旅行後
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旅行後、ブライは時の人となり、ジュール・ヴェルヌも祝福の言葉を送った。ブライは行く先々で話題の中心となった。ブライの名を冠した競走馬や列車、ミュージカルの曲もあった。ブライの名をつけたグッズも登場し、ネリー・ブライ帽子、ネリー・ブライドレス、ネリー・ブライノート等が販売された。なかでも、ルーレットを回してブライの旅程に沿ってコマを進めるボードゲーム「ネリー・ブライと世界一周」は人気を博した。 ブライはアメリカ中を講演旅行に出かけ、世界一周について書いた本『七十二日間世界一周(英語版)』も出版された。一方ブライは、ワールド紙は自分の貢献に見合うだけの見返りを与えていないと感じるようになり、ワールド紙との仲が険悪になり、退職した。代わりに週刊誌「ニューヨーク・ファミリー・ペーパー」と契約してフィクションを連載した。1890年11月にはニューヨークの住居を引き払って、ホワイトプレインズの農家を借りて母と住むようになった。ブライの書いたフィクションはあまり話題にならず、旅行から1年でかつての人気は影を潜めた。 1893年9月、ワールド紙はブライの職場復帰を依頼し、ブライはそれに応じた。復帰後は、無政府主義者エマ・ゴールドマンの記事を書いた。当時ゴールドマンは暴動扇動のかどで投獄されていたが、ブライの記事はゴールドマンに対して好意的な記述がなされている。この他、プルマンで起こったストライキによる騒動などを取材した。
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旅行後
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「モーツァルト家の大旅行」の記事における「旅行後」の解説
モーツァルト一家が旅行で得た収益が実際にいくらであったにせよ、彼らはゲトライデガッセの窮屈なアパートに住み続け、レオポルトは宮廷音楽家としての業務へと戻った。しかしながら、ヴォルフガングの続く6年間の生活は旅と公衆の面前での活動が支配することになる。1767年9月、一家は今度はウィーンへと向かい、1769年1月までそこに留まった。これは天然痘の大流行から逃れなければならなかったのとは、また別である。同年12月、レオポルトとヴォルフガングはイタリアへと赴いた。この時すでに18歳になっていたナンネルはもはや驚異の子どもとして登場するわけにもいかず、旅には加わらなかった。彼らは6か月家を空けた後、1771年8月からミラノに5か月滞在してヴォルフガングのオペラ『アルバのアスカーニョ(英語版)』の練習と本番に立ち会った。3回目で最後となるイタリア行きは1772年10月から1773年3月までのことで、これは最後の大きな旅行にもなった。新たにザルツブルクの領主司教となったヒエロニムス・フォン・コロレド(英語版)伯爵は宮廷音楽家の任務についての考えが前任者と異なっており、レオポルトと、この時には宮廷に雇われていたヴォルフガングがかつて謳歌したような自由を制限したのであった。
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