父親からの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 02:31 UTC 版)
敬一は、「空中を飛ぶ飛行機は、地球の引力の法則で墜落もあり得る事は否定できない、これに対して航空乗員の参加を勧める仕事に携わるためには、自分の子供3人の内ひとりは航空事業に参加せしむる事が必要」という信念で、次男真を14歳(1938年(昭和13年))から美津濃グライダー製作所に入社させ、滑空機の製造や滑空機操縦訓練につかせた。その後敬一も設立に参画し、母体となる乾卯薬品工業株式会社が滑空機の製造に参入を計り、乾滑空機工業を立ち上げるように準備を始めていた。真も入社予定となり関連会社前田航研(乾滑空機工業は開業後、前田航研傘下になる予定)に技術見習いとして乾滑空機工業から派遣された3名の内の1人として、福岡の前田技研に行くことになったが、数ヶ月後作業中の手の負傷で実習途中で1人帰阪した。乾滑空機工業は、三重県伊賀上野に工場用地を購入、製作機械も1部購入し人材の手配など準備は進んでいたが、終戦によりくしくも解散となった。 1941年(昭和16年)10月、父・敬一は、真が派遣されていた前田航研より作業中の手の負傷で帰阪後、毎日新聞社の航空部に就職させて、この仕事に従事させる事となった。
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