作家・文化人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:18 UTC 版)
三島と近しかった友人や同じ思想の系譜に連なる作家や評論家らは、三島事件の意味を「諌死」と捉えた。三島と異なる思想傾向の作家らも、三島が思想を超え、公平な審美眼で文芸批評をしていたことに対する畏敬の念から、現場での川端康成のコメントのように、その稀有な才能の喪失を純粋に惜しむ声が多かった。その一方、あくまでも思想的反対や反天皇の姿勢から、三島の行動を「錯誤の愚行」と批判する山田宗睦などの評論家や、軍国主義化を警戒する野間宏のような、当時の「戦後文化人」の一般的意見を反映するものも多かった。 司馬遼太郎は、三島の「薄よごれた模倣者」が出ることを危惧し、三島の死は文学論のカテゴリーに留めるべきものという主旨で、政治的な意味を持たせることに反対し、野次った自衛官たちの大衆感覚の方を正常で健康なものとした。 柴田翔は、「直感的にナルシズムを感じて腹が立った」、「若い人たち、特に新左翼の人たちには、動揺などしないでほしい。死の哲学による自己破壊が大事なのか、人間として生き続けることが大事なのか、自分の原理がどちらにあるのか、互いによく踏みとどまって考えなければならない時だろう」と語った。 中野重治は、「佐藤も中曽根も、こんどの『楯の会』を前髪でつかんだ」とし、三島事件を「狂気」化することにより、逆に自衛隊が合理的理性的なもの、市民的常識に違反しない非暴力集団かのような印象を社会に喧伝する機会として政治家が利用したと批判した。 小林秀雄は、「右翼といふやうな党派性は、あの人(三島)の精神には全く関係がないのに、事件がさういふ言葉を誘ふ。事件が事故並みに物的に見られるから、これに冠せる言葉も物的に扱はれる」とし、事件について様々な「講釈」を垂れ批判する人間には、「事件を抽象的事件として感受し直知する事」が容易でないとした。 実は皆知らず知らずのうちに事件を事故並みに物的に扱つてゐるといふ事があると思ふ。事件が、わが国の歴史とか伝統とかいふ問題に深く関係してゐる事は言ふまでもないが、それにしたつて、この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負ひ込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。さうでなければ、どうして確かに他人であり、孤独でもある私を動かす力が、それに備つてゐるだらうか。 — 小林秀雄「感想」 村松剛は、作家としての地位も家族にも恵まれ、生きていれば、いずれノーベル文学賞を受賞する可能性が大いにあった三島が、その全てを押し切って行動した意義を、「〈昭和元禄〉への死を以てする警告」とし、林房雄も追悼集会で、三島が、自衛隊を本来の「名誉ある国軍」に帰れと呼びかけ、「死をもって反省を促した」諌死だとした。 橋川文三は、三島の戦前からの精神史を踏まえた上で、三島の「狂い死」を、高山彦九郎、神風連、横山安武、相沢三郎や、「無名のテロリスト」の朝日平吾や中岡艮一と同じように位置づけた。少年時代の三島に影響を与えた保田與重郎は、「森田青年の刃が、自他再度ともためらつたといふ検証は、心の美しさの証である。やさしいと思ふゆゑにさらにかなしい」、「三島氏は人を殺さず、自分が死ぬことに精魂をこらす精密の段どりをつけたのである」と哀悼し以下のように語った。 怖れた者は狂と云ひ、不安の者は暴といひ、またゆきづまりといひ、壁に頭を自らうちつけたものといつたりしてゐる。想像や比較を絶した事件として、国中のみならず世界に怖ろしい血なまぐさい衝動を与へた点、近来の歴史上類例がない。その特異を識別することは怖れをともなふ故に、それを無意識にさけて、政論的類型的に判断する者は、特異のふくんでゐる創造性や未来性や革命性に恐れる、現状の自己保全に処世してゐる者らである。創造性以下のことばは、イデオロギーや所謂思想と無縁の人の生命の威力そのものである。 — 保田與重郎「天の時雨」 高橋和巳は、三島と思想的立場は違いながらも、「悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい」、「もし三島由紀夫氏の霊にして耳あるなら、聞け。高橋和巳が〈醢をくつがえして哭いている〉その声を」と哀悼した。武田泰淳は、「私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません」とコメントし、大岡昇平は、「ほかにやり方はなかったものか。……なぜこの才能が破壊されねばならなかったのか」と無念さを表明した。 倉橋由美子は、三島の行動や死を非難したり否定したりするのに躍起になっている人間たち(おもに同業者の作家)を、恐怖が大きすぎて吠えることしかできない弱い犬に喩え、彼らの言葉は「自己防衛」のための喋りであり、人として生き続けることが大事だとかのその物言いは、自分の欲するように死ぬことのできた天才にとっては「ほとんど耳を籍すに足らぬ言葉」だと述べている。また、もっと生きていればもっといい仕事ができたのにとか、あるいは、文学の仕事に行き詰まってああした行動に走ったという説を唱えたりする作家に対しては、自分たちが作家・文学者であることが特別な資格や存在でもあるかのような(すべて文学のためにあるかのような)物言いをしているとし、「三島氏が同業者たちとのおつきあいにつくづく厭気がさしていた気持」がよく分かると語っている。 