のシステム」という風に、法の発展経過を見ることができ、後醍醐天皇の改革は時代の流れに沿ったもので、かつ後進に受け継がれているのであるという。しかしながら、こうした改革は数年で直ちに目に見えて効果が現れるような速効性のあるものではなかったため、このように同時代人からは批判的に見られてしまったのではないか、と推測した。
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