作家、映画監督として
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「レナルト・メリ」の記事における「作家、映画監督として」の解説
1958年、メリは中央アジアに旅行し、天山山脈、カラクム砂漠などを訪れた。旅行後に最初の著書を著し、広い読者の共感を得た。父ゲオルグがソ連当局によって3度目の逮捕を受けるが、メリは著作によって収入を得ることができた。しかし生活は苦しく、タクシー運転手をしていた弟の援助によって一家は生計を立てて、メリは研究を終えることができた。映画『銀河の風』(Linnutee tuuled)は、フィンランドとハンガリーの協力で撮影された。ソ連国内では上映禁止となったが、ニューヨーク映画祭で銀メダルを受賞した。メリの映画や著作は、フィンランドの学校で教材として使用されるようになった。1986年にヘルシンキ大学から名誉博士号を受ける。1963年には既にエストニア作家同盟会員、1970年代にはフィンランド文学協会名誉会員に推戴されていた。 1964年、カムチャツカ半島の記録映画『火の山脈の大地へ』(Tulemägede Maale)を制作した。この映画の撮影スタッフには、地質学者、植物学者、写真家らも参加した。また、メリは紀行文も物し、1974年に『北極光の門で』(Virmaliste Väraval)を著してソ連国内でも高い評価を得、1977年にフィンランド語に翻訳されている。当書においてメリは歴史的視野に基づいて現代を展望し、ジェームズ・クック、ヨハン・フォースター、フェルディナント・フォン・ウランゲル、ダール、ゾイエル、アレグザンダー・フォン・ミッデンドルフ、ジョン・ダンダス・コクラン(英語版)、その他の探検家を題材として扱っている。 1976年、メリの最高著作との評価を受ける"Hõbevalge"を著した。当書の中でメリはエストニア並びにバルト海沿岸諸国の歴史の復元を試みた。そして、エストニア語が含まれるフィノ・ウゴル語派・バルト・フィン諸語について、そしてエストニア人とフィンランド人、そしてハンガリー人(マジャル人)の言語的親和性について研究を進めた。 1988年、ヨーロッパとの文化交流やエストニア人学生の外国留学を目的とした非政府系民間学術機関・エストニア研究所を創設した。
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