ひとつの稀有な文才の消滅を惜しむのはよいが、生きていればまだよい作品が書けたのにといういいかたには、金の卵を生む鶏の死を惜しむのに似たけち臭さがある。三島氏の作品がもっと多ければそれだけ日本の文化遺産だか何だかのの量がふえるのに、というのがそもそも俗悪な考えかたなので、三島氏がその行動によって示したのが、文化とはどういうものであるかということなのだった。 — 倉橋由美子「英雄の死」 中井英夫は、三島の死を短絡的に異常者扱いする風潮を批判し、「ただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか」と嘆いた。森茉莉は、「首相や長官が、三島由紀夫の自刃を狂気の沙汰だと言っているが、私は気ちがいはどっちだ、と言いたい」として、以下のように語った。 現在、日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。(中略)滑稽な日本人の状態を、悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か? このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。 — 森茉莉「気ちがいはどっち?」 石川淳は、天皇思想の三島が、「武士」という強い観念を持って剣術を始め、陽明学という行動哲学を持ったことが決定的であり、「ムダを承知」の死への跳躍となったのは、楯の会という「集団の組織」の一員となり「錬成の形式」を取ったことが大きいとし、「もはやたかが思想とはいえない。すでにして、思想は信念であって、組織は微小にしても、ともかく現実にはたらきかける力であった」と捉え、「わたしもまた発するにことばなく、感動に深く沈むばかりである」と追悼した。 吉本隆明は、三島と同じ戦中戦後を通った世代の人間として、事件の衝撃を自身への問いとして語った。 三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。これは衝撃である。この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを〈コケ〉にみせるだけの迫力をもっている。この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの〈檄文〉や〈辞世〉の歌の下らなさ、政治的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写させるような所にあらわれている大向うむけの〈醒めた計算〉の仕方等々の奇妙なアマルガムが、衝撃に色彩をあたえている。そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。〈どこまで本気なのかね〉。つまり、わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。そしてこの答は一瞬〈おまえはなにをしてきたのか!〉と迫るだけの力をわたしに対してもっている。 — 吉本隆明「暫定的メモ」 磯田光一は、三島事件は、死後に浴びせられる様々な罵詈雑言や批判を知った上の行為であり、「戦後」という「ストイシズムを失った現実社会そのものに、徹底した復讐をすること」だったとし、三島にとって天皇とは、「存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものか」で、「“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョン」だと捉えた。 たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、 それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。 — 磯田光一「太陽神と鉄の悪意」 谷口雅春(生長の家創始者)は、明治憲法復元を唱え、その著書『占領憲法下の日本』において、三島に序文の寄稿を依頼している。また、事件に参加した古賀浩靖と小賀正義が生長の家の会員であり、三島が事件直前の11月22日(谷口雅春の誕生日に当たる)に谷口宅と教団本部に会いたい旨の電話を入れている。面会が叶わず「ただ一人、谷口先生だけは自分達の行為の意義を知ってくれると思う」と遺言を残したとされる。谷口は後に『愛国は生と死を超えて―三島由紀夫の行動の哲学』を上梓し「この谷口だけは死のあの行為の意義を知っていてくれるだろうと、決行を伴にした青年たちに遺言のように言われたことを考えると、三島氏のあの自刃が如何なる精神的過程で行われ、如何なる意義をもつものであるかについて、私が理解し得ただけのことを三島氏の霊前に献げて、氏の霊の満足を願うことが私に負わされた義務のような気もするのである」と述べ、三島の自刃がクーデターではなく、後世の人々の為の自決であり、吉田松陰の処刑された日(旧暦の10月27日は西暦の11月25日に当たる)に合わせて計画したものであると語っている。
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