作家、歌手、タレント、政治家として
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「野坂昭如」の記事における「作家、歌手、タレント、政治家として」の解説
一方、雑誌等でコラムも発表し、1962年に刊行した『プレイボーイ入門』で「元祖プレイボーイ」として脚光を浴びる。また、ブルーフィルムを集めて自宅で上映することも、趣味兼副業として行っており、その体験から書いた小説『エロ事師たち』で1963年に作家デビューする。 1967年には、『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞受賞。また、社会評論も多数執筆するようになり、「焼跡闇市派」を名乗り、その体験から既存の右翼・左翼それぞれを批判していく評論活動を行う。1970年には言論出版妨害事件の表面化に伴い、他の作家とともに創価学会系の出版物への執筆拒否を表明。「潮」に連載していた小説の連載を打ち切った。 また、講談社の編集者・大村彦次郎と「酔狂連」というグループを結成。メンバーは、当時の若手作家である筒井康隆、田中小実昌、長部日出雄、小中陽太郎、泉大八、滝田ゆう、後藤明生、佐木隆三、阿部牧郎、華房良輔、黒田征太郎、吉村平吉、揚野浩、村松博雄、安達瞳子(華道家)、金井美恵子ら。「中華そばの屋台の引き方」や「チャルメラの吹き方」を習うなど、まさに酔狂な遊びをした。 作家としてはその後、1985年『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ』で講談社エッセイ賞受賞、1997年に『同心円』で吉川英治文学賞受賞、2002年に『文壇』およびそれに至る文業で泉鏡花文学賞を受賞。 1972年、編集長を務めていた月刊誌『面白半分』7月号に「四畳半襖の下張」(永井荷風著)を掲載。同年8月21日、刑法175条「猥褻文書の販売」違反で書類送検された。1973年2月21日に起訴。1976年4月27日、東京地裁にて有罪判決(罰金刑)。1980年11月に最高裁は上告を棄却し、有罪が確定している。 この頃、今東光を会長とする無頼派作家の集まり「野良犬会」のメンバーとなる。副会長柴田錬三郎、メンバーに、黒岩重吾、戸川昌子、吉行淳之介、井上ひさし、梶山季之など。 また、1970年代、ラグビー日本代表だった原進との親交があり、近鉄ラグビー部社員を退職後、野坂が主宰した草ラグビーチームのコーチを務めたのち、プロレスラーとして国際プロレスに入団・デビューするにあたり、「阿修羅・原」のリングネームを命名したこともあった。 1983年6月の第13回参議院議員通常選挙に、第二院クラブの比例代表名簿1位として出馬し、同党が1議席を得たことで参議院議員に当選した。しかし当選から約半年後に、田中角栄がロッキード事件の1審公判において実刑判決を受けたことをきっかけとしておこなわれた12月の第37回衆議院議員総選挙に出馬するために議員を辞職。 この間、野坂が国会で発言した会議は内閣委員会が1度、災害対策特別委員会が2度である。このうち、8月11日の災害対策特別委員会では、質問の順番が最後だったことと、そこまでの質問に対する政府答弁への不満(「天才的要領を得ないお返事」と表現している)から、「いまさら僕が質問を重複してみても、新しい見解とか具体的な方策を引き出すことはとても無理だと思いますので、僕自身は質問を取りやめます」と質問をしなかった。また、10月19日の同委員会では国土庁長官の加藤六月の答弁中に「建設省に伺いたい」と発言、答弁が終わるまで待つように委員長から求められると「延々とあんなこと聞いていたってしようがない。だから僕は建設省に伺いたいわけです」と答えた。この質問では、野坂は火山噴火のあった三宅島の議員視察に同行したことに言及し、視察が形式的なものだったことを批判して「やめた方がいい」と述べている。 総選挙では野坂は、田中角栄に挑む形で同じ新潟3区から立候補し、全国的な注目を集めたが、遊説中に暴漢に斬りつけられるアクシデントにも見舞われ、22万票余りを獲得した田中を脅かすには至らず、他の改選候補の議席も奪えずに落選した。 2009年、新潟市が主催する安吾賞の新潟市特別賞を受賞した。
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